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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
39/222

4  女官 マチン

 アッサカを連れてアショーカのいる太守室に向かうミトラは、キャッキャッと騒ぐ女官達の一団とすれ違った。


「あなたったらまた転ぶフリをしたわね」

「あなたの方こそ留めをつけるフリをして抱きついたりして! ずるいわ」

「だって素敵なんだもの。

 あの逞しい腕に抱きしめられてみたいわ」

「ゴドラ太守もその前の太守も年取った気味の悪いじじいだったものね」

「それに比べてアショーカ様は若く雄々しく、ため息の出るような美丈夫の方」

「この幸運を逃してはダメよ。

 私、絶対アショーカ様を落として見せるわよ」

「あら、私だって。

 私が抱きつくと照れてらっしゃったわ。

 脈ありだと思うもの」

「何を言うの。私に鼻の下をのばしてらしたのよ。

 ヒジム様がおっしゃってたわ」

「あれは私の事よ」

「いいな二人共。

 私はそこまで積極的に出来ないから給仕係が良かったわ。

 少しでも長くお側にいられるもの」

「今度代わってもらいましょうよ」


 深くヴェールをかぶったミトラに気付かず、楽しげに通り過ぎてゆく女官達を、アッサカは困ったように見送った。


 ミトラが少し動揺しているのが分かる。


 さっきの暴言を早いうちに取り消して謝っておきたいと面会を望んだが、却ってややこしい事にならねば良いがとアッサカは危ぶんだ。




「おお、ミトラ。ここに座れ」

 部屋に入るとアショーカは怒った風でもなく、快く迎えてくれた。


 少食のミトラの百人分はありそうな料理とお酒。

 それを囲むようにサヒンダ、トムデク、ヒジムがくつろいで座っていた。

 アショーカの後ろにはどんな所望にもすぐに答える覚悟で侍従長が控えている。

 そして十人ほどもいる女官達が甲斐甲斐しく食事の世話を焼いている。


 みな完璧な化粧をほどこし、色とりどりのサリーを着てヴェールを被っている。

 一人だけヴェールを外した、少し……いや、かなりふくよかな女官が目に付いた。

 若いが化粧もせずにニコニコと丸い顔でアショーカの隣りに座している。

 その屈託のない笑顔に少しほっとする。


 ミトラはヴェールを外しアショーカの横に立った。


「食事時にすまない。

 さ、さっきの失言を謝りたかっただけだから……。

 その……意味を勘違いしていたのだ。

 ご……ごめんなさい」


「勘違い? ではどういう意味だと思って言ったのだ」


 アショーカの問いかけに、ヒジムが波乱の予感を期待してミトラを見つめる。


「そ、その……こちらが恥ずかしくなるような……とか。

 色っぽいというか色情……」

 言いかけた所で「ミトラ様っ!」とアッサカが青ざめた顔で止めに入った。


 ヒジムは堪えきれずにもう腹を抱えて笑っている。


 トムデクは穏やかに微笑んで、サヒンダは迷惑そうに睨み付けていた。


「それ以上言わなくていい。

 また気分が悪くなりそうだ。

 もういいから座れ」

 アショーカは自分の横のクッションに座るようにと叩いて示した。


「いや、お邪魔だろうから私は……」

「誰がお前を邪魔だと申した。

 ちょうど話もあったのだ。座れ。そして食え!」

「く、食えって……」


「お前があまり食べぬと料理長から聞いておるぞ。

 今日は俺が無理にも食わせる」

 アショーカは渋るミトラの手を引き、無理矢理隣りに座らせた。


「この鹿肉の煮込みはうまいぞ。マチン!」

 アショーカは隣りに座るふくよかな女官に呼びかけ、差し出す皿に鹿肉を取り分けて乗せた。

 マチンと呼ばれた女官はニコニコとそれを口に運び嬉しそうに噛みしめる。


「酒は飲めぬのだったな。

 ではヤギのミルクとチャパティーと……」

 アショーカは次々マチンの皿に乗せて食べさせる。


 自分に言ったのではなかったのかと、ミトラは親密な様子のアショーカとマチンを見つめた。

 手馴れた様子からして日常の事らしい。

 何故だか心が騒ぐ。


「お前は本当に幸せそうに食うな」

 マチンの食べっぷりに微笑むアショーカに、訳もなくミトラはむっとした。


「よし大丈夫そうだな。ではミトラ食え!」

 一通り食べ終えた様子を見て、アショーカは一口ずつ減った皿をミトラの前に並べた。


「え?」


「毒見ですよ。マチンは毒見係です。

 盛り付ける前にも毒見はしていますが、食べる直前にも、一通り毒見をするのです」

 トムデクが戸惑っているミトラに丁寧に説明してくれた。


「ミトラ、ちょっと嫉妬したんじゃない?」

 ヒジムがにやにやとからかった。


「嫉妬など……」否定しかけて分からなくなる。


「アショーカ様。お酒をどうぞ」

 ミトラとアショーカの間を割って入るように女官が酒壺を差し出す。


「おお、すまぬな」

 杯を受けるアショーカに豊満な体でしなを作って酒を注ぐ。


 反対の隣ではアショーカの背に胸を押し付け料理を差し出す女官。

 ミトラは居心地が悪くなった。


「ず、ずいぶん女官が多いな」

 何故だかいらいらする。


「それなのだ。女官が余っている。

 そこで、そなたの世話に半分ほど移動させようと思うのだが……」

 アショーカの発言に女官達がぎょっとミトラを睨み付けた。


 あわよくば太守の愛人をと狙う女官達にとっては寝耳に水の配置換えだ。


「け、結構だ。みなに恨まれる」

 あわててミトラは断った。


「恨む?」

 怪訝な顔をするアショーカにヒジムが笑った。


「なんだかタキシラに来てからアショーカってモテるんだよね。

 アショーカが通るだけできゃあきゃあ女官が騒いでさ。

 パータリプトラの宮殿じゃあ全然だったのに」


 ミトラもさっき耳にしたばかりだ。


「ふん! パータリプトラでは王に嫌われていたからな。

 それに高慢ちきなバラモン女が多かったからだ。

 そもそもヴァイシャやクシャトリアの女にはモテてたんだ」


「私も実はクシャトリア貴族三人から縁談の仲介を頼まれています。

 どうしますか?」


「ば……!」

 サヒンダの問いかけにアショーカは慌ててミトラの顔を覗った。


 どうでもいいという顔をしてるものと思ったミトラが、意外にも不安げに自分を見つめているのに気付いて、少し上機嫌になる。


「受けるわけがないだろう。ミトラがいるのだ。

 ミトラとの結婚が最後だ。他はない」


 ピクリと女官達の手が止まった気がした。


「結婚って……?

 その話は断ったはずだが……」

 ミトラは驚いてアショーカを見る。


「ミスラ神に嫁ぐという話か。

 だからそれは、みなが説明しただろう。

 神殿建設には三十年かかるのだ。

 それまでに子を生まねばならぬのだろう。

 だから俺様がだな……」


「い! いやだっっ!」


 途中で強烈に否定され、アショーカの表情が一気に険しくなる。


「子……子を宿す儀式をするのだろう!

 嫌だ! そなたとだけは絶対嫌だ!」


 アッサカの他、この件に関わった者達が何度説得をしてもミトラの答えは同じだった。


「まだそんなたわけた事を言うか!

 なんで俺とだけは嫌なんだ!

 俺がお前とシェイハンのためにどれほど精力を注いでいるか!

 いったい俺の何が気に入らないのだ!」


「そ……それは……」


 ――顔が破廉恥だから――


 みんなの頭に同じ言葉が浮かんだが、それぞれぐっと呑み込んだ。

 アショーカの脳裏にも当然浮かび、もう一度言われたらさすがに立ち直れないかもしれないと、頭を抱え深いため息をついた。


「もういい。この話はこれまでだ。

 とりあえずスシーマ兄上が任命式を終えて帰るまでは先に進める訳にもいかぬ事だしな」

 アショーカは侍従長に命じ女官達を下がらせる。

 ここからは秘密事項だ。


「話とは、しばらくこの宮殿を留守にするのでお前には先に伝えておこうと思ってな。

 まあ、お前にとっては、俺がいてもいなくてもどうでもいいか……」


 諦めたようにチラリと視線をやって、打ち捨てられた子兎のように自分を見上げるミトラに驚く。


「留守って……どこに? どれぐらい?」


 どう考えても寂しがってる表情に訳が分からなくなる。

 そんなに寂しがるくせに何故結婚は出来ないのだ。


「前太守ゴドラとバラモン階級の祭司官達が捕えられ、この宮殿の敷地に建つ神殿は今、下級のバラモン僧がいるだけだ。

 宮殿内での実権を失った事によってこの地に暮らすバラモン達が不穏な動きをしている。

 この地は仏教徒が多いとはいえ、バラモンの僧院も数多くあり無視出来ぬ勢力なのだ。

 これを最も穏便に鎮めようとするなら、この地のバラモン達すべてが尊崇するカピラ大聖を説得し、出来れば祭司大官としてこの宮殿に迎え入れたい」


「カピラ大聖……。

 千年もご存命と言われる伝説の聖仙だ。

 本当にいらっしゃるのか?」


「ああ。ヒンドゥクシュの山奥に隠棲しておられるとの事だ」


「ヒンドゥクシュ……。

 あの山々の中腹より先は魔物が棲み、登った者は誰も帰って来れぬという。

 まさかそこに行くつもりなのか?」

 ミトラは青ざめる。


「そんなに危険な山なの?

 じゃあ僕も行くよ」

 トムデクが即答する。


「面倒だけど僕も行くよ」

 ヒジムも答える。


「わ、私も行く!」

 ミトラも流れに任せて声を上げた。


 アショーカは思わず笑った。


「トムデク達はともかくお前に行ける訳がないだろうミトラ。

 どれほど険しい山道だと思うのだ。

 しかも中腹より上は凍りつくような寒さだ。

 お前のようなか弱き女などあっという間に死んでしまう」


「じゃあそなたも行くな!」

 強い口調に驚く。


 気が付けばアショーカの左腕を両手で引き止めるように掴んでいる。


(時々憎らしい言葉を吐くくせに、時々我を忘れて抱きしめたくなるほど可愛いな)


 困った女だ。

 どこまで自分を虜にするのか。


「悪いが決定事項だ。

 連れて行くのは騎士団十人とラーダグプタにしようと思う」


 アショーカの宣言に全員が驚く。


「お待ち下さい。ラーダグプタ殿とはなにゆえ……。

 権謀術数には長けているかもしれませんが、武官ではありません。

 御身をお守りする役には不向きかと……」

 サヒンダが慌てて口を挟む。


「そうだよ。

 ラーダグプタを連れて行くぐらいなら僕とトムデクにしなよ」

 ヒジムが口を尖らせる。


「自分の身ぐらい自分で守れる。

 それよりあの者はジャイナの信徒であったカウティリア殿の息子でもあり、バラモンの教義にも通じている。

 それに俺がいないミトラの元にあいつを置いておくのは油断がならんからな」


 サヒンダはチッとミトラを睨み付けた。


「ダメだ! ラーダグプタと二人なんて!

 あの者は信用出来ない!

 私の事なら心配いらないから他の者を連れて行ってくれ!」


 ミトラの必死の懇願も、アショーカには可愛い我がままにしか見えない。


「決定事項だと申したであろう。

 心配するな。十日で帰ってくる」

 すげなく答えるアショーカにミトラはぷっと頬を膨らませた。


「アショーカのバカっ!」

 叫んで部屋から飛び出した。


 あわててアッサカと数人の護衛が後を追う。


「あーあ、また怒らせちゃったよ」

 ヒジムがやれやれとため息をつく。


「何をやっても可愛いな」


 可笑しそうに呟くアショーカにサヒンダもため息をついた。



次話タイトルは「衛兵隊長イスラーフィル」です

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