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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
38/222

3  側近サヒンダ

「何があったのですか?

 私とヒジムがあれほど紳士的にと注意しましたのに」


 二人きりの太守室で、サヒンダはすぐに先程の騒ぎに言及した。


 幼い頃から、二人きりになっても最低限の敬語は崩さない。

 それが忠誠心の厚いサヒンダのけじめのようなものなのだろう。

 だからといって主への手厳しい戒めの言葉が緩むわけではもちろん無かった。


「紳士的にしたぞっっ!

 お前らのアドバイスで歯の浮くような甘い言葉も我慢して吐いてやった。

 ミトラも途中まではしおらしく良い雰囲気だったのに……」

 アショーカは執務机の椅子にふんぞり返って、まだ怒り覚めやらぬ様子で怒鳴った。


「それで何故こんな事になっているのですか?」

 この恐ろしいオーラを放つ主に、ため息まじりで平然とこんな事を尋ねられるのはサヒンダしかいない。


 毒舌とアクの塊のような性格と対照的な、灰色の素直過ぎる直毛は肩まで垂れ、大地を焦がしたようなカーキの瞳は、長年小言を言い続けたせいで、いつも険を帯びている。


「いい雰囲気のついでにキスの一つもお見舞いしてやろうと思ったのだ」

 アショーカは叱られた子供のように、ぷいっと顔を背けて答えた。


「キスですか。家柄正しき姫に婚姻前にするのもどうかと思いますが……」

 そんな事だろうと思ったという顔で、サヒンダは軽く非難する。


「む……。チャンスがあればそんな事構ってられるか!」

 アショーカは開き直る。


「まあ……そこは目をつむったとして、つまりそれで拒否されたと……。

 だからと言ってそこまで怒るとは大人気ない」

 呆れ顔になって鼻でため息をつく。


「ばか者! あの女が何と言ったと思うのだ」


「何と言いましたか?」


「俺とだけはしたくない。

 何故かと問えば、俺様の顔が破廉恥だからだと申しおった!」


「破廉恥……」

 サヒンダもさすがに目を丸くする。


 そして顔を背けて肩を震わした。


「お前……笑っておるな」

 アショーカは目ざとく気付いて声を荒げる。


「いえ……滅相も無い」

 忠臣はすぐに自重して真顔を上げた。


「ついでに言うと、好きな者とキスをするならばサヒンダともするのかと尋ねておった」


「は?」


 サヒンダは、いよいよ訳が分からなくなる。


「なにゆえそこに私の名が?」

「その前に、お前を好きで信頼しているという話になったからであろう」

 アショーカは、このすまし顔の側近にも一撃を加えてやろうと思った。


 しかしサヒンダは急に真面目な顔になり、自分の前にひざまずいた。


「私めは幼き日よりアショーカ様に仕え、その人となりに心底惚れ込んで命を賭して生涯仕えようと心に誓っております」

 片手を胸に当て、恭しく頭を下げる。


「そんな事は知っておる。

 それがどうしたのだ」

 雲行きの怪しさに眉をひそめる。


「されど、キスのご所望だけはお受け出来かねます。

 我が心に男色の気は無く、万一あったとしても、もっと細身の男ならともかく、アショーカ様のごとく筋骨隆々、男の中の男のような方とのキスなど……想像しただけで……うっぷ……気持ち悪く……うぐぐ……」

 サヒンダは吐き気を催したらしく口を押さえる。


「ば、ばか者!

 俺だってお前とキスなどしたくないわ!

 誰がそんな事所望した!

 何が悲しくてお前とキスなど……うっぷ……俺も気分が悪くなってきた」


 二人はしばし口を押さえて吐き気が治まるのを待った。


 人心地つくと、何故自分が尊敬する主君とのキスを想像しなければならないのかと、急にサヒンダは腹が立ってきた。


「まったくっっ!

 一体なんなのですか! あの巫女姫は!

 タキシラの民をまとめ上げる聡明さを持つかと思えば、この無知加減!」


「知らん。

 ミトラの考えている事だけは、この俺でもさっぱり見当がつかん。

 だが、それもひっくるめて好きなのだから仕方がない」


 惚れた弱みというのだろうか。

 サヒンダは深いため息をついた。


 本心は出来る事ならスシーマ王子にリボンをつけて送り返してやりたい。

 タキシラを無血開城させた事には感謝するが、どうにも疫病神になりそうな予感がして仕方がない。


「ミトラの話はともかく、何か報告があって来たのであろう? サヒンダ」

 アショーカは気持ちを切り替え座り直した。


「はい。いくつか報告がございます」

 サヒンダも気を取り直して資料をめくる。


「申せ」


「まずは各地のバラモン教徒の暴動ですが、昨日は一番強行にアショーカ様の太守就任を快く思わぬシャンディアール神殿の者達が大きな暴動を起こしました。

 なるべく殺さぬようにとの命令にて、信徒達は怪我人を多数出しましたが、今の所死者の報告はありません。

 されど、鎮圧に借り出された騎士団一名と衛兵部隊二名の犠牲が出ました」

 サヒンダの報告にアショーカは腕を組んで唸る。


「三名か……」


「騎士団の一人はタキシラ遠征の直前に入隊した者です」

「丁重に葬り、家族には充分な慰労金と立派な最後を伝えてやれ」

「はい。すでに手配しております」

 手際のいい側近はすぐさま答えた。


「なるべく新参の者は前線に立たせるな」

「されど武勲を急ぐ若者も多く、自ら名乗りを上げるのです。

 それに騎士団にはアショーカ様を崇拝する者が多く、各地で吹聴されるアショーカ様への罵詈雑言に怒りのあまり暴走する団員も多く……」


「俺への罵詈雑言? どんな内容だ」


「心の弱い方には堪える内容ですが、言ってもよろしいですか?」


「誰に聞いている?

 毎日お前の嫌味に耐えている俺様だぞ?」


「さようでございますね。

 では、失礼して申し上げます。

 各地の反乱民を嬉々として狩る残虐の王子。

 父たる王に見捨てられた痴れ者の放蕩息子。

 金儲けにうつつを抜かす強欲な守銭奴。

 十代で妻が三人もいる色狂いの軽薄男。

 無節操に女官に手をつける淫乱王子。

 それから……」


「もういい!」

 さすがのアショーカも右手を広げて、制止した。


「お前、俺の悪口を言う時だけ、やけに生き生きしてないか?」


「滅相も無い。

 主君への誹謗の数々に心を痛めながら伝えております」


「嘘をつけ!」

 心を痛めてる様子など微塵もない側近を睨みつける。


「まあいい。

 バラモン貴族が大勢、前太守と共に捕えられた。

 かなりの抵抗があるのは分かっていた。

 これをおさめるには方法は二つしかない」


「武力で制圧するか、アショーカ様に従うように改心させるかですね」

 サヒンダは肯いた。


「例の者の居場所は分かったのか?」


「はい。やはりヒンドゥクシュの山中奥深くにおられるとのこと。

 早速遣いをやりましたが、噂によればかなり気難しいらしく、門前払いの可能性が高うございますね」


「ふん、気位の高いバラモンらしいな」


「されど彼の者を信奉する者は多く、不思議な妖力を持つようでございます。

 その修行は人智を超える厳しさで、過酷な修行で知られるジャイナの信徒でさえ尊敬に値すると……」


「ジャイナの修行並みと申すか……。

 ふーむ本物やも知れぬな。

 俺が直接会ってみるか」

 アショーカは、ジャイナと聞いて少し興味を引かれた。

 尊敬する祖父チャンドラグプタ王が、最後にその身を捧げた信仰だ。


「ご自分でヒンドゥクシュに登られる気ですか?

 あの山は未開の場所も多く、恐ろしい獣や魔物さえ住むと言われております。

 危険です。おやめ下さい」

 サヒンダは嫌な予感に顔をしかめた。


「お前は俺様が獣や魔物ごときにやられると思っておるのか」


「思いませんが今タキシラを留守にされては誰がこの地を治めるのですか」

 サヒンダはもっともらしい理由を全力で探した。


「お前がおるではないか。

 俺の名代として政務を繋いでおけ」


「それなら私がヒンドゥクシュに出向きますのでアショーカ様は残って下さい」


「お前こそ魔物と対峙出来るのか?

 お前は優れた頭脳を持つが、剣は俺の方が上だ」

 サヒンダは痛い所を突かれて渋い顔をする。


「されど御身の方がかけがえの無い存在でございます」


「案ずるな。十日間だ。

 その間に話がつかなければ諦めて下山する。

 スシーマ兄上が太守任命の勅命を帯びてパータリプトラから戻ってくるまでには帰る」


 ここまで断定してしまうと、この主君はもう考えを変える事はない。

「では最精鋭の騎士団を百人ほどお連れ下さい」


 心配性の側近にアショーカは呆れた。


「お前は戦を始めるつもりか。

 会って話をするだけだぞ。

 それにこの城が手薄になっても心配だ。

 騎士団は十人ほどでいい」


「じゅ、十人ですか?

 ではヒジムとトムデクとアッサカをお連れ下さい」


「過保護もいい加減にしろ。

 その三人を連れて行ったらミトラは誰が守るのだ」


「私にはどうでもいい事です」


 アショーカはため息をついた。


「お前はどうしてそうミトラを目の敵にする。

 俺の留守中ミトラを苛めるなよ」


「心配ならすぐにお帰り下さい。

 十日を過ぎましたらネチネチといびり倒してやります」


「お前なら本気でやりそうだな」

 アショーカはやれやれと息を吐いた。




 とりあえず折り合いがついた所でドアの外から声が掛かった。

「アショーカ様。夕餉の準備が出来ましてございます。

 お運びしてよろしいでしょうか」


 前太守のその前から仕えている初老の侍従長が恭しく告げる。


「もうそんな時間か。入れ!」

 ミトラとの時間を作ったため、午後の政務はほとんど進まなかった。

 今日も残業だと覚悟を決める。


 白髭をおかっぱ頭のように口の周りにきちんと切り揃えた侍従長は、テキパキと従者と女官に指示を与え、太守室の広い空間に白豹の毛皮を敷き詰め、アショーカの座る場所には寝そべるほどのクッションの上にふかふかの熊の毛皮を被せる。


 この仕事に誇りを持っているらしい侍従長は万事にソツが無く、執事として完璧だ。


 その執事魂に感服したアショーカは、郷に入れば郷に従えで、とりあえず従来の様式に倣うつもりで任せているが、その無駄の多さに辟易してもいる。


 特にこれだ。


「アショーカ様、夕餉のお召しかえのお手伝いを致します」

 そう言って華やかなサリーを着た女官が三人、アショーカを取り囲む。

 やけに化粧の濃い女官が、スルリとアショーカの肩に指を這わせ、留めを外して執務用の窮屈な服から楽な衣装に着替えさせる。


 食事をするのに衣装の着替えがいるのかと思うのだが、正式に太守に任命されれば白の礼服を着る事になるため、慣例でございますと断言されては従う他なかった。


 朝の湯浴みに始まって寝所に入るまで、入れ替わり立ち替わり、女官が纏わりついては世話を焼いていく。

 母ミカエルの宮殿では最低限の従者しか置かない主義だったため、王子といえどもここまでされるのに慣れていないアショーカは面食らった。


 しかもアショーカを驚かす事は他にもある。


 もう一人の女官が背の高いアショーカの肩の留め金をつけようと、抱きつくようにしなだれかかってきた。

「おお、届かぬのだったな」

 アショーカは慌てて背を屈めた。


「恐れ入ります。王子様」

 女官は色っぽい目でアショーカを見上げる。

 ミカエルの西宮殿にはいないタイプの女官だ。


「きゃっ! 申し訳ございません、王子様」

 つまずく物もないのに転びそうになる女官を片手で抱きとめるのもこれで何度目か。


「気をつけよ」

 アショーカに注意され、ぽっと頬を赤らめる女達。


 まあ悪い気がするわけではないので毎度この茶番に付き合ってはいるが、この下心が見え隠れする女達をどうしたものか。

 あわよくば太守の愛人になってやろうという女達の巣窟なのだ。


 実際、前太守達は手をつけていたのだろう。


 この部屋で一緒に夕食をとる事にしているヒジムとトムデクがやってきて、その様子をにやにやと見守るのも居心地が悪い。

「アショーカ、鼻の下が伸びて破廉恥が出てるよ」

 ヒジムが可笑しそうにからかう。


「黙れっ!

 その言葉、今度俺様の前でほざいたら切り捨てるぞっっ!」


 耳を突く怒鳴り声に女官達が「きゃっ!」と悲鳴を上げる。


「ああ、すまぬ」

 いつも男に囲まれているアショーカは、いちいち自分の大声に悲鳴を上げる女が苦手でたまらない。


「アショーカ様、アサンディーミトラ様より面会ご希望の伝令が届きましてございますが、どう致しましょうか?

 お食事の後、お越し頂くように致しましょうか?」

 年老いても口の動きはまだまだ達者な侍従長が流暢に告げる。


「ああ、丁度良いから共に食事をとろう。

 ミトラの膳も用意してくれ」

「かしこまりました」


 

 次話タイトルは「女官マチン」です。

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