表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第二章 ヒンドウクシュ カピラ大聖編
37/222

2  アショーカとミトラ②

「俺がシェイハンごとお前を守ってやる」


 傲慢で尊大で無謀。


 今、自分の吐いた言葉の向こう見ずに気付いているのだろうか。


 ミトラと一緒に、あの狼に囲まれた羊のように無防備に喰われる事を待つシェイハンを守ると言ったのだ。

 それがどれほど大変な事か分かって言ってるのか。


 アショーカはミトラの疑念に気付かぬ様子で続けた。


「まずマガダの貨幣を流通させる。これで物資の行き来を円滑にする。

 そこで問題になるのは物価の違いだ。

 戦争に負けた国が最初に味わう屈辱は国の財産を安く買い叩かれてしまう事だ。

 そして物の値が数倍に跳ね上がる。

 下手をすれば寄生された宿主のように骨と皮だけ残して食い尽くされる」


 知っている。

 過去の歴史の中でも戦争に負けた国の悲惨さは知識として教えられた。


 ミトラの怯えを宥めるように、アショーカの頬を覆う手が暖かく力をこめる。


「これを防ぐため、まずラピスラズリの売買を聖大師となるそなたの特権として認める」


 ミトラは目を見開いた。


「すでに鉱山はシェイハンの僅かな軍隊を総動員させて押さえさせている。

 これから少しずつ警備を強化させ他国に搾取されぬようにする。

 俺の騎士団も数人指導に当たっている。

 俺の軍隊は世界でも最強だ。安心していい」


 忘れていた。

 目の前のこの男は、ミトラが今まで出会った誰よりも有言実行の男だった。


 どんな無茶な事も、実現不可能に思える事も、必ずやり遂げるのだった。


「後は俺とそなたが広告塔となってラピスラズリの価値を吊り上げる。

 世界中の王達が先を争って欲しがる玉石にするのだ」


「アショーカ……」


 この男が守ると言ったからには本気なのだ。

 この男の懐に守られていれば何も心配しなくていい。

 先程までの不安が嘘のように消え去り、すべてを委ねてしまいたくなる衝動が再び体の奥深くから湧き上がる。


「だから俺の贈り物を受け取るな?」

 牧羊犬に誘導される子羊のように、ミトラは促されるままコクリと頷いた。


「ありがとう。アショーカ」


 ミトラの返答にアショーカは満足気に目を細めた。

 温かい目をしている。


 しかし、ふいにその瞳にさっきまでと違う熱を感じて、ミトラの鼓動が早くなる。

 見ているだけで溶かされそうな熱い色香にミトラの心臓が早鐘を打ち、妙な心地よさと同時に心の奥底から警告音が鳴り響く。

 どこから来るのかわからない禁止と警告。

 裁きの王が厳罰と懲戒をたずさえ、この場から逃げろと叫ぶ。

 片端は求めているのに片端はそれ以上に拒絶を要請する。


 そうとも知らず、アショーカは目の前で従順に自分を見上げる翠の瞳にほくそ笑んだ。


 口を開けば自分に逆らってばかりいる、少しも思い通りにならない巫女姫が、今日はやけに素直だ。

 当然だ。

 この巫女姫とその国の為に自分がどれほどの時間と精力を割いたと思うのだ。

 混乱のタキシラを治めるだけでも大変なのに、平行してシェイハンの復興の為に知恵を絞った。

 しばらくは眠るヒマすらなかった。


 付き合わされたサヒンダは散々に愚痴をこぼし、ミトラにもきつく当たりたくなる訳だ。


 頬にあてた自分の手を、いつものように振り解こうとしない少女に、アショーカは(よし!)と心を決めた。


 我ながらいい雰囲気になった。

 折角のチャンスをみすみす逃す手はない。

 ここはキスの一つでもお見舞いしてやるか。

 頬の手に力を込め顔を近付ける。

 少し顔を上に向かせても抵抗はなかった。

 それなのにまだ誰の手垢もつかぬ清浄な輝きを放つ二つの双眸に、はたと動きを止める。


 もう少しと思うのにそれ以上近付けない。

 俺様とした事が何をとどまっているのだ。

 強引は俺様の専売特許のようなもの。

 この女の背負うすべてを一緒に引き受ける覚悟は出来ている。

 キスぐらいしても許されるはずだ。

 それなのにどうして……。


「目を閉じよ、ミトラ」

 アショーカは命じた。


「なにゆえにだ?」

 無垢な瞳が問いかける。


「な、何でもよいから目を閉じよ」

 ミトラの瞳に警戒が浮かんだ事に気付き焦りだす。


「い、嫌だ!」

 その返答にむっとした。


「なぜ嫌なのだっ!」

 十アショーカの大声だ。


「何か良からぬ事をしようとする顔だからだ!」

 負けじとミトラも声を荒げる。


「良からぬ事とは何事ぞ!

 ただキスをしようとしただけではないか!」


 開き直った。


「なにゆえキスをするのだ!」

 あまりに素朴な質問に目を丸くする。


「なにゆえだと?

 好きだからに決まっているではないか!」

 当然といえば当然の答えだ。


 すでに紳士の対応を忘れ、すっかりいつもの俺様になってしまっている。


「好きならばキスをするのか?」

 アショーカはふと三歳の子供に話している気分になった。


「当たり前だろう。今更何を聞いておるのだ!」


「ではサヒンダにもするのか?」


「は?」


 アショーカは一瞬呆けた表情で固まる。


「な! なにゆえサヒンダにせねばならんっっ!」

 想像して気分が悪くなった。


「さっきサヒンダが好きだと言ったではないか!」


 それはミトラへの気持ちを重ねて言ったつもりだった。

 伝わった手ごたえを感じたはずなのにどういう事だ、この鈍感女!


 アショーカのイライラがつのる。


「それはもちろん側近として好きだし信頼もしているが、だからといってキスなどする訳がないだろう。

 そもそも男ではないか!」


「そなたも男ではないか」


「いや、だから男と男がする必要などないだろうが!」

 アショーカは頭を抱えた。


「では男と女もする必要などないではないか」

 ミトラは釈然としない顔で言い募る。


 遂にアショーカの堪忍袋の緒がこと切れた。


「こんっの……あー言えばこう言う。

 いいから目を閉じよ! 意地でもキスしてやる!」

 言うが早いかミトラの両腕をがっと掴み、顔を寄せる。


「や、やめろ! 放せ!」

 必死に抵抗するが力では到底かなわない。


 顔を背けるミトラの頭や額にアショーカのキスがふりかかる。


「ぎゃああああ!

 アッサカ! アッサカ! 助けてくれ――っっ!」


 突然の悲鳴に、風のように飛んできたアッサカは、目の前の修羅場にたじろいだ。


「お、お呼びでございますか? ミトラ様」

「見ての通りだ! 早く助けてくれ!」


 言っている間にもアショーカのキスがミトラの髪や頬に乱れ飛ぶ。


「あ、あの……アショーカ様……」


「下がれアッサカ!

 俺が呼ぶまで塔の中で控えていろと申しただろう!」


「は……左様でございますが……」


「早く助けてくれ! アショーカが乱心だ!」

「誰が乱心だ!

 このっ訳の分からぬ事ばかり申しおって!

 絶対キスしてやる!」


 かけがえのない両主人に命じられ、アッサカは困り果てたまま固まった。


「なぜ嫌がるのだ! 俺のそばにいると申したではないか!」

「い、嫌なのだ! お前とだけは絶対嫌だ!」

「なんだとっ!

 まるで他の奴ならいいような言い方ではないか!」

「お前以外なら誰でもいい!」

 思わず洩らした言葉にアショーカの動きが止まる。


「な、なぜ俺だけダメなのだ」


「そ、それは……お前の顔が……」


「俺の顔……?」

 目の前にあるのは精悍で男らしい、なかなかの色男のはずだ。


「なんだっっ! 申してみよ!

 俺の顔がなんだと言うのだっっ!」


 百アショーカで怒鳴りあげる声に急かされて、ミトラはそろりと答える。


「お前の顔が…………破廉恥だからだ……」


 アショーカは呆然と立ちすくみ、しばし言葉を忘れた。


 張り詰めた沈黙が流れる。 


 それからおもむろに「アッサカ!!!」と叫んだ。


「は、はい……」

 アッサカはオロオロとその場にひれ伏した。

 もはや暴言を吐いた巫女姫の身代わりに、この首を差し出す覚悟で俯く。


「聞き間違いだと思うのだが、今この女は俺様の顔を何と申した?

 答えてみよ」


 唖然として焦点が定まらぬ王子に、アッサカは全身から冷や汗を垂らす。


「は……。

 わ、私にはよく聞き取れませんでした。申し訳ございません」

 恐縮して答える。


 ミトラは二人の様子から、とんでもない失言だったのだと、怯えた顔で口を押さえている。

 そのミトラを一瞥すると、アショーカは怒りを飲み込むように口元を引き締め、ミトラから両手を離した。


「くそっ! 腹立たしい! 部屋に戻るぞ!

 アッサカ、その女を縛り上げて部屋に閉じ込めておけ。絶対出すな!

 それから顔が恐いと申しているだろう!

 今度俺より恐い顔をしたら、頭に可愛いリボンをつけさせるぞ!」


「は! も、申し訳ございません」


 訳の分からない八つ当たりをしながらミトラを残してスタスタと塔の中に戻って行った。


「ヒジム! 服装が派手過ぎると申しただろう!

 太守の側近がじゃらじゃら宝石をつけるな!

 トムデク! 顔がでかいぞ! 邪魔で通れぬ!

 明日までにその顔を半分にしてこい!」


 塔の中に控える側近達にも怒鳴りあげる声が聞こえてきた。

 あちこちに悪態をついて理不尽な言いがかりをつけている。


 そしてすごすごとアッサカに伴われ塔の中に戻ったミトラを、盛大に不機嫌な顔でサヒンダが出迎えた。

 トナカイが北の大地と間違えて南下しそうな、冷ややかに凍った視線が突き刺さる。


「もう少し言動にお心遣いを頂けますか?

 周りに仕える者が迷惑をこうむります」


「ご、ごめんなさい……」


 しょんぼりと俯くミトラに、サヒンダは聞こえよがしにチッという舌打ちを残して、主君を追いかけて行ってしまった。




「もう! 何を言ったのさ。

 ミトラには甘々のアショーカがあんなに怒るなんて相当だよ?」

 

 ヒジムがやれやれといった顔で近付いて来た。


「アショーカの顔が……」

 ミトラは言いよどんだ。


「顔?」


「うん。時々二人っきりになるとアショーカはいつもと違う目になるのだ。

 柄にもなく優しくて熱っぽくてドキドキするような……」


「それを言われて怒ったの?

 むしろ上機嫌になりそうだけどね」


「いや、それをどう表現するのか分からず……」


「分からず何と言ったのさ?」


「は、破廉恥と……」


 ヒジムの顔が驚きで固まる。


 そして次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。

「あはははは! 傑作だ! 

 それを言われたときのアショーカの顔、僕も見たかったな。

 アッサカ、どんな顔だった?」


「ぼ、呆然とされて聞き間違いではないかと……。

 私もそう思いましたので……」


「そ、そんなにひどい言葉だったか?

 実はもう一つ別の言葉にしようか迷ったのだ。

 そちらを告げていれば良かったかもな」

 ミトラは反省しきりに後悔する。


「もう一つの言葉って何なのさ。言ってみてよ」

 ヒジムがワクワクと興味を寄せる。


「色情魔のようだと……」


 ヒジムは遂に地面に四つん這いになって床を叩いて笑い出した。


「ひ――っははは! ミトラって最高!」


「それも二度とおっしゃらないで下さい。

 今に死人が出ます」

 アッサカは冷や汗を拭った。







 次話タイトルは「側近サヒンダ」です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ