1 アショーカとミトラ①
第二章までお付き合い下さりありがとうございます。
第一章でタキシラの反乱をおさめ、太守として奮闘するアショーカ王子と、ミスラ神の封印をかかえたままでトラブルを巻き起こすミトラの物語をお楽しみ下さい。
タキシラの北東に広がるハティアール丘陵、その西の麓に位置するビール・マウンドの丘。
「混雑した丘」を意味するこの地は、南北に約1100メートル、東西に約670メートルに渡るいびつな形の丘に雑多な家々が立ち並ぶ、賑やかな活気溢れる街だ。
一番高台には、タキシラ王だったアンビーの宮殿が残っている。
アレクサンドロス大王が美しい翠目の妻ロクサネを伴って滞在したと言われている。
ただし、今はマウリア朝の太守の宮殿として大規模な改築と増設を行い、マガダの西の砦の役割も担って商都を見下ろしている。
その宮殿の南の端に聳え立つ、とんがり屋根の塔からはタキシラの街並みが全貌出来る。
塔の上で乾季の穏やかな風を受け、アサンディーミトラは感嘆の声を漏らした。
「なんと見晴らしのいい!
あれに見えるのはインダスの河か?
ヒンドゥクシュの山々も見える。
あちらに広がる緑の木々はオリーブ園か?
こっちの牧場には羊の群れが見えるな」
長い月色の髪をなびかせ、はしゃいだ声をあげるミトラに、隣りに立つアショーカは思わず微笑んだ。
「まるで子供のようなはしゃぎっぷりだな」
タキシラに落ち着いてから前ほど奇抜な恰好をしなくなったアショーカは、青地に黒い蔦柄の縁取りが刺繍された質のいい膝上までの上衣と、やはり青地に黒のラインが入った 動き易そうな下穿きを履いている。
いつも洗いざらしのままだった耳にかかる黒髪も、櫛を通して柔らかく後ろに流れている。
まだ正式に任命されてはいないが、太守として多くの責任を背負うようになったせいか、ほんの数日でずいぶん大人びた気がする。
「そ、そなたが部屋に閉じ込めて外出させてくれないからだ!」
外でヴェールを外したのもずいぶん久しぶりだった。
つい突っかかってしまう自分がひどく子供に思えて、ミトラは俯いた。
「まだ反乱因子が無くなった訳ではない。
お前の従者も信頼出来るのはアッサカと俺の騎士団のみだ。
もう少しだけ我慢せよ」
穏やかに諭すアショーカに、ミトラは居心地の悪さを感じた。
(こんな穏やかな男だったか?)
アショーカが大人になったのか自分だけが子供のままなのか……。
きっと両方なのだろう。
従者達は塔の中にとどまるようアショーカが命じたため、久しぶりに二人きりになったのもミトラを落ち着かなくさせる。
「今朝も部屋を抜け出そうとしてアッサカを困らせたらしいな。
サヒンダが愚痴をこぼしておったぞ」
アショーカは可笑しそうに笑う。
「サヒンダは私の事が嫌いなのだ」
ミトラは気まずい顔で呟いた。
初対面から親切だった訳ではないが、特に意地悪でもなかったサヒンダは、ミトラがアショーカの軍に紛れて逃亡を謀って以来、顔を合わせば小言ばかりを言ってくる。
シェイハンにいた頃は神官のイスラーフィルが同じように口うるさかったが、同じ小言でも貴族然としたサヒンダが言うと一層辛辣に聞こえる。
苦手な相手だった。
「本当に嫌いな相手であれば、あいつは優雅に笑ってあしらう。
大切に思う相手だからこそ意見したくなるのだ。
俺などどちらが主君だか分からなくなるほど小言を言われておるぞ」
アショーカが話すたび、微かに金の葉が擦れ合うようなシャラシャラという音色が風に乗って聞こえる。
「そなたを好いているのは誰が見ても明らかだ。
でも私の事は本当に嫌いなのだと思うぞ」
少なくともアショーカのように尊敬されてるとは思えない。
「サヒンダは俺の負の部分を率先して担ってくれているのだ。
本来であれば俺が言わねばならぬ苦言を代弁してくれている。
俺がそなたに憎まれぬようにな」
大人の顔で自分の治める街を見下ろすアショーカに、一陣の風が挨拶をするように、肩口から垂れるマントをさらって凪いだ。
いつも常識外れの服装で怒鳴り歩いている印象ばかりが目についていたが、きちんとすれば意外にも爽やかで女受けのする甘い外見なのだと、改めて気付いて動揺する。
「そ、そなたはサヒンダが好きなんだな」
ミトラの言葉に、アショーカの水銀に潜むエメラルドのような瞳が振り向く。
「好きだ」
ミトラの心臓がドキリと跳ねた。
自分に言われたような気がして慌てて目を伏せる。
「そ、そうだな。
サヒンダほど信頼出来る側近などいないものな」
「……」
返事がない事を不審に思い顔を上げると、アショーカが背を屈め、覗き込むように自分を見ていた。
ミトラは仰天して後ずさる。
「な、な、なんだ!」
「元気がないようだが大丈夫か?」
「だ、大丈夫だ! 何でもない!」
「心配事があるなら隠さず申せ。俺がすべて解決してやる」
真っ直ぐ見つめるアショーカにミトラはふと我にかえった。
「では一つ頼みがある」
ずっと言いたかったが、なかなか言い出せずにいた。
「なんだ? 申してみよ」
「一度シェイハンに帰りたい。
あの地の民がどうしているかこの目で見たいのだ」
「……」
アショーカは一瞬視線を険しくしたように見えたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「それはもう少し待ってくれ。
まだタキシラにも俺の太守就任を快く思わぬ不穏な連中が多くいる。
シェイハンへの行程に割ける信頼出来る兵力が足りないのだ」
返事はわかっていた。
それでも言わずにはいられなかった。
「そうだな……わかってる……」
「前太守ゴドラが搾取した物品の数々は、イスラーフィルを中心にしたシェイハン再生組織に調査させ随時返却している。
飢える者がないよう穀物庫もいつでも開放出来るように手配した。
心配するな」
頼もしい言葉に安堵する。
この男に任せておけば大丈夫だ。
すべてを委ねて寄りかかりたくなる衝動に気付いて、心の隅で驚く。
落ち着かない心地で、先程から聞こえている音色の源に目を留めた。
「それはラピスラズリか?」
肩まで垂れる銀細工の耳飾りに、深い青色の石がはまっている。
風が吹くたびアショーカの耳元でシャラシャラと心地よい音色を奏でていたのだ。
「耳飾りなど珍しいな」
ターバンや肩口にはいつも大振りな宝石をつけているが、耳を飾るのは初めて見た。
「シェイハンの鉱山で採れたものだ。
これほど質のいいラピスラズリは珍しい」
言われて注目すると、アショーカの褐色の肌によく似合っている。
額のティラカと揃えたような深みのある青だ。
「シェイハンの細工師を数人呼び寄せた。
これはその者達に作らせた物だ」
「シェイハンの細工師を?」
「当面、人前に出る時は必ずこの耳飾りをつけるつもりだ。
そなたにも額飾りを作らせている。
良い物が出来たら贈ろう」
「お、贈り物などいらぬ。
それよりシェイハンの民の暮らしを……」
言いかけたミトラを遮るように、アショーカの大きな右手がミトラの頬を包んだ。
いつも大剣を握る手には、あまりに繊細で儚げな小さな頬に手の平が余る。
ふ……と笑顔がこぼれた。
「この澄んだ肌にはラピスラズリがよく似合う事だろう。
この額に飾るだけで、この宝石の価値は何倍にも跳ね上がる」
「だ、だから宝石など私は……」
見つめられ言いよどむ。
「シェイハンをはじめガンダーラの国々は、この騒乱の地にありながら鎖国状態だったのだな。
物資の行き来がほとんどない」
「国の中だけで充分潤っていた。
他国と取引きしてわざわざ危険に晒す必要はない」
導師にはそう教わった。
「それは先代の聖大師殿のような強大な力があって初めて成り立つ事だ。
シェイハンがそうやって平和ボケしている間に、周辺国はどんどん兵力を強め、虎視眈々と蒼き宝玉の都を狙っていた。
それを無慈悲に実現したのが、我が父上の先だっての蛮行だ」
現実のものとなってミトラも思い知った。
シェイハンは砂上の城。
いつ壊されてもおかしくない危うい砂の上に建っていたのだ。
外から眺めてみれば、これほど攻めやすい国もなかったはずだ。
それでも長い歴史を支えてこれたのは、ひとえに聖大師様の神読みの力があったから。
「そなたはシェイハンを武力も無く外敵から守りきれる自信があるか?」
シェイハンの誰もがミトラに一番聞きたい事だ。
それでいて誰も聞けない。
ミトラ自身もその質問を恐れていた。
いざ聖大師になる立場となって、初めてその責の重さに慄いた。
自分は世話係りだった頃と何も変わらない。
神読みの力も神通力も芽生える兆しはない。
シェイハンの未来も自分の行く末も、暗く霞んで何一つ分からないのだ。
神殿に登れば、神に嫁げば力を授かる?
そんな事誰が約束してくれるのだ。
少なくとも今の自分には何もない。
ただ聖大師と担がれ、神聖化され、周りだけがどんどん期待を膨らませていく。
本当は何の力もない十四の小娘だと、いつかばれて人々を失望させるのではないかと思うと不安でたまらない。
以前山賊に襲われた時のように……。
「心配するな」
ミトラの瞳の中で暴れる不安を鎮めるようにアショーカが力強く告げた。
「俺がシェイハンごとお前を守ってやる」
長いので二話に分けさせて頂きました。
次話タイトルは「アショーカとミトラ②」です。




