33、スシーマ皇太子
※ ※
「間者はまだ戻らぬのか?
何があったのだ」
スシーマは十万の大軍を引き連れ、タキシラを一望出来るジョリヤンの丘にある塔で、今朝方の騒ぎの報告を待っていた。
「アショーカ軍と反乱軍の間で何かしら事が起こったようではありますが、今はすべてタキシラの城門の中に消えてしまい分かりません。
おそらくは大多数の反乱軍にアショーカ王子が捕らえられたのではないかと思われますが……」
ナーガが答える。
「そんなに簡単にあの者が捕まるだろうか?
アショーカは抜け目のない男だ」
もはやスシーマは、ナーガの忠告以上にアショーカを警戒していた。
「それしにても。
平和主義のスシーマ様が即座に兵を挙げるとは思いませんでしたよ」
もう一人、この殺風景な部屋にいるラーダグプタが含みのある言い方をした。
「わが婚約者を奪ったのだ。
これほどの屈辱を指を加えて見守るほど私は優しい男ではない」
一見優しげだが敵にすると恐い男だ。
「スシーマ様にそのような激しい一面があったとは驚きました」
長年一緒にいるナーガでさえ意外だった。
「バカ者、アショーカだぞ?
あの年で妻が三人もいる手の早い男だぞ。
今頃ミトラがどのような目にあっているのか……。
あれはあのような軽薄な男に穢されていいような女ではないのだ」
意外にも、あの姫に対して誠実な想いを抱いているのだと、ナーガは嬉しく思った。
「私は殺生を好まぬが、もしミトラを辱めるような事をしていればアショーカを死罪に処す」
やはりこの二人はどこかで必ず敵対しなければならない運命なのだろう。
「その心配はないでしょう。
いかなアショーカ王子であろうとも、ミトラ様には容易に手出し出来ぬはずです」
ラーダグプタが言い切るのを見て、スシーマは怪訝な表情をした。
「なにゆえ断言出来る?
アショーカの私兵に囲まれているのだ。
思いのままであろうぞ」
ラーダグプタの鴉色の瞳が僅かに翳った。
「シェイハンの巫女姫には、おそらく生まれ出し日より封印のようなものがあるのです」
「封印?」
スシーマはますます眉間を寄せる。
「そうです。翠十字の封印。
私は、かの姫の教育係として医学なども教えて参りましたが、医学の知識としてでさえ、男女の理には触れる事も出来ませんでした」
「無垢な女性にそのような事を教えるのは男であれば誰でもひるむであろう」
「確かに私もそれゆえ避けてしまうのだと最初は思っておりました。
しかしそれだけではないのです。
あの翠に輝く清い瞳には、よこしまな男の欲を退ける何かの力が働いています。
ちょうどラーマーヤナのシータ姫に悪魔が手出し出来なかったように……」
「はは……、なにをバカな事を。
そなたともあろう者がそのようなおとぎ話のような事を信じているのか?」
スシーマはからかわれているのかと思った。
「嘘だとお思いなら、ご自分で確かめてみるのがよいでしょう。
おそらくアショーカ王子も、その未知なる力に気付かぬまま、手出し出来なかったはずにございます」
スシーマは半信半疑のまま考え込んだ。
「されど、そなた聖大師殿をはらませたのではないのか」
ラーダグプタは傷ついたように視線を伏せた。
「解く方法がない訳ではないのです……」
「解く方法?」
「されどそれは聖大師様の能力の差にも左右されるゆえ、ミトラ様がどの程度の力をお持ちなのか、私にもわかりません。
チャンドラグプタ様やアレキサンドロス大王が対峙された前聖大師様などは、類稀な神通力をお持ちだったらしく、かの覇王達ですら解く事は出来なかった。
そして翠の呪縛に囚われてしまった。
ミトラ様はおそらくそれに近い力をお持ちだと思われます。
解く事の出来るものが果たして人間凡夫にいるのかどうか……。
しかし、もしいれば、その者は世界を束ねる覇者となりましょう」
「ふん。もしその話が本当だとすれば面白い。
ますますあの姫が欲しくなったぞ、ナーガ」
その時部屋の外から声がかかった。
「スシーマ様、間者が戻りました。
アショーカ王子の親書を携えております」
「なに? 親書だと?」
三人は顔を見合わせた。
※ ※
タキシラの太守の城は西洋への窓口だけあって、木柱と石畳、象牙とペルシャ織り、やしの木とオリーブなど、文化の融合が進んでいて、小ぶりながら贅を尽くした宮殿だった。
アショーカの親書を受け取ったスシーマは、兵の一隊とナーガとラーダグプタを連れてタキシラの城に入った。
反乱民に占拠されていたという城内は、しかし戦の跡も見られず、きちんと整備され落ち着きを取り戻していた。
スシーマの軍を恭しく迎える様子から反意が無いらしいのは分かったが、一通りの警戒は万全にして案内に従った。
やがて兵を中庭に待機させ、スシーマはラーダグプタとナーガを連れて太守室に通された。
重々しい扉を衛兵が開くと、執務机で書類に目を通していたアショーカが立ち上がった。
後ろには三人の側近が立ち並んで控えている。
「これは兄上、ラーダグプタ殿。
このような遠き地までご足労下さりありがとうございました」
アショーカは深々と頭を下げると、二人に執務机の前に並んだ重厚な椅子を勧めた。
ナーガは側近としてスシーマの背後に立つ。
「私を心配して援軍を率いて遥々来て下さったと知り感激致しました」
「援軍だと?」
そんなはずがないのは分かりきっているはずだった。
「幸いにも従順な民の熱烈な歓迎を受け、これ、この通り無事太守の任におさまりましてございます」
アショーカの言葉にラーダグプタは目を見開いた。
「なんだと?
反乱民を納め太守になったと申すか?」
スシーマが眉をひそめる。
「反乱民などどこにもいなかったのです。
いるのは我が父上の名を穢す謀反人、前太守ゴドラ殿とその側近のみ」
ラーダグプタはすべてを悟り、二人の王子がついに対等の立場になったと思った。
「反乱民がいないというのか?」
スシーマは藍色の目を鋭くする。
女性には甘くとも男には油断ならない輝きを放つ。
「はい。
それゆえ兄上にはすぐにパータリプトラに戻り、父上に無事私がタキシラの太守としてこの地を治めているとご報告頂きたくお願い申し上げます。
そして正式な辞令を下さいますよう、お力添えをお願い致します」
挑むようなアショーカを、スシーマは王者の風格で受け止めた。
「なるほど……。
一滴の血も流さずしてこの地を手に入れたか、アショーカ」
目の前の男を少し見くびっていた。
いや。
高く買ってはいたが、自分の地位を脅かすほどの者とまでは思っていなかった。
「だが、私はこの地にもう一つ用がある。
私の婚約者を返してもらおうか」
もはや弟などという甘い感情はなかった。
真の敵に対峙しているのだ。
「ミトラ殿をお通しせよ!」
アショーカが執務室の脇にある控えの間に呼びかけると、アッサカに付き添われたミトラが姿を現した。
マガダの煌びやかなサリーを脱ぎ捨て、シェイハンの巫女の衣装を着ている。
白一色の清楚な衣装は絹の光沢が輝き、質素ではあるが、それゆえにミトラの月色の髪と翠の瞳がよく映えて美しかった。
「無事であったか、わが婚約者よ」
スシーマは手を伸ばした。
その手を避けるようにミトラは膝を折り頭を下げた。
「このような地まで迎えに来て下さりありがとうございます。
シェイハンの民が心配でマガダの宮殿を抜け出してしまった事、心よりお詫び申し上げます」
「自らの意志で抜け出したと?
アショーカに連れ去られたのではなく?」
「はい。
私はこのアッサカと共にアショーカ様の遠征の混乱に乗じて城を抜け出したのです。
道中アショーカ様にお会いした事はございません」
「ほう」
嘘なのは分かっていた。
間者の報告からもアショーカの陣営に月色の髪の女がいたという報告は聞いている。
しかしスシーマは頷いた。
「分かった。
そなたがそう言うのであれば納得しよう。
だが無事タキシラの地もおさまったならば、そなたは我が妃として共にパータリプトラに戻られよ」
ミトラはもう一度頭を下げた。
「申し訳ございません。
私の嫁ぎ先はもう決まってしまいました。
スシーマ様の妃にはなれません」
「なんだとっ! まさかそなた!」
スシーマは横に立つアショーカを睨み付けた。
「アショーカ!
前に言っておいたな!
王以外で私より優先される男などいないと」
アショーカは微笑む。
「それが残念な事に兄上より優先される者がいたのでございます」
「なんだと!」
憤るスシーマにミトラが後を続ける。
「スシーマ様。
我らシェイハンは新太守アショーカ様より神殿の再建と王家の復活を約束して頂きました。
それを受け、シェイハンはマガダの配下にくだる事に致しました。
神殿が再建されるとあれば、私はそもそも生まれ出でし日よりミスラ神の妻と定められた者。
神以上に優先される者などこの地上にはおりません」
「な、なんだとっ?
ミスラ神の妻になると申すか!」
スシーマは呆然とした。
「そなたもそれで納得したのか、アショーカ!」
涼しい顔で隣りに立つアショーカに尋ねる。
この抜け目のない男が、そんなバカバカしい事に納得するわけがない。
「神には敵いません。
私も諦めました、兄上」
さも残念そうに応じる。
「むう……。
しかし王家の再建となれば、唯一の血筋であるそなたが子を生まずしてどうやって血筋を残すのだ」
スシーマはそれほどバカではない。
ミトラは、ぽっと顔を赤らめる。
「はい。今までシェイハンの巫女姫が子を生んだ事はありませんが、私は宿さねばならぬでしょう。
覚悟は出来ています」
スシーマは怪訝な顔をする。
「ならば相手が必要であろう。
誰の子を宿すつもりだ?」
「もちろんミスラ神の子です。
他に誰の子を宿すのですか?」
真顔で尋ねられて、スシーマはあっけに取られた。
隣で聞いていたラーダグプタは笑いを噛み殺した。
そういえば聖大師様が身ごもったと知った時もミスラ神の子だと信じていたのを思い出した。
「そなた……。
どのように子を宿すのか分かっておるのか?」
スシーマの問いに、ミトラは少しむっとして答える。
「当たり前でございます。
私とてそれぐらい知っています。
子を宿す儀式。
神の子ともなれば大変な苦行にも耐えねばならぬでしょうが、シェイハン存続の為なら耐える覚悟でございます」
「……」
スシーマは無言のまま隣りのアショーカを見た。
わざとそっぽを向いている。
続いてラーダグプタを見た。
目を合わせようとしない。
「なるほど。アショーカ。
手の早いそなたがこの姫に手出しをしていないのはよく分かった」
「え?」
ミトラだけが部屋に流れる妙な空気に首を傾げた。
「ミトラ。
ミスラ神の子など、いくら苦行に耐えようと出来るものではないのだぞ」
スシーマの言葉にミトラは首を傾げる。
「え? なにゆえにございますか?」
「それはだな、つまり……。
ナ、ナーガ、説明して差し上げろ!」
急に話を振られたナーガは頭の蛇共々、情けない顔になった。
「で、出来ませんよ! 勘弁して下さい。
スシーマ様がご自分で説明して下さいよ」
「だ、だから……それは……つまり……」
ミトラの無垢な翠の瞳に見つめられ、スシーマはナーガも見た事がないほど真っ赤になった。
こんな事を説明しようとする自分が、ひどく不埒な男に思えて羞恥の思いに震える。
「な、なるほど、分かった。
私は急ぎパータリプトラに戻り父上に報告するとしよう。
十万の兵を率いては身動きも取れぬ。
そして兵を戻した後、辞令を携え、またやってくるとしよう。
ミトラ、そなたは博識であるのに一部の知識のみ、ひどく欠落していると見た。
私は都でそなたの為の良き師を見つけ、連れて参ろうぞ」
「な、何を申されますか。
師などいりません!」
ミトラはひどくバカにされた気がした。
「いや必要だ。
誰も教えられぬらしい」
スシーマはラーダグプタの話に納得したように眉間を押さえた。
「ラーダグプタ。
そなたはこの地に残って我が婚約者を守れ。
そして逐次報告せよ」
「はい」
ミトラはその時初めてラーダグプタを見た。
憎くて憎くて仕方がなかった相手だ。
どんな顔で自分の前に現れる事が出来るのかと思っていたが、その目はシェイハンにいた時と同じ、包み込むような温かさに溢れている。
自分に害をなす人物とはどうしても思えなかった。
「兄上、ゴドラ前太守も連れ帰って下さい。
処分は父上にお任せします」
「分かった」
スシーマは罪人の処理に三日間とられたが、その後あわてて帰っていった。
次話タイトルは「アッサカと側近達」です




