32、アショーカとミトラ
朝日が昇った頃、もう反乱軍はアショーカの天幕のすぐそばまで来ていた。
待機を命じられた騎士団達も結局アショーカ達四人のすぐ後についてきた。
アショーカが馬に乗り、声がはっきり届く所まで進み出ると、ミトラも反乱軍を待機させ、一人ガネーシャと共に進み出た。
朝焼けを受け真っ直ぐ自分を見るミトラに、アショーカは今更ながら美しいなと思った。
裏切られても殺されても、自分はやはりこの女が好きなのだ。
「シリアに行けと申したにっ!!
なぜまだこんな所にいる?」
百アショーカの大声が響く。
「何の話でございましょう。
私はマガダの王宮から後、あなた様にお会いした事などございませんが」
ミトラはすっとぼけた。
「なにっっ?!」
自分との日々をなかった事にするつもりなのか。
「私はここに控えるアッサカと共に闇に紛れタキシラに逃げ延びました。
道中王子にお会いした事などございません」
僅かに通じたはずの心を否定するのか……。
「何が言いたいっ!」
サヒンダが後ろで思わず声を荒げた。
ミトラを憎々しげに睨みつける。
「タキシラに逃げ延びました所、私は大変な誤解をしている事に気付いたのです」
ミトラは構わず続けた。
「誤解だと?」
一番激高しそうなアショーカは、意外にも冷静に受け止めている。
「はい。
マガダでタキシラに反乱が起こっていると聞いていたため、てっきりマガダに反旗を翻す者がいるのだとばかり思っていましたが、それは誤解でございました」
「何を申しているのだ?」
想定していた、どの筋書きにもない返答だった。
真意が分からない。
「タキシラの前太守ゴドラ殿はその地位を利用し規定の税を水増しし、私腹を肥やさんとしました。
またバラモン教徒以外の者を迫害し、罪も無き多くの民に惨い拷問をくわえました。
これは慈悲深きビンドゥサーラ王を堕としめんとする反逆に等しき所業。
よってその身を捕らえ幽閉してございます。
ここにその罪状のすべてを書き記し持参しております」
ガネーシャの隣りに進み出たアッサカが、書状の入った小箱を捧げ持っている。
「ガネーシャ、下ろしてくれ」
ミトラが命じると、ガネーシャは鼻で巻いてそっとミトラをアショーカの馬の前に降ろした。
そして、ミトラはそのまますっと地面にひざまずいた。
すると、後ろに控えていた数千の騎馬兵が、一斉に馬を降り、ザッと地面にひざまずく。
更にその後ろの数万の歩兵がひざまずく。
更に続く数万の民達がひざまずく。
波のように全員がひざまずいていく。
「なっ?!」
アショーカと側近は、その波が過ぎるような光景をあっけに取られて見つめていた。
すべての者がアショーカの前にひざまずくと、ミトラが再び口を開いた。
「我らはビンドゥサーラ王に反旗を翻した事などございません。
その証拠に、こうして新太守となられるアショーカ王子様を出迎えるべく、民と共にまいったのでございます」
「なんだと……?」
「お待ちもうしておりました。
新太守、アショーカ様!」
ミトラが叫ぶ。
「お待ちもうしておりました!
アショーカ様!」
地鳴りのように民の声が続く。
「まさか……」
呆然とするアショーカを、まぶしそうにミトラが見上げている。
その目にうっすらと涙が浮かんでいるのを見て、アショーカはたまらず手を差し出した。
無意識にミトラも手を差し出す。
アショーカはその手を掴むと、ぐいっと馬上に引き上げた。
「うわっつ?
ちょっと待てアショーカ!」
まさか馬上にまで引き上げられると思ってなかったミトラは慌てた。
「わ、私は今タキシラの代表としてここにいるのだぞ!
下ろせバカ!」
「大人しく俺の前に座ってろ!
さもなくばキスの嵐を降らせるぞ!」
「なっ! 民の前だぞ!
このバカ王子!」
暴れるミトラを背中から抱きしめる。
その馴染みある腕の温かさが、ミトラの張り詰めていた心を不思議なほど安らかにする。
「そなたは本当に飽きない女だ。
何をしでかすか想像もつかぬ。
こうまで民をまとめるのは大変であったであろう。
礼を言うぞ」
その言葉だけでどんな侮辱も屈辱も流れて消え去っていく。
「イスラーフィルとライガとソグドが助けてくれたのだ」
アショーカはミトラを乗せたまま馬を進め、騎馬隊の前に出た。
「そなたがイスラーフィルか。
大した指揮能力だな」
紹介されずとも、自信に溢れた穏やかな風貌に迷いなく声をかけた。
「英名高きお姿、お目にかかりとうございました」
イスラーフィルは馬上の王子を見上げ微笑んだ。
意思の強いグリングレイの瞳は想像通り。
しかし思ったよりもずっと若く美丈夫な男に驚いた。
そして安心しきったように前に抱かれているミトラにも意外なものを感じた。
アショーカはイスラーフィルから離れて、隅にひざまずく粋なたたずまいの男を見た。
「ソグドか。
遅いぞバカ者っ!」
大声の叱責に、居並ぶ高級武官がびくっと肩を震わせた。
「申し訳ございません」
ソグドは、しかし慣れたように微笑んで顔を上げた。
「宝飾を買い付けにギリシャに向かっていましたが、王子の危機を知り、急ぎ剣と弓矢を多数仕入れて参りました」
「抜け目のない男だ。
後で持ってくるがいい」
アショーカは鷹揚に笑った。
そしてその隣りの大男に目を向けた。
「そなたがライガか。
先日は派手な挨拶をしてくれたな」
「はっ。すべて私一人が画策したことにて、どのような罰もお受け致します」
ライガは覚悟を決めていた。
どのような理由にせよ、王子に刃を向けた事に違いはない。
「アショーカ。
ライガの言葉がなければ民を動かす事など出来なかった。
まさか罰を与えようなどと思ってないのだろう?」
ミトラは不安そうに背を見上げた。
「そなたの気持ちは分かるが、この者は王子の俺に刃を向けたのだ」
「アショーカ!」
ミトラは悲痛に叫んだ。
「覚悟は出来ているな、ライガ」
「はっ。仰せのままに」
ライガは潔かった。
「沙汰は後ほど言い渡す。
イスラーフィル、それまでこの者を捕らえていよ」
「アショーカッ!」
ミトラの叫びも虚しくイスラーフィルはさっと立ち上がってライガを後ろ手に縛った。
すでにアショーカの統治は始まっているのだ。
ここで甘さを見せればまた反乱の火種を作る事になる。
ライガもそれは望んでなかった。
「イスラーフィル。
前太守の幽閉後この地をとりまとめていたのはそなたの他に誰がいる?」
「はっ。
こちらにおわす地方顧問官を努める貴族、エラン殿とアキム殿にございます。
その他のバラモン階級の貴族は前太守と一緒に幽閉されております」
「ふむ。エラン、アキム。
おもてをあげよ」
エランとアキムは命じられ、緊張に強張った顔をそっと上げた。
さっきまでミトラを小バカにしていた者と同じ人物とは思えなかった。
「ミトラ、この者達はそなたに無礼を申さなかったか?」
見ていたようなアショーカの問いに、エランとアキムは顔を引きつらせた。
アショーカを、懐柔に女を寄越す浅はかな男と言った者たちだ。
本当の事を言えばどんな罰を受けるか分からない。
「いえ……なにも……」
青ざめた二人を見て言えるはずもなかった。
ミトラの様子を見ていたアショーカは、それだけですべてを悟り、ふうむと唸った。
エランとアキムは厳しい視線を受け、気絶しそうなほど蒼白だ。
「大儀であったな二人とも。
よく民をまとめた」
二人はアショーカの言葉にほうっと吐息をもらして汗を拭った。
「あ、ありがたき幸せ。
我々は新太守様に忠誠を誓います」
初めてアショーカを見た貴族達は、年端もいかぬ若造と見くびる者もいたはずだったが、威圧するような大声と、あっという間に首謀者達をとりまとめる決断の早さに反乱の目は潰えた。
この王子は、場を自分のものにするのが本当にうまい。
ミトラはつくづく感心した。
「よし、では城に参ろうぞっ!
みな俺に続けっ!!」
アショーカが背後に叫ぶと、後ろに控えていた騎士団達が「わあああ!」と雄叫びをあげ、隊列を整え側近三人の後に続いた。
「みなの者!
新太守アショーカ様のお通りだ!
道をあけよ!」
イスラーフィルが叫ぶとアショーカの前の群集がさっと開き、城門までのまっすぐな道が現れた。
「アショーカ新太守様、バンザイ!」
「お待ちしておりました!」
「われらの救世主!」
口々に民衆が歓声を上げる。
アショーカは慣れたふうに片手を上げ民に笑顔を振りまいた。
(なるほどこの若さでこの統率力。
並大抵の男ではない)
イスラーフィルは心の中で舌を巻いた。
次話タイトルは「スシーマ皇太子」です




