3、聖大師様
シャランシャランという軽やかな鈴の音が、遥かな頭上から降り注ぎ始めた。
聖大師様がゆっくりと塔の上から階段を下りてきているのだ。
足につけた金の鈴が神妻の降臨を告げる。
総勢二十人ほどの神殿付き女官たちが、その音色に誘われるように階段を中心に円形に広がる拝殿に集まり、次々と床にひれ伏す。
人たるものの時間の感覚を麻痺させる優雅で長い時間を経て、聖大師様は地上にゆっくり足をつけた。
ミトラと同じ月色の直毛はモザイクの床にまで届き、額の刻印は瞳と同じ翠色の十字がミトラのように隙間を開けず、しっかりと連なっている。
しかし神の残り香を纏う、ため息の出るような麗しさは、純白の長いヴェールで覆われ、従者の目に直接触れる事はない。
「お努めご苦労様でございました聖大師様。
まずは命の間にてお食事をお召し上がり下さいませ」
女官の一人が燭台の一つから粘土のランプを手にとると、拝殿のぐるりに円状に配された七つの扉の一つに案内する。
丁寧に梳いた羊毛で敷き詰められた長椅子の前のテーブルには、脚のついた盆に載せられた最高級の食材が次々並ぶ。
シャーリ米と麦を練って焼いたチャパティー(薄餅)。
香辛料の香りが食欲をそそる煮込み。
糖蜜の甘みのきいたケーキと採れたてのブドウ。
口当たりのいいマドゥ酒と 山羊のミルク。
塩のきいた木の実と甘く煮たナツメヤシのデーツ。
女官が順番に運び込み、やがて準備が済むとミトラを残して扉を閉めた。
二人きりになると、ミトラは聖大師様の長いヴェールを、裾から巻き上げるように外し、うっすらと後光を放つような神妻の前に、もう一度ひれ伏した。
聖大師様はチラリと盆を見て、不機嫌そうに長椅子の上に寝そべった。
「食欲がない。全部下げてくれ」
いつもの事だった。
もう五日食べていない。
「どうかそうおっしゃらず、少しだけでも食べて下さい」
食べるといっても小鳥がついばむぐらいだ。
神妻が長くなると、聖大師は次第に食べなくなる。
必要でなくなるらしい。
その証拠に、痩せてはいるが、瑞々しい肌は保ち続けている。
「では、どうか神酒ソーマだけはお召し上がり下さい」
ミトラは、自ら持ち込んだラピスラズリの杯に、ほんの一口分だけ注がれた白濁した酒を差し出す。
聖大師様は身を乗り出し、ミトラの差し出す杯を、ぱんっと叩き落とした。
輝石で出来た杯はカンッ、カンッと音を立てて転がり、中の酒は青タイルの床一面に飛び散った。
「な、何をなさいますか!」
ミトラはあわてて隅にあった布で拭いてまわる。
半年ほど前からだろうか。日ごとに聖大師様は我儘になってきた。
「貴重な神酒を……」
どれほど苦労して、この一杯を用意したか。
世話係も過ごしてきた聖大師様なら当然知ってるはずなのに……。
ミトラは悔しさに唇を噛みしめる。
「うるさい! そんな魔酒、飲むものか!
二度と出すな!」
怯えたように拒絶する。
「されどソーマを飲まねば体が保てぬと聞いております」
前聖大師様はソーマだけで十年生きたと云われている。
食の細い聖大師の唯一の生命線なのだ。
「飲まぬと言ったら飲まぬ! その杯を持って出て行け!」
半狂乱になってテーブルの食事をミトラめがけて次々投げつける。
最後に投げたフルーツの篭が見事に命中して、潰れたぶどうの汁がミトラの月色の髪を紫に染めた。
「そのように涼しげな顔で正論を吐いていられるのも今のうちじゃ!
私が死ねばそなたもいずれは聖大師になるのじゃ。
そうなれば、そなたはその名も、自由もすべてを失う。
神の妻などという名目で、名ばかりの地位と名誉を与えられ、使う事のない権力だけを行使するのじゃ」
「そのような不満を言っては……」
神を軽んじる発言だ。
「女と生まれても恋の一つも出来ぬ。
どれほど美しく装っても誰の目にも映らぬ。
ただ触れる事も出来ぬ神にこの身を捧げて生涯を終えるのだ……」
(恐ろしい事を言っている……)
ミトラは聞こえぬフリをしようと、散乱した食事を片付けながら視線を落とす。
神の妻でありながら、まるで別の恋人を望んでいるかのようではないか。
この国は他の国々よりずっと女性の地位が守られているが、それでも妻の不義は何よりも重い罪として罰される。
神の妻であれば死刑に値するだろう。
「うっ……」
突然聖大師様が口元を押さえてうずくまった。
「大丈夫ですか? 聖大師様!」
ミトラは駆け寄って、薄い肩を支える。
すぐに違和感を感じた。
「昨日もお加減が悪いようでしたが、もしや何かご病気では……」
(おかしい。何かがおかしい)
「大丈夫だ。
……すまぬミトラ。
そなたを失望させる事ばかり言った」
囁くような聖大師様は一転、正気に戻ったように潤んだ目で悲しげに微笑んだ。
ミトラだけが直視を許される自分と同じ緑色の瞳は、その翳りの中に深く引き込まれそうだ。
魅入られ、倒錯し、溺れる……。
輪廻の永遠の流れに溺れ堕ちる……。
見慣れているはずなのに、目を合わすたび恍惚の緑海に投げ出される。
ミトラにはまだない神妻の神秘の輝き。
確かにこの塔の一室に隠しておくなんて勿体無い美貌だった。
「知っているか、ミトラ。
代々の聖大師はみな若くして亡くなっておる。
三十を過ぎても生きておったは、先代の聖大師様ぐらいのものじゃ。
時には三日で死んだ者もおる。
次の聖大師が間に合わず、空席の期間も多い。
何故これほど短命か分かるか?」
「それは……花嫁の塔があまりに天に近いため……」
聖大師の死因は、ほぼ全員同じだった。
唯一の例外が、病死した先代の聖大師様だ。
「回りくどい言い方をせずともよい。
みな、あの蹴込みの浅い塔への階段で足を踏み外して死んでおる。
毎朝毎晩、上り下りするのだ。
どれほど慎重であっても、ふとした気の緩みで足を踏み外し転落する。
骨という骨が砕け、顔面は叩き潰された果物のようにぐしゃぐしゃになるらしい」
ミトラは少し笑みを浮かべながら説明する聖大師様に眉をひそめた。
「何故そのように危険な塔を建てたかわかるか?」
「より天に近い塔を建てるため、蹴込みを浅くするしかなかったと聞いております」
ミトラの返答に聖大師様はくつくつと嫌な笑い方をした。
「そんな説明を信じておるのか?
この国にはギリシャの技術を継ぐ最高峰の大工が大勢いるのだぞ?
もっと安全な塔など簡単に出来たはずじゃ」
「ではわざと危険な塔を建てたと?
何ゆえそのような事を?」
聖大師様は、躁と鬱を彷徨う病者のように、笑みを消して虚ろに視線を落とした。
「年老いて神に愛されなくなった聖大師など不要だからだ」
「まさか、そのような……」
「若く美しい巫女以外は篩い落とすためにある塔なのじゃ」
ミスラ神の意志だというのか。
「ミトラ、神はそなたが思うよりもずっと無慈悲でわがままだ。
飽いた女になど何一つ教えてくれぬ。
顔が潰れて死のうとも気にも留めぬ。
あともう少し、そなたに自由をやりたかったが、私はもう駄目だ。
近々そなたの時代になるであろう。覚悟を決めておくのだ」
「何をおっしゃいますか! そのような気弱な事を……」
ミトラは驚いて、聖大師様の頭の先から足先まで、順に視線を動かした。
代々の聖大師が持つ神の力。
先代の聖大師様はとりわけ凄い神通力をお持ちだったと聞いている。
しかしミトラはまだ、人の病が影となって僅かに見える能力しか持っていない。
(心を少し病んでおられる……)
ミトラはその顔の相と心の臓に巣くう黒闇の影を見つめた。
(それから……腹……)
ソーマも食事もとってない。
当然だろう。
(それよりも……)
「大丈夫でございますよ。
少し心に負担がかかっておられるようですが、お命にかかわるほどではございません。
どうかお気を強くお持ち下さい」
ミトラの診立てに、はっと聖大師様は我に返ったようだった。
「そうだな。もう大丈夫だ。
少し休むからそなたも外で休憩をとるとよい。
下がれ」
「かしこまりました。
御用があればいつでもお呼び下さい」
次話タイトルは「従者レオン」です