29、イスラーフィル
明け方のタキシラの城門では一騒ぎが起きていた。
反乱前からの衛兵がそのまま寝返った城門は、よく警護されていてネズミ一匹通さない堅固な守りであったが、その物々しい警備の前に象が一頭悠々と現れたのだ。
傍らには、人を百人は殺めてきたに違いない目つきの武官が一人。
象の上の輿は戦闘用の頑強な造りで、中の様子は黒紗のヴェールに隠れて見えない。
「イスラーフィル様。
怪しき者を城門の前で捕らえました。
何故かイスラーフィル様に会わせろと言っているのですが……」
イスラーフィルは前日までの多忙に、城の一室で疲れ果てて眠っていた。
「怪しき者? 商人か?」
眠たげにむくりと起き上がり、靴を履く。
「いえ、山すそで天幕を張る鎮圧軍のド派手な軍服を着ています」
「なにっ!! 奇襲か?」
一気に眠気が吹き飛ぶ。
「いえ、ひどく人相の悪い男が一人に、象が一頭です」
「寝返った者か?
罠かもしれぬな。
よい。連れて来い」
「それが象のそばから離れぬと……。
どうやら輿に大事なものがあるらしく」
「輿に?」
イスラーフィルは仕方なく城門まで自ら赴いた。
そしてド派手な衣装の武官に目を丸くした。
「レオンか?」
アッサカはすっと膝をつき頭を下げた。
「お久しぶりでございます。
イスラーフィル様」
「無事であったのか!
いや、待て、お前しゃべれるのか?」
イスラーフィルは警戒を強め、レオンをまじまじと見た。
「私はマガダの間者でございました。
導師様と共謀しミトラ様を連れ去りました」
「なにっっ!」
イスラーフィルは、すっと腰の剣を引き抜いた。
「いかように罰していただいても構いませんが、今は取り急ぎ大事な方をイスラーフィル様に預けに参りました」
「大事な方だと? まさか……」
イスラーフィルは象の輿を見上げた。
「ガネーシャ様、下ろしてください」
アッサカが告げると、ガネーシャは鼻を持ち上げ、輿の中から月色の髪の少女をそっとイスラーフィルの前に差し出した。
「ミトラ様っ!
ご無事で……ご無事でいらっしゃったのか!」
イスラーフィルは両手を差し出しミトラの体を受け取った。
「まだ薬で眠っておられます。
どうか内密に私の話を聞いて頂けませんか?」
アッサカは全面降伏のていで頭を下げた。
衛兵に口止めし、そっとイスラーフィルのベッドにミトラを運び込んだ。
「それでは何か?
そのアショーカ王子とやらが、有利な人質になるであろうミトラ様を自ら逃がしたと言うのか?」
ベッドのそばでアッサカの話を聞いていたイスラーフィルが、怪訝そうに聞き返した。
「はい。
ミトラ様をシリアに逃がすようにとおっしゃいました」
「それは俺も賛成だが……。
しかし腑に落ちん。
そんな事をして王子に何の得がある」
「アショーカ王子はビンドゥサーラ王と敵対しています。
反乱鎮圧も命じられ、仕方なく従って参りましたが、この状況下で一転ビンドゥサーラ王の軍に向かうと決め、ミトラ様だけでも逃そうとなさったのでございます」
「なかなかによく出来たシナリオだが、それを信じろと?
そんな都合のいい話を?
マガダの間者であったお前の言葉を?」
「時間がありません。
アショーカ王子の背後にはマガダの十万の正規軍が迫っています。
どうかシェイハンの信頼出来る者を集め、すぐにシリアに向かって下さい」
「シリアには行かぬぞっ!!」
ふいにベッドから断じる声がした。
「ミトラ様!
お目覚めになられましたか?」
イスラーフィルが破顔して駆け寄る。
「お体は大丈夫ですか?
どこか痛い所はございませんか?」
「イスラーフィル!
シリアには行かぬ!
私はここに残る!」
ミトラはイスラーフィルの問いには答えず、懇願するようにその手を握り締めた。
「やはり罠でございましたか?
アショーカ王子とやらは何を企んでいるのですか?」
イスラーフィルは誤解しているようだった。
「違う!
アショーカは本当に私を逃がしたのだ。
私が招いた苦境であるにも関わらず私を逃がした。
頼むイスラーフィル!
アショーカを助けてくれ。
あの者を死なせてはいけない!
アショーカならこのタキシラの地を正しく治めてくれる。
どうかみんなを説得してくれ!
お願いだ!」
「何をおっしゃるのですかっっ!!
アショーカ王子はシェイハンの王族を、聖大師様を、焼き殺したビンドゥサーラの息子なのですよ?
しっかりして下さい、ミトラ様」
「そうだが、そうだが、アショーカは違うのだ!
あれはそんな小さな了見で物事を捉えてはいない。
民の幸せを本気で願う王の中の王だ!
死なせてはならないのだ!」
「ミトラ様、正気に戻って下さい。
ご自分が何を言ってるのかわかってますか?
ミトラ様が攫われて後、シェイハンがどんな目にあったのか。
分かって言ってるのですか?
神託に集わず命拾いした幼き三の姫と四の姫を無慈悲に切り捨て、わずかに残る親族も皆殺しにしたのですよ。」
「姫君達を……」
ミトラの妹達だ。
「おまけに美しい宮殿を気に入ったゴドラ太守は我が物顔で城に入り込み、気に入った貴族の娘達を次々手篭めにし、傍若無人の数々。
我等は我慢できず兵を挙げたのです」
なんということを……。
許せない。
許せないのは当然だ。
でも、それでも……。
「それでも…………。
アショーカを助けて欲しい……」
イスラーフィルはミトラが騙されていると思った。
聡明で多くの知識を持とうとも、世間知らずの十四の姫なのだ。
その無垢な心にアショーカという男がつけいったのだと思った。
「イスラーフィル様。
間者であった私の意見などゴミくず同然でございましょうが、あえて言わせて頂けるなら、アショーカ王子は国を治める者の広い視野を持った方でございます。
万民の未来のために自らミトラ様を逃がされたのです。
現シリア王はアショーカ王子の母、ミカエル様の兄上。
その後見を得るべく書状もここに預かっております」
アッサカは懐から書状を差し出した。
「ミカエル様か。
知ってるぞ。
シリアにいた頃お会いした事がある。
賢く美しい方であった。
あの方の息子か……」
書状を読むイスラーフィルの瞳に迷いが生じる。
「お願いだイスラーフィル。
アショーカを助けてくれ」
ミトラはもう一度懇願した。
しばし考え込んだ後、イスラーフィルはゆっくり頷いた。
「ミトラ様とレオンがそうまで言うのなら、おそらくは志の高い方なのでしょう。
私は信じます」
ミトラは希望に目を輝かせた。
「しかし、ゴドラ太守はこのタキシラでもシェイハンと同じような事をしています。
タキシラの民はみな現太守の悪政に苦しみ、飢えて死んだ者、荒廃した治安ゆえ命を落とした者、路頭に迷った者が大勢います。
現王をこれほど憎んでいる者達を説得するのは不可能でしょう。
されどシェイハンの民だけならば私の力で説得してみせましょう。
だが、それとてアショーカ王子を助ける事にはなりません。
シェイハンの民はミトラ様さえ手元に戻ったのであれば、即刻タキシラから兵を引き、シリアに逃げる道を選ぶでしょう。
マガダの王子をわざわざ助ける者などどこにもいないのです」
ミトラは絶望に顔を歪め、アッサカは静かに目を瞑った。
(アショーカ王子の読まれていた通りだ。
王子は、タキシラの民もシェイハンの民も、どう動くか手に取るようにわかってらした。
それゆえミトラ様を逃がしたのだ)
「私が説得してみる。
タキシラの代表の者達を呼んでくれ。
頼む」
しかしミトラは諦めてはいなかった。
「無駄でございます。
シェイハンではミトラ様の言葉は万民に価値あるものでございましたが、このタキシラの貴族や豪族は、女が政治に口を挟む事を好みません。
ひどい辱めに合うことでしょう。
おやめください」
「それでもいい。
出来る事は何でもしたいのだ」
「しかし……」
何とかなだめようとするイスラーフィルの部屋に、間の悪い事に男達がどやどやとなだれ込んできた。
次話タイトルは「ライガとソグド」です




