28、アショーカとミトラ
「ミトラ様……。
どうかそんなにお嘆きにならないで下さい」
アッサカはあれからずっと夜まで泣きじゃくったままのミトラに困り果てていた。
「アッサカ、アッサカ。
私を殺してくれ。
私はみなを不幸にする疫病神なのだ」
「ミトラ様が死ねばアショーカ王子は皇太子の婚約者を殺したという汚名をきせられるでしょう。
どうかお留まり下さい」
「ではどうすればいい?
私はこれからどうすればいいのだ」
「アショーカ様にお任せしましょう。
きっと何かお考えがあるはずです」
「スシーマ王子の所へ行こう。
私が自ら逃げ出したのだと言って兵を引いてもらおう」
「それは出来ぬぞっ!」
天幕の入り口から聞こえた大声に、ミトラは驚いて振り返った。
「アショーカ!」
頬に赤みがさしている。
酔っているらしい。
手には杯を二つと酒壺を持っていた。
「そなたは俺を選んだのだろう。
もはやスシーマの元には返さぬ」
アショーカは手に持った杯を一つミトラに渡した。
「でも、それではそなたの汚名が……」
「今更戻っても、もう出兵してしまったのだ。
兵を引く事は出来ぬ。
そなたを取り戻したと言って俺を討つだろう」
「そんなっ!!
それではもう兄弟で戦う以外ないのか?」
「いずれは戦う運命であった。
だが、あの堅物のスシーマが、女一人に兵を挙げるとは……。
余程そなたを気に入ったらしいな」
アショーカはミトラの杯に酒を注いだ。
「飲め!」
アショーカは気だるそうに、ドサリとミトラの隣りに座った。
「私は酒など飲んだ事がない」
ミトラは杯を返そうとした。
「俺の杯が飲めぬと申すかっっ!」
目が据わっている。
相当酔っているらしい。
「飲めっ!」
百アショーカの大声で命令されて、ミトラは渋々酒をすすった。
「もっとちゃんと飲め!」
逆らう事も出来ず、ミトラはぐいっと杯を空けた。
「う……にが……」
喉が焼けるように熱い。
「それでよい」
アショーカは喉を押さえるミトラを愉快そうに見やった。
「タキシラに放っていた間者が戻ってきた」
ふいに真顔になる。
「反乱軍の総指揮はイスラーフィルという男だ。
元シリアの高級武官だったらしい」
ミトラとアッサカは、はっと顔を見合わせた。
「想像していた以上に整った軍隊を組織している。
指揮官の腕がいいのだろう。
数も日ごと増え続け、一万……。
いや、タキシラの民はすべて反乱軍の味方だ」
「私が行ってイスラーフィルを説得する!
争わずにすむように頼んでみる!」
ミトラはアショーカの左腕に縋りついた。
しかしアショーカは静かに首を振った。
「イスラーフィルが総指揮とはいえ、タキシラの貴族や豪族が寄り集まって出来た軍だ。
たとえイスラーフィルを説得出来たとしても、女一人の言葉に気持ちを変える連中ではない。
そなたも分かっているだろう。
マガダの国では女の言葉に本気で耳を傾ける男などいない。
たとえシェイハンの巫女姫であろうと同じだ。
むしろ、そなたが皇太子の婚約者だと知られたら、無慈悲に利用されるぞ。
絶対知られてはならない」
「なぜそんな事をわざわざ言うのだ。
私はここにいるのに……」
なぜか舌が痺れる。
「我が軍はタキシラの反乱鎮圧を取りやめ、全軍でスシーマの軍を迎え討つ事にした」
「な! まさか! なぜ……?」
頭が朦朧とする。
思考がまとまらない。
「どちらに行っても勝ち目がないのなら、勇気ある反乱民よりもビンドゥサーラの腐った正規軍に一太刀浴びせてやる。
そう決めた」
「勝ち目がない……?
死ぬつもりなのか?」
痺れる手でアショーカを掴む。
自分の腕に必死に縋りつく少女に、アショーカは大人びた目で微笑んだ。
「そなたはサヒンダの言う通り、余計な事をしてくれた」
目がかすむ。
「だが、俺は天幕にお前の姿を見た時……。
無性に嬉しかったのだ」
「何を言って……」
ろれつが回らなくなってきた。
「嘘でも俺を選んだ、愛してると言われて嬉しかった」
アショーカはぐったりと力が入らなくなったミトラの体をそっと抱きしめた。
無遠慮な男の、精一杯の心遣いを肌に感じる。
「酒に……何を……入れた……?」
言葉を継ぐのも苦しい。
「ほんのひととき眠りに落ちるだけだ」
耳元にアショーカの声が聞こえる。
「アッサカとガネーシャを連れてイスラーフィルの元に行け。
一日猶予をやる。
その間にそなたに仕えるシェイハンの残党を連れてシリアへ逃げるのだ。
現シリア王は我が母上の兄君。
それにミスラの信徒も多いと聞く。
きっと悪くは扱わぬはずだ」
「いや……だ……。いや……だ……」
必死に抵抗しようとするが体は動かない。
「わた……しは……そなたの……そばに……いた……い……」
極限の本音を呟き、意識を手放す。
アショーカはもう一度その体を、今度は遠慮なく力一杯に抱きしめる。
「最後の最後に……可愛い事を言う」
そばに控えるアッサカににやりと微笑んだ。
そのままミトラを抱き上げ象舎に向かった。
訓練を重ねる逞しい腕には、腰に履く剣よりも軽く感じる小さな少女。
気が付けば、いつの間にか執着を持て余すほど重い存在になっていた。
これほど愛おしい存在を知らない。
それなのに自ら手放さねばならない悔しさに、己の無力をかみ締める。
「よいかアッサカ。
我が軍は明後日の夜明けと共にスシーマ軍に奇襲をかける。
スシーマは我が軍を討ちとったならば、すぐさま反乱民の鎮圧に向かうはずだ。
それまでに出来る限りミトラを遠くに逃がすのだ。
シリア王に俺の書いた親書を渡せ」
「はい。
イスラーフィル様ならうまく逃がしてくれるでしょう」
「その男、信用出来るのだな?」
「はい。
非常に有能で仁義に厚い人物です」
アショーカは頷く。
「分かっていると思うが、俺は何も私欲のみでミトラを生かしたいと思っているのではない。
ただ、愛しいのみの無力な女であれば、共に死に向かったかもしれぬ。
されどミトラは……。
道は違えども未来に描くものが俺と同じであるのだと思っている。
俺が果たせなかった理想の世を、この者は創り上げるやもしれぬ」
叶わなかった未来を愛おしむように、腕の中の少女を見つめる。
「スシーマは、あるいはそれを感じ取りシリアまで追いかけてくるかもしれぬ。
さればシリア王の後見のもと、対等の立場にて婚儀を結ぶがいい。
俺以外にミトラを正しく生かせるのはスシーマしかいるまい。
きっとヒンドゥの希望の光となるだろう」
アッサカはうつむいた。
涙が溢れそうだったからだ。
正しき王がここにいる。
本当に民を思い、世界を良くしようと命を賭ける王が……。
涙に耐え凶悪な人相になるアッサカを見て、アショーカは笑った。
「お前は感情を隠そうとすると阿修羅のごとく恐ろしい顔になるのだな」
「申し訳ございません」
アッサカは顔を隠すように更に俯いた。
「父上は、よくもそなたのような不器用な男に間者などさせたものだ」
「ラーダグプタ様には、バレるからしゃべるなと言われておりました」
「賢明な命令だ。
間者や密偵などは、ラーダグプタのごとく腹黒い男のやる仕事だ。
この無垢なミトラを騙すのはさぞ辛い任務であったであろう。
人相が悪くなるわけだ」
すべてを見通したようなアショーカの言葉に、アッサカは思わず顔を上げた。
「だが、もう感情を隠す必要はないのだぞ。
お前に最後の命令を下そう。
これより先、お前はミトラに正直でいろ。
そして……たまには笑ってやれ」
パタパタと、アッサカの足元に地面を打つ音が響いた。
予測も出来ぬほどに溢れた涙が、足元に水溜りを作る勢いで積もる。
アッサカはたまらず地面に伏せた。
「申し訳ございません、アショーカ様!」
「何を唐突に謝っておるのだ?」
アショーカは足元にひれ伏すアッサカに驚く。
「私は……私は、ミトラ様がアショーカ様の軍に潜めば、このような事態になるだろう可能性も気付いておりました。
それでも……それでも、私はお二人が共にいて欲しかった。
私が忠告すればミトラ様はアショーカ様を危険に晒すような事はしなかったはず。
すべては私の我欲のせいで引き起こされたのです。
申し訳ございませんっ!!」
地面に額をつけて告白するアッサカに、アショーカは驚かなかった。
「なんだ、そんな事か。
とうの昔に分かっておるわ、たわけが」
事も無げに言う。
「そなたがそう思って行動したのなら、それで正解なのだ。
自分の行動の是非など、死んだ後しか分からぬ。
そんなものは死んだ後、勝手な創り話を並べ立てる語り部達にさせておけばよい。
お前は自分の選択が正しいものになるように精一杯尽くせばいいのだ」
アッサカの頬をとめどない涙が落ちる。
十も年若のこの王子の偉大さに心震える。
「私はアショーカ様とミトラ様が……共に歩むそばでお仕えしとうございました」
掛け値なしの本心だった。
ミトラ様のそばにいるのはこの方であったはずなのに。
「その言葉、次の世まで心に留め置こう。
もう行け。ガネーシャ頼んだぞ」
象舎のガネーシャは、ミトラを背の輿に器用に乗せ、パオオオオンと一泣きした。
その目は深く遠い未来をも見通しているように穏やかだった。
次話タイトルは「イスラーフィル」です




