27、側近 サヒンダ
天幕の外に黒い影がゆらめいていた。
三人が合わせたように、スラリと剣を引き抜く。
ザッと天幕を切り裂く音がして、数多の山賊がなだれこんできた。
「二十五だ。
お前達は八サヒンダ。
俺が九サヒンダだ」
アショーカが瞬時に数を把握して命じる。
「はいはい、八サヒンダね」
ヒジムが可笑しそうに了解し、アッサカも肯いた。
(八サヒンダって……)
あれほど数字に名前をつけるなと言ってたくせに……。
カンッッ!!
アショーカが受けた剣の刃音を皮切りに、ヒジムもアッサカも剣を交える音がする。
ブサリと生々しい音がして、うわあああという呻き声が続く。
一瞬で現実に引き戻された。
最精鋭の腕を持つ三人は、ミトラを背に囲んだままほとんど定位置から動かず次々に山賊を仕留めているらしい。
背の高い三人に囲まれ、ミトラにだけ状況は見えてこない。
だが明らかに優勢なのは分かった。
周囲に転がる山賊の呻き声だけが聞こえる。
「お頭、こっちです。
すげえ強え奴らが何者かを守ってるんです」
「きっとあの中に、この鎮圧軍の総大将の王子がいるはずです!」
ようやくすべてをやっつけたと思った頃、更に大勢の足音がこっちにやって来た。
「よしっ! みなをこっちへ集めろ!
王子さえ仕留めれば後は逃げればいい!」
お頭と呼ばれた馬上の大柄な男の命令に、続々と山賊が集まってきた。
三人はいくら強くともさすがに疲れが出始めていた。
この数を倒す力は残ってないはずだ。
「五十一か……。
伏兵がこんなにいたか。
サヒンダは何をしている……」
アショーカがギリリと唇をかむのが分かった。
三人の影にいるミトラをアショーカ王子だと思っているらしい。
まさか総大将の王子自ら剣を交えているとは気付いてないのだ。
「総大将の王子よ。
そんな所で隠れてないで勝負しろ!
それともマガダの腰抜け王子は、山賊ごときに恐れをなして震えているのか!」
野太い声がミトラに降りかかる。
(どうしよう……。
王子だと思っていたのが女だと知れたら……。
いや。
それよりも今まさに目の前にいるのが王子だと分かったら?
アショーカが狙い打ちされる!)
矢に射抜かれ、血まみれになったユンダーイルが脳裏に浮かぶ。
アショーカが同じ目にあったらどうしよう。
(逃げてくれ!
私の事など捨て置いて……)
ミトラはアショーカの袖を震える手で握りしめた。
アショーカは衣装に伝わる震えに気付いて、チラリと背後を見やる。
ほんの一瞬目が合った。
逃げて、と全力で訴えたつもりだった。
しかし、すぐにそれが逆効果だったと思い知る。
「王子なら俺だが?」
アショーカは、あっさり自分で名乗ってしまった。
ミトラが助けて、と訴えたと思ったらしい。
(だからって自分から名乗るなんて……)
ミトラは愕然とする。
「なに?」
お頭は目の前に堂々と立つ、年若い青年を見つめた。
醜く太った現太守と凡庸な前太守を知っているお頭は、目の前の精悍な体躯と強い光を放つグリングレイの瞳に、しばし驚きを隠せないようだった。
「嘘をつくなっ!
この状況で自ら名乗るバカがどこにいる」
アショーカに負けない大声だ。
「そのバカ王子だ! 悪いか!
俺に用があるのなら聞いてやる。
他の者に手出しは無用だっ!」
お頭以上の耳を突く大声に驚き、山賊達は一瞬にしてシンとなった。
熊のような大男は、不思議な威圧感を持つ青年を、怪しむように値踏みした。
「なるほど……。
よく出来た影武者だな。
だが本物の王子を出してもらおう。
その背にいるのは分かっている!」
言うなり、剣をアショーカに振り下ろした。
ガッッッ!
受け止めた刃音がアショーカの頭上に響き、そのままずるずると後ろにずり下がる。
さすがにお頭を名乗るだけあって今までの山賊とはケタ違いに強いらしい。
ヒジムとアッサカが加勢しようと剣を構える。
「お前達は体力を温存してミトラを守ってろ!」
小声のつもりだろうが丸聞こえだ。
「ふんっ! 正体がバレたな。
総大将の王子が自分の命より守らねばならない何があるというのだ!」
お頭はにやりと剣を引き、わざと左横から差し込んだ。
危うく受け止め、アショーカの体勢が崩れる。
そのひねった背から、背後の人影が馬上のお頭にだけ、はっきりと見えた。
「なにっ! 女……?」
少女が怯えたように見上げていた。
ずり落ちたマントから月色の髪がこぼれている。
「月色の髪の……」
お頭は呆然と少女を見つめ、それから剣を受け止めるアショーカを見やった。
「まさか……本当に……」
王子なのか?
しかし次の言葉を発する前にサヒンダの軍勢が押し寄せ、お頭は剣を引き、後ろに下がった。
「お頭、火槍で足止めしていた本軍が突破したようです。
まずいですよ」
「う、うむ。撤退だ」
もとより、すっかり戦意を失っていた。
「待て! 山賊!」
逃げようとする山賊にアショーカの大声が響く。
「怪我をした仲間を連れて行け!
片付けるのが面倒だ。
急所は外してあるはずだが命を落とした者がいれば許せ!
先に仕掛けたのはそなたらだ!」
お頭は驚いた顔でアショーカを見つめたが、天幕に転がる仲間を見回して、すぐさま納得したように部下に怪我人を運ばせ、去っていった。
山賊が去ると、ミトラはへなへなとその場にくず折れた。
「怪我はないか? ミトラ」
アショーカは慣れた様子で剣をしまう。
「急所を外す命令だったのか?
いつの間に……」
そんな事は命じてなかったはずだ。
「だから八サヒンダでしょ?
少々痛い目に合わせても殺しちゃダメって事でしょ?」
ヒジムは敵の利き腕だけに集中して切り傷を負わせた。
「打ち身だけという命令ではなかったのですね」
アッサカは剣の背だけで打った。
「いや、存分に痛めつけて良いが、殺すなという意味だ」
足をやられて転がっていたのは、すべてアショーカの切った相手らしい。
「私の名前をつまらぬ事に使わないで頂けますか?」
騎士団を率いてやってきたサヒンダが、永久凍土のような冷ややかな顔で断じる。
その氷塊のような声音に動じる様子もなく、アショーカの罵声が飛んだ。
「サヒンダッ!
今まで何をしていたっ!!
俺が来なければ少なからず犠牲者が出ていたぞ」
怒鳴りつけられ、珍しくサヒンダが青ざめた顔でひれ伏した。
「申し訳ございません。
火槍の軍勢に分断され、また急所をはずせというご命令に突破口がなかなか見出せず、遅れをとりました」
さすがに恐縮している。
「言い訳はよい!
同じミスはないと思え!」
「はっ。肝に銘じます!
されど……私も一言言わせてください」
「なんだ? 申してみよ!」
サヒンダはチラリとミトラを見た。
「我らアショーカ様の為なら死ぬ覚悟で集まった者でございますれば、肝心のアショーカ様が側近の元を離れ、単独で危険な場所に飛び込まれては、ここにいる甲斐もございません。
ご自分の命より大事なものなどないという事をお忘れにならないで下さい。
我らがお守りするは、そのシェイハンの女ではなくアショーカ様だという事を……」
「口が過ぎるぞっ、サヒンダ!」
アショーカは困ったようにサヒンダを遮った。
「いいえ。
此度の奇襲も我ら精鋭ぞろいなれば、わが身は自分で守れる者ばかり。
このようにアショーカ様を危険に晒す事など無かったはず。
わが身も守れぬ弱点がある故に、かように苦戦したのでございます」
ミトラは青ざめて聞いていた。
そうだ。
確かに自分さえいなければアショーカは敵の眼前に現れる必要も無かった。
自分を守るためにこの場に残り、まして自ら王子だと名乗ったのだ。
「よさぬか、サヒンダ!
それ以上言うと切り捨てるぞ」
「はっ。申し訳ございません」
謝ってはいるが、少しも悪いとは思っていない。
その時大柄の男が、さっと二人の間にひざまずいた。
トムデクだ。
「アショーカ王子。
後方に待機させていました間者よりの報告でございます」
「どうした?」
アショーカの眉がぴりりと上がった。
「マガダの正規軍がこちらに向かっているとの事でございます。
その数、十万」
「十万だとっっ?」
サヒンダの後ろに控える騎士団の面々にも驚きが広がる。
「総指揮をするのはスシーマ王子のようでございます。
ラーダグプタ殿も随行されているとのこと。
これはおそらく王子が心配されていた通りに……」
そこまで言うと、トムデクは困った顔でミトラを見た。
まさか……自分と関係があるのか?
ミトラは自分に集まる視線に呆然とする。
「皇太子の婚約者を奪った逆賊を討つ。
立派な口実を与えましたな」
まだ分かってないミトラを、サヒンダが憎々しげに見ながら言い募った。
「まさかっっ!! そんな……。
私は自分からここに参ったのだ。
奪われたのではない!」
ミトラは震える手を握り締めてアショーカを見た。
アショーカは考え込むように難しい顔をしている。
「そんな言い訳が通用すると思っているのですか?
現にあなたがここにいる。
それだけでアショーカ王子は逆賊なのです」
サヒンダは容赦なかった。
「我々は王のための鎮圧軍として、少しの汚点も持ってはいけなかった。
皇太子の婚約者を奪ったとあっては世論も味方につかない。
あなたは皇太子の婚約者であるというご自分の立場を、もっと考えて行動するべきであった。
あなたはただの愚かな女では済まない立場なのですよ」
「いい加減にしろサヒンダ。
どのみち父上は俺を討つつもりであった。
それが少し早まっただけだ。
ミトラは口実に過ぎぬのだ」
アショーカが遮る。
「しかし……」
サヒンダはまだ言い足りなかった。
「確かに俺もこれほど早く動くとは思わなかった。
スシーマ兄上は争いを好まぬ男ゆえ、反乱鎮圧の結果を見て動くと思っていたが……。
思った以上に本気であったということか……」
アショーカは思案するようにミトラを見つめた。
ミトラは皆を見回した。
騎士団達が憎しみをこめて自分を見ている気がする。
当たり前だ。
命をかけて仕える主君の立場を悪くする稀代の悪女なのだから……。
なぜ自分はこうも間違いばかりを起こす?
事を起こそうとすればするほどに大事な人々を苦境に立たせてしまう?
疫病神なのだ。
常軌を逸した両手の震えが止まらない。
アショーカはその手元をチラリと見て、アッサカを呼び寄せる。
「アッサカ、ミトラを俺の天幕に連れていけ。
女には刺激が強かっただろう。
俺が戻るまで誰にも会わせるな。
みなも戦に備え天幕に戻り休息を取れ。
隊長以上の者は今から会議を開くゆえ大天幕に集まれ」
アショーカはミトラを皆の非難の目から引き離すように命じた。
次話タイトルは「アショーカとミトラ」です




