26、側近ヒジム サヒンダ
「それだけでアショーカは出て行ったのか?
何だよつまんないなあ」
不機嫌そうに天幕に入ってきたヒジムは、ミトラの話を聞いて、さらに不機嫌になった。
「アショーカは何がしたかったんだ?」
「……」
ミトラの問いに、ヒジムはしばし黙り込んだ。
「あんたさあ、小娘どころか幼子にまでなるんだな。
一番タチの悪い女だ」
「なぜだ?
私はずるい事をしたのか?」
「あー、そういう事を無垢な顔で聞くのがまたむかつくんだよね。
でも男ってそういう女が好きなんだよね。
ほんとバカだよな」
ヒジムはクッションのきいた敷布にごろりと寝転がった。
「そなたはアショーカを怖いと思った事はないのか?」
ヒジムは横に座るミトラを見上げた。
「主君としては怖いさ。
ミスをしたら、あのでかい声と剣幕で怒鳴られるんだからさ。
でも女としては悲しいぐらい危険を感じた事はないね。
まあ女でもないけどね」
「え?」
ミトラは怪訝な顔でヒジムを見つめた。
凛とした細面の美しい顔だ。
「なに? 僕を女だと思ってたの?
まあ間違いでもないけどね」
「どういう……?」
意味がわからない。
「あんた医学の知識もあるんだろ?
両性具有ってやつさ。
男でもあり女でもある。
そして男でも女でもないのさ」
「両性……具有……」
その辺の知識は導師が読み飛ばしてしまった。
「僕が住んでいた不可触民の村はヒンドゥ中の両性具有の赤ん坊が捨てられるゴミ捨て場のような村なのさ。
生まれた途端殺す親もいるらしいから、捨てにくるだけマシかもしれないけどね。
それから長じて女の心を持つ男達が流れ着く村でもある。
僕は肌の色と産着からバラモンの名家の生まれに違いないと言われてるけど、結局は不可触民の捨て子なのさ」
「じゃあヒジムの村は両方の性を持つ、そなたのような外見の者ばかりなのか?」
「バカ言わないでよね。
こんな美人がそこら中に転がってる訳ないでしょ。
一番多いのは男の外見で女の心を持つやつさ。
トムデクのようなでかい男が女みたいな化粧をするから、気味悪がって村には誰も近付かない」
「貧しい村なのか?」
普段のヒジムからは少しも悲壮感は伝わってこないが……。
「ほんの数年前まではね。
ミカエル様が援助して下さるようになって、アショーカが才能ある者を商人に取り立てたおかげで今は豊かな村になった。
騎士団に取り立てられたのは僕だけだけどね。
男が好きだから風紀が乱れるんだってさ」
「ヒジムは男が好きなのか?」
屈託のないミトラにヒジムはため息をつく。
「よくそういう事気軽に聞けるよね。
遠慮ってないの?」
「え? 失礼だったか?
すまない」
あっさり謝るミトラに、ヒジムは観念したように続けた。
「僕にも本当はわかんないのさ。
ただ、僕の人生で、命をかけて守りたいと思ったのは、今のところアショーカ一人さ。
だから男が好きなのかもね」
「アショーカを好きなのか?
怖いのではないのか」
「怖いと好きは相反する感情じゃないよ。
アショーカの怖さは好きなんだ。
厳しさの中に時々底の知れない温かさを感じる。
きっとアショーカに命を預ける騎士団の男達は、みんな同じ思いを持ってるはずさ」
ヒジムの言葉にミトラは深く頷いた。
「そうだな。
騎士団の者たちはみなアショーカに信頼と忠誠を寄せている。
アッサカすら、きっと長年一緒にいた私よりアショーカを信頼している。
私はシェイハンで次代の巫女姫と崇められていながら、アショーカほど信頼されてはいなかった」
しょんぼりと呟くミトラにヒジムは珍しい物を見たような顔をした。
「なに? アショーカに嫉妬してるの?
あんたってほんと変わった女だよね」
嫉妬……。
この胸につかえる妙な揺らぎはそういう感情なのかもしれない。
ミトラは、その感情を表現する言葉を知らなかった。
※ ※
タキシラまでの長い道中、アショーカはそっけなかった。
ミトラはガネーシャの輿に乗せられ、監視と警備をヒジムとアッサカ達三人に任せたまま近寄りもしない。
騎士団の一人一人に声をかけて回るアショーカを時折見かけたが、ミトラには見向きもしなかった。
スシーマの元へ行けと言ったあの時、すでにアショーカの心は自分にはなかったのだ。
とっくの昔に切り捨てていたミトラに付き纏われて迷惑に思っているのだ。
軽い失望感に気付いて、ミトラは更に自己嫌悪に陥った。
選んだと言われ、愛してると言われ、感激したり優しくされると、自分は心のどこかで期待していたのだ。
とりわけ冷たい態度だったのは、側近のサヒンダだった。
「ミトラ殿、なぜこんな所にいるのですか?」
夜半に、天幕の外で呼び止められた。
「象舎の方へ……。
ガネーシャの毛並みを整えてやろうかと思って……」
夕食後、一日乗せてもらったガネーシャに何かお礼をしたかったのだ。
「人目につかぬようにと言いましたよね。
夜はご自分の天幕から出ないでいただきたい。
アッサカッ!
お前がついていながら何をしている!」
アッサカは申し訳なさそうにサヒンダに平伏した。
「アッサカは止めたのだ。
無理矢理私が頼んだのだ」
ミトラの弁解にサヒンダはふんっと鼻を鳴らした。
品のいい貴公子のサヒンダしか知らなかったミトラは驚く。
「あなたはご自分が何をなさったのか、まだ分かってらっしゃらないようだ。
これ以上アショーカ王子の立場を悪くしないで頂きたい。
とっとと天幕に戻って頂きましょうか」
「王子の立場を悪くするとは?」
目を丸くするミトラに、サヒンダは更に侮蔑の表情を投げかける。
「それぐらい自分で考えたらどうですか?
ただ、あなたはここに存在するだけで王子を苦境に立たせているという事です。
……ったく!
アショーカ様は女に甘すぎる!」
苦々しく言い捨てると、サヒンダは立ち去ってしまった。
「アッサカ、私は何か迷惑をかけているのか?
余分な食料や警備をとられてしまった事か?
それだけじゃないのか?」
アッサカは険しい顔のまま困ったように首を傾げた。
こんな表情をするアッサカは何かを知っている。
それでいて、いつも絶対教えてはくれなかった。
しかし、サヒンダの言葉の意味は、やがて身をもって知る事になった。
間もなくタキシラの城門が見えてくるという山すその野営で事は起こった。
「ミトラ! ミトラ、起きて!
外が騒がしい」
夜明けにヒジムの声で目覚めた。
「なに? 何かあったのか?」
ヒジムはすでに腰に剣を帯びて甲冑を肩にかけていた。
「アッサカ、入れ!」
天幕の外に待機していたアッサカが、すぐにヒジムのそばにひざまずいた。
「状況は?」
尋ねながら足の甲冑も付け、準備を整えていく。
手際がいい。
「タキシラの山賊の奇襲かと思われます。
農民達の烏合の衆だと思われますが、数が多い。
アショーカ様は三百と読んでいます」
「タキシラの山賊……」
ミトラの脳裏に矢で射抜かれたユンダーイルの姿がよみがえる。
アッサカが心配そうにミトラを見やった。
「お前はミトラを安全な場所に誘導して守れ。
僕はアショーカの所へ行く」
準備を整え天幕を出ようとしたヒジムは、風のように飛び込んできたアショーカに驚いた。
「アショーカ! 何やってるのさ!」
「前線の指揮はサヒンダに任せた。
お前こそ、どこへ行くつもりだったんだっ!」
「どこって、もちろんアショーカを援護しに……」
「バカものっっ!
お前はミトラの警護をせよと言ったであろう!
この非常時にそばを離れてどうするつもりだっ!」
耳元の罵声に、ヒジムはひゃっと首を引っ込めた。
「申し訳ございません」
珍しく片膝をつき、素直に謝る。
「山賊は全部で二百八十二。
騎馬は二十五、火槍が二百五十七。
そっちはサヒンダと騎士団に任せた。
だが伏兵が散らばってるぞ。
こっちにも来るだろう」
どうやって数えたのか、あまりに正確な数字に驚くミトラに、アショーカは自分のマントをはずして、頭から被せる。
「それを被って目を瞑ってろ!
来たぞ!」
アッサカとヒジムが、はっと緊迫の表情を浮かべ、ミトラを背に囲むように立ち上がる。
次話タイトルは「側近サヒンダ」です




