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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
25/222

25、アショーカとミトラ

 

 西宮殿の中は黄色と黒の縞模様で埋め尽くされていた。


 アショーカに集ったシュードラの騎士達と、数人のクシャトリアの武官。

 側近のサヒンダとヒジムとトムデク。


 派手な衣装は変わらないが、兜と左胸から手首までを守る黒い甲冑と、真新しい剣や弓をそれぞれにさげている。

 すべてお抱えの商人達の商取引で得た莫大な利益で買った私物であった。

 

 唯一王の象部隊の隊長であるカールヴァキーの父親、コルバ隊長が自分の象部隊を連れて参戦した。

 お気に入りの婿のため、すべてを投げ打ち駆けつけたのだ。

 総勢七百六十三。一王子にしては集まった方だ。


「アショーカ、必ず無事に帰るのですよ」

 ミカエルと妻達が見送りに立つ。


「うむ、母上、留守を頼む。

 カールヴァキー、デビ、子供達を頼む」

 カールヴァキーは大きな黒目に涙をいっぱい溜め、デビはすでに泣きじゃくっている。


「わたくし、アショーカ様の無事を願掛けに、カトマンズの山に登る事に致します」

 真っ赤な目で前人未到の死の登山を宣言するデビに、アショーカは、ははっと笑った。


「お前のそういう可愛い所を愛しているぞ。

 だが頼むから登山はやめてくれ。

 母上が心配する」


「うわああああんん!」

 デビは愛していると言われた事に感激して、ますます泣きじゃくった。


「兄上、私も参ります!」

 ティッサが先日もらった剣を携え駆け寄る。

「おう、剣を持つと男前が上がったなティッサ。

 だが、此度はそなたに母上達の警護を命ずる。

 俺が帰るまでこの宮殿を守れ。

 重要な役目だぞ。よいな?」

「で、でも……私は兄上と一緒に……」

 もう目に涙が溜まっている。


「男ならば簡単に泣くな!

 わが命令を必ずや果たせ!

 わかったか!」

「は、はいっ! 兄上!」

 ティッサは唇をかみ、必死で涙を堪える。



 ふとアショーカは顔を上げ、南の宮殿を見やった。


 ミトラはアッサカに守られ、まだ眠っている頃だろうか。

 見送りに来るはずもない。

 もし無事に帰って来れても、その頃にはスシーマの妃になっている事だろう。


 昨日月色の髪を握り締めた右手を見つめる。

 今も手に残る絹糸のような感触。


 自分のものにもならぬ女の為に、柄にもなく多くを語ってしまった。

 我ながらどうかしている。


 王に殺されかけたと聞いた時、背筋が凍った。


 何故こうもあの命を惜しむのか。

 自分でもよく分からない。


 母と同じ翠の目をした少女に、一目見た時から惹かれた。

 だがいずれはその想いも薄れ、消えていくことだろう。


 吹っ切ったように前を向く。

「よーーっしっ! 出発だーっ!」

「おおおおーーーっ!」



 宮殿の中は派手な隊列にも関わらず、あっさりしていた。

 ビンドゥサーラ王も重臣達も、他の王子達も誰一人見送りには出ていなかった。

 しかし一歩城門を出ると沿道には噂を聞きつけた大勢の市民が見送りに出ていて、パータリプトラの周壁を出るまで大歓声で見送られた。

 アショーカに恩義のある商人達は長旅に必要な食料や酒を次々献上し、街を出る頃には荷台はいっぱいになった。


「僕も大きくなったら騎士団に入れて下さい」

 少年達は口々に懇願する。

 マガダの国で圧倒的多数を占める二つの階級に、アショーカは絶大な人気があった。

 階級に縛られた市民達を、唯一取り立ててくれる存在なのだ。


 パータリプトラを出てからも時折沿道で待っている市民がいたが、首都を離れるにつれその数は徐々に減り、夕方になる頃にはようやく静かになった。



「よーし! 今日は宴会だ。

 荷が多くなり過ぎた。

 みな存分に飲むがいい!」

 アショーカが杯を上げると、「おおおおーーーっ!」という歓声で騎士団たちは浴びるように酒をあおった。


 まだ敵地には遠い。

 安心して呑めるのは今のうちだけだ。

 夢に溢れた若者達の飲みっぷりは見事で、賑やかに夜が過ぎていった。


 一番の新入りのアグラとハウラは天幕の一番端で静かに呑んでいたが、周りが酔い潰れ始めると、そっと立ち上がって天幕を出た。


「どこに行くんだ? 新入り?」

 天幕の外に立つ警備兵が声をかけた。


「呑みすぎちまった。

 ちょっと風に当たってくる」

 アグラがよろめきながら答えた。


 二人は夜闇に紛れて象舎に向かった。

 途中、馬舎で大勢の声に紛れてヒジムの声が聞こえたので二人はドキリとした。

「酒はこっちに置いて、食料は長持ちしそうな物とすぐ食べる物に分けて。

 宝飾類は僕が見るからこっちだ。

 衣類も僕が見る。

 お、それいいな。

 ちょっと見せてくれ」


 どうやら大量に献上された物資の仕分けをしているらしい。

 役目というよりは趣味でやってるようだ。


 見つからないようにそっと通り過ぎると、象舎は手薄で誰もいなかった。

 象は残念ながらあまり集める事が出来ず、ガネーシャとコルバ隊長が連れて来た五頭だけが広い象舎で悠々と休んでいた。


「ミトラ様、アッサカ様、ご無事ですか?」

 二人が小声で呼ぶと、二頭の象の輿がごそごそと動き、アッサカがヒラリと飛び降りた。


「ガネーシャ、下ろしてくれ」

 ミトラはガネーシャの輿から顔を出して頼んだ。


 ガネーシャは鼻を器用に動かし、ミトラを巻いてそっと下ろしてくれた。

「ありがとう、ガネーシャ」

 ミトラが耳を撫ぜると、ガネーシャは嬉しそうに目を細めた。


「パンとナッツを少し持ってきました」

 ハウラが腹から食料を取り出した。

「すまない、アグラ、ハウラ。

 二人を巻き込んでしまったな」

「いいえ、私達はミトラ様のおかげで騎士団に入れたのです。

 気にしないで下さい」

「アショーカ王子様も本心はミトラ様と一緒にいたいはずですよ。

 コソコソせずに堂々と随行なさればよろしいのに」

「いや、出来ればこのまま隠れてタキシラの近くまで行って、こっそり反乱民の所へ行きたい。

 イスラーフィル達を説得して、殺し合わずに済む方法を考えたいんだ」



「……なるほどね」



 ふいに背後から聞こえた声に四人は身を硬くした。


「ヒジムッ!」


 象舎の入り口にヒジムが背をもたれさせて立っていた。


「ヒ、ヒジム様!

 いつからそこに……」


「それでこっそり抜け出たつもり?

 騎士団を甘く見てもらっては困るな」


「す、すみませんヒジム様」

 アグラとハウラは青ざめた。


「外部の者を引き入れるなど反逆と同じだ。

 死罪を覚悟しなよ」


「ま、待ってくれ。

 二人は私が無理矢理頼んで巻き込んだだけだ。

 決してアショーカを裏切るつもりなんかなかったんだ。

 罰なら私が受ける」

 ミトラがあわてて口を挟む。

 そのミトラをヒジムは皮肉な表情で見つめた。


 その目には、僅かにあったはずの好意はもう無かった。


「あんたさ、どれほどお偉い巫女姫様だか知らないけどさ、自分が何をしたか分かってる?

 まさか来てくれてありがとうって、アショーカが泣いて感激すると思ってるんじゃないだろうね」

「そんなこと……」

 いや、少し期待していたのかもしれない。


「ふん。

 あんた聡明な巫女かと思えば時々愚かな小娘になるね」

 軽蔑したように言い捨てると、ヒジムはミトラの腕をぐいっと掴んだ。


 少女と思えぬ握力だ。

 アッサカがその手を更に掴む。


「アショーカの所に連れて行く。

 巫女姫を傷つけたくなければ、邪魔をするな!」

 ヒジムはアッサカに一瞥をくれるとミトラを引っ張って、宴の続く大きな天幕を過ぎ、一番奥のアショーカの天幕に向かった。


 華奢に見えたヒジムだが、並んでみるとミトラよりずっと背が高く、質のいい筋肉がついている。

 その有無を言わせぬ腕力でアショーカの天幕に放り込んだ。


「ご推察通り、バカな子兎が紛れ込んでた。

 手引きをした者はこっちに縛っておくから、子兎の処分は任せるよ」

 ヒジムは天幕の中に告げると、三人を連れて行ってしまった。



 ミトラは柔らかな敷布の上で恐る恐る顔を上げた。



 ミトラの重みに沈んだ布の間から、天幕の真ん中で、あぐらをかいて腕を組んだまま、こちらを睨みつけるアショーカが目に入った。


 ヒジムの言う通り、歓迎されてはいないようだ。

 ……いや、相当怒ってる?


「き、気付いていたのか?

 いつから?」


「ガネーシャが俺を乗せたがらないのは朝から不審に思っていた。

 宴会が始まってからはアグラとハウラの様子がおかしかったゆえ、ヒジムに命じて見張りを数人つけていた」

 自分では見事な作戦を立てたつもりでいたが、素人丸出しだったらしい。


「なぜ来た?

 タキシラに逃れるつもりであるなら、そなたは立派な間者だ。

 こっそり俺の寝首をかく事も出来る。

 他の三人もろとも切り捨てねばならない」


 ミトラは、はっとアショーカを見つめた。


 アショーカを殺そうなんて思った事はない。

 しかし立場は紛れもなく敵なのだ。

 三人はそのミトラを引き入れた事になる。


「ち、違うっ!

 私は選んだのだっ!」

 思わず叫んだ。

 苦し紛れに予想外な言葉が出てしまった。


「選んだ?」

 アショーカが眉間を寄せ、灰緑の瞳が色濃く凝縮する。


「そ、そう。

 スシーマ王子ではなく、そなたを選んだのだ!

 私はそなたを愛してしまったからスシーマ王子の妃になりたくなくて逃げてきたのだ」


 歯が浮くとはこういう事をいうのだとミトラは思った。

 魔王ラーヴァナですら、こんな大嘘をついた事はないはずだ。


「俺を愛していると?」

 アショーカの視線がますます鋭く細まる。


「そ、そうだっ! 愛している」

 もうやけくそだった。

 十ラーヴァナにでもなってやる。


「ミスラ神にあれほど執着していたのに心変わりしたと申すのか?」


「それは……」

 ミスラ神を裏切る言葉にはまだ抵抗があった。

 一ラーヴァナの偽りも消えうせる。


「ならば、その愛とやらを証明してもらおうか」

 偽りのラーヴァナはアショーカに移動する。


「し、証明?

 どうやって……」

 呆気なく嘘つきを返上したミトラに、アショーカは一気に百ラーヴァナの威力をもってほくそ笑む。


「服を脱げ」

 頬杖をついて命じる魔王アショーカの言葉に、ミトラは仰天した。


「な、な、なにゆえ愛を証明するのに服を脱ぐのだっ!」

「俺を愛しているのだろう。

 ならばそなたのすべてを晒す事に何をためらう?」


「そ、それは……」

 いつもの冗談だろうかと、無慈悲な魔王の表情を覗い見る。


「どうした? 早くしろ。

 自分で脱げぬなら手伝ってやる」

 だめだ。千ラーヴァナだ。

 この意地の悪い男は、未曾有の悪魔に成り果ててしまった。


「け、結構だ!

 自分で出来る!」

 ミトラは首を振ってうつむいた。


 服を脱ぐぐらいで三人の命が助かるなら安いものだ。

 自分の素肌にそれほどの価値があるとも思えない。

 アッサカの前でなら、きっとこれほど躊躇わずに脱ぐ事が出来るだろう。

 いや、アショーカ以外の相手なら、たぶん平然と脱いでみせた。


 ……なのに、目の前の、熱を帯びたような視線で見つめるアショーカには、不思議な甘みを帯びた、言い知れぬ危険を感じる。

 怒鳴り歩いているいつもとはまた違う怖さ。

 導師にもアッサカにもヒジムにも感じない怖さ。

 アショーカと……そう、スシーマにも少し感じる怖さだ。


「何をしている。出来ぬのか?」

 千ラーヴァナで弄る魔王が畳み掛ける。


「で、出来るっ!

 そなたの言う通りに何でもする。

 だからアッサカ達を罰しないでくれ!」

 ミトラは覚悟を決めて、震える手でサリーの留め金をはずした。


 ……と、心の中に予期せぬ奇妙な感情が湧き上がる。


(なんだこれは?)


 額の翠水晶の印が痺れ、何故か涙が溢れる。

 激しい拒絶と、感じた事のない絶対者からの警告。


(怖い!)


 我が意を汲まない感情が暴走する。

 内から燃え広がる恐怖の業火。


 意志と関係のない涙がポタポタと零れ落ちる。


 ……ふいに、すくっとアショーカが立ち上がった。


「きゃっっ!」


 発した事もない悲鳴が、知らず自分の口から漏れ出ていた。


 ゆっくり近付いてくるアショーカが、普段の何倍も恐ろしく感じる。

 ガタガタと震えて見上げるミトラの首筋に、アショーカの右手がからみついた。


「なぜ泣く?」

 目前に銀箔に閉じ込めた緑の瞳が迫る。


「わ、分からない……」

 自分でも泣くつもりなどなかった。

 この恐怖も分からない。


「きっと……そなたが千ラーヴァナの顔をしているからだ。

 そこに千インドラと、千アスラと、千サヒンダまでも合わせた恐ろしい顔をしている。

 合わせて三千の魔を纏っているから……」


「おいっっ!!」

 突然突きつけられた数の嵐にアショーカは思わず遮った。


「数字に名前をつけるなと言ってるだろうっ!

 それに千を四つで四千だ!」

 今、アショーカの頭の中には四千の悪魔玉が飛び交っている。

 しかも、計算間違いの千の玉が行き場を失ってうろうろしている。


 とんでもない混沌に放り込まれた。


「しかも千サヒンダとはなんだっ!」

 アショーカにとってはラーヴァナよりタチの悪い名だ。


 よりによって、なんという名前をつけてくれたのだ。

 頭の中で、千のサヒンダ玉が計算間違いの三千の輪に入りきれず、あちこちで悪態をつきまくっている。


「くそっっ!!

 お前はなんなんだ一体!」

 眉間を押さえ、必死で混乱を鎮める。


 つと指の隙間から潤んで見上げる翠の瞳が垣間見えた。

 あどけない表情で心配そうに自分を見つめている。


 ふ……と急に可笑しくなった。

 どれほどの悪意も、この真っ直ぐな無垢に跳ね返される。


「そなたは……ずるいな……」


 アショーカの右手がミトラの首を引き寄せる。

 息がかかるほど間近に、自分を見下ろす灰翠の温かな瞳が近付く。

 しかし、無防備に見上げる翠の瞳と出会った途端、照れたように矛先を変えた。

 気付くと、額にアショーカの唇が触れていた。

 この乱暴な男が、壊れ物に触れるように、優しく大切に……。

 

 ほんの一瞬、とてつもない幸福を感じた気がした。

 しかし、その初めての感情は次の瞬間には霧散して消えていた。


 我に返った時には、アショーカはミトラから離れ、天幕の出口に向かっていた。


「ま、待ってくれアッサカ達は……」


「そなたの従者である前に俺の優秀な部下だ。

 殺したりしない」

 ミトラはその言葉にほっと胸を撫で下ろした。


「そなたの監視はヒジムに命じる。

 今晩はヒジムとここで寝るがいい」





次話タイトルは「側近ヒジム サヒンダ」です

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