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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
24/222

24、アショーカとミトラ

 その日の夕方、ミトラは早速スシーマの命令を破る事になった。


 メガステネスの見聞録を樹皮紙に書き写し終えたので、アショーカがいるうちに、ミカエル様にでも渡しておこうと思って西宮殿に出かけた。


 南の宮殿内の出入りは最初から、とても緩い警備だった。

 本殿とは違って、シュードラの衛兵しかいないおかげで、顔のきくアグラとハウラがいれば、いつでも簡単に出る事が出来た。


 ミトラに興味がないのか、大雑把なヒンドゥ人の気質なのか、小娘一人に何も出来ないと思っているのかは知らない。


 アショーカの宮殿は騎士団が厳重に警備しているが、ミトラはすでに顔パスで入る事が出来た。

 中に入るとすぐ、木々の植え込みの前で立ち並ぶ騎士団が目に入った。

 一番先頭には、くせ毛のよく繁ったトムデクが 神妙な顔で立っていたが、ミトラを見つけると、破顔して駆け寄ってきた。


「ミトラ様!

 アショーカ王子に会いに来て下さったのですか?」

「いや、本を返そうと思っただけだ。

 丁度いいトムデク殿、返しておいてくれ」

「今そこにいるんです。

 ミトラ様から渡して下さい。喜びます」

 

 ミトラはふと不機嫌なスシーマを思い出した。

 なぜか罪悪感を感じる。

「いや、そなたから渡してくれ」

 アグラに持たせていた本と樹皮紙を差し出す。


「明日にはタキシラに旅立つのです。

 無事に帰れるかもわかりません。

 どうか最後にアショーカ王子に会ってあげて下さい」


「しかし……」

 躊躇するミトラをよそにトムデクは木柵を開けて手招きした。


「ここは?」

 木柵の中はこんもりと盛り上がった山があり、刈り込まれた雑草が緑のまだら模様をあちこちに描いている。

 その中腹あたりにアショーカが寝そべっているのが見えた。


「今までの反乱鎮圧で亡くなった騎士団の兵士たちを葬ってあります。

 アショーカ王子は全員の名を覚えていて、時々ああやって過ごされるのです」

 両手を頭の後ろで組んで目を閉じているアショーカが泣いているように見えた。

 いつもの激しさが消え去り、ひどく頼りなげだった。


 ミトラは本と樹皮紙を持ってゆっくり近付いた。


 アショーカは途中でチラリとミトラに視線を向けたが、声をかけるでもなく元通り目を閉じてしまった。


「明日からタキシラへ行くのか?」

 ミトラはアショーカの隣りに腰掛けた。


「大勢死ぬぞ」

 すぐさま返ってきた返答にミトラの不安が掻き立てられる。

「タキシラの民を殺すのか?」

 ダンダカの森の妊婦の顔が思い浮かぶ。


「……」

 アショーカは一旦考え込んだ後、決心したように口を開く。

「間者の話だとシェイハンの神官と石工達が中心勢力らしい」


 ミトラは、はっと顔を上げる。

「シェイハンの……?」


 きっとイスラーフィルたちだ!


「殺すつもりなのか!」

 思わずアショーカの腕を掴む。


「お前が俺を選ばぬからだ」

 どこか投げやりに言い捨てる。


「私は誰も選んでなどいない!

 そなたらが勝手に決めるのだろう」

「誰が決めようとお前が選べばいいだろう。

 それともスシーマに会って惚れたか」

「バカを言うな!

 だったらお前を選ぶ!

 だから誰も殺さないでくれ!」


 アショーカは驚いたようにミトラを見つめ直した。

 そして、ははっと笑った。


「本気だぞ。

 頼む! 誰も殺さないでくれ!」

 ミトラは尚も続けた。


「そんな事が出来るか!

 俺の騎士団は死んでもいいと言うのか!」

「そ、それは……」

 もうすでに顔見知りも何人かいる。

 みな爽やかな気のいい男たちだ。



「サヒンダ、トムデク、ヒジム。

 俺の側近はみな優秀で忠誠に厚い。

 良い部下に恵まれているだろう?」


 ミトラは素直に頷いた。


「……だが、本当はもう一人いたのだ」

「もう一人?」


 アショーカの銀緑の目が遠くを見つめる。


「ヴィータショーカ……。

 二つ上の腹違いの兄だった」

 しばし言葉を選ぶように考え込む。


「嫁いだばかりの母上はどうしてもあの親父が好きになれず逃げ回っていた」

 ミトラは、脂ぎったガマ蛙のようなビンドゥサーラ王を思い浮かべる。


「当時のチャンドラグプタ王も母上には甘く、ジジイは手出し出来ずに不満を募らせていたのだ」


 ミトラも頬に触れられただけで寒気がした。

 気持ちは分かる。


「その怒りの捌け口は母上のシリアから連れてきた侍女に向けられた。

 ジジイは無理矢理手篭めにして孕ませた。

 そして生まれたのがヴィータショーカだった」


 なんと非道な。

 あの気高く美しいミカエル様とは不釣合いな男だ。


「ショックで心を病んだ侍女は兄上を生んですぐに亡くなったが、ジジイはお前の所為だと 母上を詰るばかりで赤子を抱く事さえなかった」


 ミカエル様はどれほど自分を責めた事だろう。

 さぞ、お辛かっただろうに。


「だから母上は兄を引き取り、自分の侍女達を守るため、ジジイを受け入れた。

 そして生まれたのが俺だ。

 母上は忌まわしき出生に俺達が苦しまないように、兄上をヴィータショーカ (憂いを取り除いた者)、俺をアショーカ(憂いの無い者)と名づけた」


 出生の事情を知ったアショーカは自分を呪っただろうか……。


「ヴィータショーカは思慮深く誠実で、節度を守る良き男だった。

 だから人殺しを楽しむ俺を戒め、民を殺すなといつも言い続けていた。

 それなのに俺は、そんな兄上を疎ましくさえ思って遠ざけるようになった」


 アショーカの顔が苦しそうに歪む。


「三年前のウッジャインの反乱討伐。

 あれはひどい騒乱だった。

 民も大勢殺したが、正規軍にも多数の犠牲が出た。

 俺自身も瀕死の重傷を受け死線を彷徨った。

 それでもこうやって生きているのは、兄上が身を挺して俺をかばったからだ」

 

 アショーカは言葉を切り、目を瞑った。


「兄上を亡くして初めて俺は死というものの残酷さを知った。

 残された者の悲しみ。

 失った者の喪失感。

 俺が殺した幾百もの命の尊さ。

 償い切れないほどの罪深さ」


 悪魔の囁きで済ますには、償いきれない罪。

 ミトラなら我が身の罪深さに気が狂ってしまうだろう。

 正気で生きているこの男は鈍感なのか?

 それとも底知れぬほど豪胆なのか?


「こんな罪深い男は死んでこの世から消え去ればよいと思うか?

 図々しくも生き恥を晒す 悪魔だと思うか?」


 視線も合わさず呟くアショーカを……しかし、そんな風には思えなかった。


「死ぬ事は俺にとっては逃げる事と同じだ。

 死んで、犯した罪の責任もとらずに逃げるのは卑怯だ。

 俺は罪の意識に心が抉られようとも、決して卑怯な生き方だけはしないと決めた。

 罪を犯したのなら、それ以上の善行で帳消しにしてみせる。

 この額の刻印は俺のために命を落とした者達の幾百の目だ。

 この目が俺の行動を常に見張っている。

 我が身を死ぬまで裁き続ける」


 その覚悟の重みは、罪人だけが辿り着く地獄の業火から滲み出る、奇跡の水のように思えた。


「だが……俺の負う罪は大き過ぎて、償うにはあまりに無力だ。

 あのくそ親父にいいように使われ、大事な命が失われていくのをどうにも出来ない。

 拠点が必要なのだ。だから……。

 タキシラを獲りに行く!

 どうやら俺はこんな生き方しか出来ぬらしい」


「では……シェイハンの者たちは……」

 この男の決心は固い。

 ミトラの目が絶望に歪む。


「俺を恨め! 許すな!」


 アショーカはミトラの月色の髪を一房握り締め、ぐいっと引き寄せた。


「俺は悪魔に唆されてなどいない。

 罪は俺の中にある。

 俺が負い、責めを受けるべき罪だ。

 だが、お前の中にも罪はある。

 民を守れない治世者の罪は誰より重いぞ!」


 ミトラは瞠目する。


「私の中の罪……」

 アショーカは頷く。


「だから生きろ!

 生きてスシーマの元へ行け!

 そこで自分の罪を償う方法をちゃんと考えろ!

 逃げるな!

 どんなに間違えても、失敗しても、生きていれば出来る事がある」

 

 アショーカは言い切るとミトラの髪を離し、すくっと立ち上がった。


「アッサカ!」

 怒鳴りながらスタスタと歩く様はすっかりいつも通りだ。


 アッサカは、すっと現れ、アショーカの元に片膝をつけて、頭を垂れる。



「お前のその鼻の穴に木の実を詰め込んで、拳をお見舞いしてやろうかっ!」



「は?」

 アッサカは驚いて顔を上げる。


「……という顔をしておるが、本心か?」


「お、思ってませんっっ!」

 アッサカは全力で否定する。


 アショーカは「ならばよい」と笑った。


(そんな顔あるか!)

 ミトラは心の中でつっこむ。

 今まで真面目な話をしていたかと思うとこれだ。


「明日タキシラに発つが、お前はミトラのそばに残れ!

 俺が死のうが、無事に戻って来ようが、お前はこの女を守るんだ。

 死なせるな!

 万一にも死なせてしまったなら……」

 言葉を切る。


 そして吐き出すように告げた。

「……お前も死ね!」


「なっっ! なにを……」

 ミトラの反論よりも早くアッサカが答えた。

「は! 仰せの通りに」

「即答するなバカ! 

 アショーカも命の尊さに気付いたんじゃなかったのか!

 無茶な命令をするな!」


 憤るミトラをアショーカは睨み返した。

「聞いたぞ。

 鹿狩りで王に呪いの言葉を吐いて殺されかけたらしいな」


「そ、それは……」口ごもる。


「今よりアッサカの命はそなたと共にある。

 二度と命を粗末にするな!」


(まさかそのために……。)

 アショーカはミトラの反論も待たず、スタスタと歩き去る。


「アショーカ待ってくれ。

 メガステネスの本を……。

 すべて樹皮紙に訳し終えたのだ」


 アショーカは振り向いてミトラの手元の本と樹皮紙の束を見つめた。


「樹皮紙だけもらっておこう。

 本は、お前にやる。

 こんな色気のないものを女に贈ったのは初めてだ」

 アショーカはため息と共に微笑んで踵を返した。


「アショーカ……」

 説明のつかない切なさで胸が締め付けられる。


 恐ろしい虐殺者のはずなのに……。

 横暴で自分勝手な男なのに……。

 身に纏うものが綺麗だと思うのは何故なのか。

 その心に近付くと、いつも底の知れない温かいものに触れるのは気のせいなのか。


 騎士団を引き連れ立ち去るアショーカの背中を、ミトラはいつまでも見送った。 




次話タイトルも「アショーカとミトラ」です

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