23、アショーカとスシーマ
ガンジスの川べりを埋める黄色と黒の集団。
その数五百はくだらない。
まるで戦のような喧騒だ。
「何事ぞ!」
側近と近衛兵が王を守るように周りを囲んだ。
「あの服は……」
ミトラには、すでに馴染みの深い服だ。
やがて隊列に一筋の道が開くと、悠々とした足取りでアショーカと三人の側近が馬に乗って現れた。
そして王の前まで辿り着くと、それぞれ背中に背負っていた鹿の死骸を地面にドサリと放り投げた。
無残に射られた鹿達の血しぶきが飛び散る。
アショーカとその側近は、背負ってきた鹿の血を浴びて派手な衣装を真っ赤に染めている。
お人よしそうなトムデクに、絶世の美少女ヒジム、貴公子サヒンダ。
普段の姿から想像も出来ないその血みどろの様子に、この三人の本当の恐ろしさを見た気がした。
背筋が凍る。
凄惨で無礼な態度に観衆も静まり返った。
鼻をつく息絶えたばかりの獣の血生臭い匂いに、王と側近は顔をしかめる。
「何のマネだっ!
アショーカッ!」
王は火を噴きそうな怒りと共に目前の王子を睨み付けた。
「間の悪い奴だ。
この不機嫌極まりない時に、あのようなマネをして……。
終わりだな」
呆れたようにつぶやくスシーマにミトラは青ざめた。
「終わりというのはまさか」
「まあ、おかげでそなたへの怒りがあちらに向いてくれたな。
命拾いしたなミトラ殿」
「わが息子を切り捨てるつもりなのか?」
信じられない。
そんな親がいるのか?
「ふん。
あの父上に簡単に切り捨てられるほど間抜けではないだろうが、刃を重ねてしまったなら死罪は免れぬだろうな」
「そんな! 自分の子を……」
「息子など掃いて捨てるほどにいる。
一人二人死んだ所であの父上が悔やむものか。
そなたが責任を感じる必要はない。
あの者がバカなのだ」
スシーマの瞳に怒りがよぎる。
それが誰に向けられた怒りなのか、最初ミトラは分からなかった。
「しかしここまで滅茶苦茶なバカとはな。
ナーガもずいぶん買いかぶったものだ。
怒りに前後を読めぬつまらぬ奴よ」
それが愚かな弟に対するものだと気付いて、ミトラは意外に思った。
この男には、ささやかながら兄弟に対する情のようなものがあるのだ。
しかし、兄の気持ちも知らずアショーカは凶器のような大声で高らかに答える。
「我らタキシラへの遠征を前に士気が高まり、狩場中の鹿をすべて狩り獲ってしまいました。
父上には申し訳ないのですが、もはや鹿はおりませんゆえ、お知らせに参りました」
わざと恭しく頭を下げた。
「何だとっっ!」
王がぎりりと唇をかみしめる。
「今日は兄上の妃選びだとか。
雄姿を見せる機会を失わせ、申し訳ありません。
お詫びの印に我らが仕留めた鹿を献上致します」
「き、きさまっ!」
王が剣の柄を握る。
(あのバカ王子!)
ミトラは心の中で叫んだ。
すべてに恵まれた兄への嫌がらせのためにこの愚行に及んだのだと思った。
(自分の妬みのために大事な部下を巻き添えにするつもりか。
愚か者め!)
ミトラはこれから起こる惨状に目を瞑った。
しかし王が剣を抜くより早く、アショーカの耳を突く大声が出鼻をくじく。
「我ら、これより準備を致し私兵を投じて反乱鎮圧に向かいますれば、寛大な父上なら我らの気持ちを汲んで下さる事でしょう。
王のため、国のため、命を捨てる覚悟の者達ゆえ、少しばかり士気が高まり過ぎたのでございます」
グリングレイの瞳が挑戦的に王を見つめる。
百アショーカの威力の大声は、対岸に押し寄せる民衆にまではっきり届いた。
これがこの男の不思議な所だ。
天も味方だと疑わぬ傲岸な物言いが、相手に反論の余地さえ与えない。
それは王も同じなのだ。
「ぬぬ……こやつっ!」
王のためと言われて切り捨てるわけにもいかない。
「また此度の王の特別な計らいに感激を深め、是非大衆にも知らせたく参ったのです」
「何っ? 特別な計らいだと?」
ビンドゥサーラは怪訝な顔をする。
感謝されるような計らいをした覚えはない。
アショーカは一旦言葉を切り、息を大きく吸い込んだ。
「みなの者、よく聞けい!
わが偉大なるビンドゥサーラ王は此度のタキシラ鎮圧を我が私兵のみで行うように命じられた!
これは私の能力を高く評価し、全軍で鎮圧した後は、タキシラの地を治めるようにと言下に含めておられるのだ!
この慈悲深き王の思いに答えるべく、私は必ずやタキシラの地を鎮圧し、王子の中で最初の太守となる事を誓おうぞ!」
アショーカが雄叫びをあげると、おおおお!と騎士団が答える。
つられて川辺の観衆たちも、おおおお!と叫び声を上げた。
「わが偉大なるビンドゥサーラ王よ、栄えあれ!」
「栄えあれ!!!」
騎士団が右手を振り上げ雄叫びをあげる。
「栄えあれ!!!」
つられた観衆も雄叫びをあげた。
異様なほどの興奮と共に、あっという間に場に一体感が生まれる。
「な、なにを! きさまっ!」
王が反論しようとしても、興奮した観衆には聞こえない。
もはや国のために戦う勇者となったアショーカを、何の見返りもなく私兵だけで鎮圧に向かわせるとは言えなくなった。
「偉大なるビンドゥサーラ王!」
「慈悲深きわれらの王!」
観衆の声援に答えるように、仕方なく王は右手を上げて賛辞を受け止める。
「ふっ」
ふいに、背で面白そうに笑うスシーマにミトラは背後を見上げた。
「なるほど……。
ただのうつけかと思っていたが、中々の策士だな」
何故だか楽しそうだ。
「王座を狙う政敵なのだろう?」
スシーマを殺すと言い捨てたアショーカを思い出す。
「皇太子は私だ。
あれは私に仕える部下となる男。
あの者が私に並び立つ事はない」
(アショーカの負けだな……)
余裕で微笑むスシーマを見て、ミトラは心の中で思った。
不思議なカリスマ性はある。
だが、王もスシーマも殺して玉座を奪い取ろうとするアショーカは、しょせん国を乱れさせる異端児でしかない。
この皇太子こそが次代の王となるべきだ。
喝采を浴びて立ち去ろうとするアショーカは、ミトラを抱えたスシーマの前で馬を止めた。
その顔に不審が浮かぶ。
「なにゆえその女を前に乗せているのですか? 兄上」
「そなたに紹介しておこう」
スシーマは、前に座るミトラの両肩に手をのせた。
「残念ながらここに集まる美姫達に狩りの雄姿を見せる事は出来なかったが、当初の目的は果たせたゆえ、そなたの愚行も許そう。
この姫をわが妃とする事に決めた。
シェイハンのアサンディーミトラ殿だ」
「なんだと?」
アショーカは責め立てるような目でミトラを睨みつけた。
まるで心変わりをした裏切り者のように見られるのが納得いかない。
「か、勝手に言っているだけだ。
私は誰の妃にもならぬ」
なぜか言い訳がましくなるのが更に納得いかない。
「残念ながらミトラ殿。
私が決めたのだ。もう拒む事は出来ぬ。
アショーカも分かっているだろう。
私はこの国で王以外の誰よりも優先される人間だ」
「……」
ミトラにはアショーカの周りに怖いほどの殺気がみなぎったのが分かった。
「兄上にその口の減らないじゃじゃ馬が扱えますかどうか。
わざわざその者を選ぶとは兄上も趣味が悪うございますね」
それだけ言い捨てて、アショーカは、ぷいと去って行った。
その後をサヒンダ達側近と心配そうなアッサカを先頭にした騎士団がぞろぞろと続く。
スシーマとミトラは、馬上からその長い列を見送った。
「アショーカと知り合っていたのか?」
すべて過ぎ去ってから、スシーマが尋ねた。
「知り合うというか……」
先日の脅迫めいた求婚には触れない方がいいだろう。
それはなんとなく分かった。
「……?」
ミトラは、なぜか黙り込んだスシーマを背後に見上げた。
「命令だ。
二度とアショーカに会うな!
わかったな!」
先程までの微笑が消えて、いつの間にかひどく機嫌が悪くなっていた。
次話タイトルは「アショーカとミトラ」です




