39、アショーカと烏孫と
「怖い思いをさせて済まなかった。俺がティシヤラクシタを罰する事も出来ず、野放しにしたせいで、お前を危険に晒してしまった。すべて俺のせいだ」
腕の中で嗚咽の止まらないミトラに、アショーカは見知らぬ土地でどれほど不安な日々を送っていたのかと思いを馳せた。
砕けるほどに抱きしめたくなる衝動を抑えるのに必死だった。
絹糸のような手触りの月色の髪をすくい、小さな頭を包み込む。
自分の首元にも届かない頭にそっと頬を寄せて温もりを確かめると、体中の血が沸き立つような気がした。
溢れる想いが止まらない。
激しい感情が暴走しそうになる。
このまま自分の腕の中に仕舞い込んで、すべてを支配してしまいたい。
誰にも渡さないと宣言して自分だけの世界に閉じ込めてしまいたい。
抗いがたい熱が、華奢な少女の体を抱きしめ、燃え尽くしそうになる。
慌ててありったけの理性を総動員して、ぐいっとミトラの体を引き剥がした。
「アショーカ?」
突然突き放されて、ミトラは不安な顔を上げる。
「と、とにかく俺の側にいると決まったなら、もうこんな所に用はない。帰るぞ」
「タキシラへ?」
「いや、その前に月氏の赤谷城にイスラーフィルとソグドがいる。まずはそこへ向かう」
「イスラーフィルとソグドもいるのか? でも何故月氏の城に?」
「そうだ、紹介しておこう。こいつは月王の代理でカイだ」
アショーカは手振りで隣りの少年を示した。
黒服の男達を束ねていた少年だ。
四方にさばけた黒髪に赤い目が光る。
「初めまして。大地の女神様」
少年と思えぬ優雅な物腰だ。
「こいつはチャン氏の息子だ。太守就任式で会っただろう?」
「チャン氏の?」
アショーカが部族代表の中でも懇意にしていた一人だ。
「チャン氏は月王の側近部族なのだ。それでお前の捜索に協力してもらった」
「では今回の月王の侵攻はアショーカの依頼で?」
最初から月氏の元に行っていれば、すぐにアショーカに会えたのだ。
「どうやら俺が来ている事は今の今まで知らなかったようだな」
アショーカは側で佇む烏孫を睨み付けた。
「何がミトラは俺に会いたくないだ! 大嘘つきやがって」
烏孫はチッと舌打ちして俯いた。
「烏孫はいつからアショーカが来ている事を知ってたのだ?」
「……」
烏孫は気まずい顔で答えようとしない。
「鷹がお前の元に手紙を届けたはずだ。見てないのか?」
「あ……あれが?」
烏孫がすぐに隠した手紙だ。
「そんな事だろうと思った。だが、俺は本当にお前に拒絶されているのかと肝が冷えたんだ。こいつ、一 発殴っておいてやろうか」
烏孫のせいでこんな大事になったのだ。
「ま、待って! やめてくれ!」
本気で殴りかかりそうなアショーカをミトラが止める。
「なんでだ! こいつが素直にお前を渡せばこんな騒ぎにならなかったんだ。もう少しで俺とヒジムとアッサカは命を落とす所だったんだぞ」
血まみれの服を見れば、どれほどの死闘を潜り抜けてきたのかは分かる。それでも……。
「お願いだから烏孫を責めないでくれ」
もしアショーカ達の誰かが命を落とすような事があれば、生涯恨んだかもしれない。
でも、幸いな事にみんな無事でミトラはアショーカの元に帰れるのだ。
さっき殺されかけた事はアショーカには言えない。
そんな事を知れば、半殺しになるまで烏孫を殴るかもしれない。
ミトラも、もうダメだと死を垣間見た。
でも、それと同時に、烏孫の狂気のような愛情を受け取ったのだ。
アショーカがティシヤラクシタを裁けなかった理由は分かっている。
同等の愛を返せなかったが故に、その愛を歪めさせてしまった。
それは或いはミトラ自身にも起こり得る間違いなのかもしれない。
さっきアショーカが受け入れてくれないのかと疑った瞬間、ミトラにも僅かに暗い感情がよぎった。どれほど迷惑だと言われても、足にしがみ付いて一生離さないでおこうかと……。
「烏孫、すまない。私はアショーカと共にタキシラに戻ってシェイハンの民を守りたい。そなたの妻になると言ったが、それは出来ない」
聞き捨てならないのはアショーカだった。
「妻だと? そんな約束をしたのか?」
「そうだ! お前さえ現れなければ、ミトラは俺の妻になるはずだったんだ!」
烏孫は恨みがましくアショーカを睨んだ。
「なんでそんな約束をしたんだっ! お前は俺の申し出は完膚なきまでに断ったくせに!」
烏孫は意外な顔をした。
まさかの自分の方が優勢だったのだ。
「怒鳴らないでくれ! そうするのが一番いいかと思ったんだ」
「何が一番いいんだ! 何故こいつは良くて俺はダメなんだ!」
「そ……それは……」
ミトラは口ごもる。
自分でも何故だか分からない。
「もう、前に言ったでしょ? 顔が破廉恥だから嫌なんだってば」
ヒジムがミトラに掴みかかりそうなアショーカを牽制して笑った。
烏孫も嗤う。
「ぷぷっ。破廉恥? なんだよ、お前一度振られてるのか? だっせえ」
「一度なんてもんじゃないよ。何度玉砕している事か」
ヒジムがまた余計な事をバラす。
烏孫は思ったほど二人の仲が進展していなかった事に僅かな可能性を感じた。
「うるさいっ! 過去の事だ。今なら快諾する。そうだろうミトラ?」
ミトラは慌てて目をそらす。
「こらっ! 何故目をそらす? 俺に会いたかったんだろう? 側にいたいんだろう?」
「そ、それと妻になるのは、また別の問題だから……」
「な、な、なんでだあああ!」
これが封印のもたらす影響なのだと烏孫は理解した。
言い合いになっているアショーカとミトラを見ながら、単干が烏孫にそっと耳打ちした。
「今回はお前の負けじゃ、烏孫。だが幸いな事にワシの時と違って、この女神様はまだ未完成のようじゃ。されば望みはあるぞ。女神は本人の意思とは別に最高の男の元に引き寄せられる運命にある。女神は本能で、その場で最高の男を感じ取りマギを選ぶ。お前がマギに選ばれたのならば、可能性は残されておるぞ。この女神が欲しくば、世界一の男になることじゃ、烏孫」
次話タイトルは「アショーカの胸の中で」です




