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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
22/222

22、スシーマ皇太子

「な、なんだ?!」


 明らかに尋常でない叫び声にも係らず、ミトラのほかに誰一人驚いた様子の者はいない。

「狩りの儀式が始まったのよ。

 見ない方がいいわよ」

 ユリが慣れた様子で助言する。

「儀式とは?」

 その間も逃げ惑っている悲鳴が聞こえてくる。

「鹿狩りの前に弓の具合を確かめるために、試し撃ちをするのよ」

「試し撃ち?

 的に当てるのではないのか?」


 まさか……とミトラの鼓動がドクンと跳ねる。


「先王はそうだったわ。

 でもビンドゥサーラ王になってから不可触民でするようになったのよ。

 その方が盛り上がるし、士気が高まるのですって」


「不可触民とは……まさか?」

 ミトラの顔から血の気が引いていく。


「シュードラより下の階級の不浄な者たちよ。

 あ、どこへ行くの?」

 ユリが言い終わらないうちにミトラはもう駆け出していた。


 天幕の外に出ると日差しの眩しさに一瞬視界が真っ白になる。


 天幕の前は興奮した人々が群れて異常な熱気に包まれていた。

 みな一様に左手に備え付けられた高い木柵の方角に釘づけになっている。

 木柵の前には、ボロ布を腰に巻いただけの痩せこけた男達が叫び声をあげながら逃げ惑っていた。

 何人かは矢を受け、血まみれで絶命しているようだった。


「な、なんてことを…………」

 ミトラは愕然とした。


 右手には狩りに行く男たちが馬上から次々矢を放っている。

 真ん中で馬上の王が矢を放ち、居並ぶ重臣達も弓を構えていた。

 そしてスシーマは一番端で静かに見守っている。

 その背後には司祭服を着た重臣が居並ぶ。


「誰も……この狂気を止める者はいないのか?

 こんなに大勢いるのに……。

 神に仕える司祭達さえも……」


 シェイハンでは考えられない。

 アロン王子ならきっと怒り狂っている。


「やめろーーっっ!」

 ミトラは叫んだ。

 

 喧騒にかき消される。

 こんな時、百アショーカの、凶器のような大声が欲しい。


(ミスラの神よ力を下さい。)

 息を強く吸い込む。


「やめろーーーっ!!」

 思いがけず大きな声が出た。


 男達の弓が止まる。

 観衆が声の主を探して左右を見回す。

 隠れるつもりはなかった。


 ミトラは不可触民の男達を庇うように、弓を持つ王の前に立ちはだかった。

 人ごみに取り払われたヴェールから月色の髪が晒される。


「なっ! あの女?!」

 驚いたのはスシーマとナーガだった。


「まずいですよ、スシーマ様。

 なんて事を……。大変だ」

 ナーガが青ざめる。


 突然の闖入者に王は目を懲らす。

「ん?

 そなた確かシェイハンの……。

 何のマネだ。どかぬか!」

 ミトラに気付いてビンドゥサーラ王が視線を険しくする。


 観衆は思いがけない見世物に期待を膨らませる。


「このような残酷な事はやめるのだ。

 意味もなく人を殺してはいけない」


 王に真っ直ぐ命じる翠の瞳に、誰もが驚きを隠せない。


「なんと! このワシに意見をするか? 

 そなた、国でどのように崇められていたか知らぬが、この国ではワシに逆らって生き永らえた者はいない。

 そこをどけいっっ!」


 ミトラはしかし、真っ直ぐ王を見据えたまま動かない。


 小さく華奢な少女。

 それなのに圧倒されるような強い瞳。

 王への反逆者なのに何故か魅了される畏怖を伴う美しさ。

 時が止まったように誰も動けなかった。


「スシーマ様。姫を助けて下さい。

 このままでは死罪ですよお……」

 ナーガが小声で泣きつく。


「バカを言うな。

 ここで間に入ったりしたら私が罰を受ける」

「じゃあ、あの姫を見殺しにするっていうんですか」

「うむむむ。自業自得だろう。

 あの無力で王に立ち向かうなど正気ではない」

 自分がもしミトラの非力しか持たなければ、迷い無く権力に屈服するだろう。

 どこにも勝算など見当たらない。


「どかぬと言うなら仕方あるまいな」

 王は弓を構え、じっくり狙いを定めて…………


 ーー放ったーー


「あっっ!」

 スシーマだけではなく観衆からも、どよめきがおこった。


 王の矢は真っ直ぐミトラを目指し、王を見据える右頬をかすめてそれた。


 ほうっという安堵の声がどこからともなく漏れる。

 理屈でなく、この美しい命を誰もが惜しむ。


「大した度胸だな。逃げぬのか?

 しかし次は本気で狙うぞ」


 ただ一人惜しまぬ男。

 王はもう一度矢を継ぎ、今度こそ狙いを定めて……


 ーー矢を放ったーー


 しかし気負った矢は、さっきよりもミトラを逸れて落ちた。


「しくじった。なに、今度こそ……」

 何度矢をつがえてもどんどん逸れていく。

 

 観衆を前に焦る王に、怒りの炎に包まれた月神の化身のような姫は微笑んだ。


「わがミスラの神の怒りに触れたのだ。

 このような悪しき儀式を我が神は認めぬ。

 今日を限りに止めねば私の命を贄に、王とこの国に呪いをかけようぞ。

 王は地獄の苦しみと共に死に、マガダの国は飢饉と病気で死に絶えるだろう。

 さあ、私を殺すがいい」


 この小さな少女のどこにそんな力があるのか。

 得体の知れない迫力が広い川岸を埋め尽くす。

 月神の発する呪いの言葉に観衆がざわめき出す。


「な、なんだとっ! この女!

 余に呪いの言葉を吐いたか!」

 王の白い顔が怒りに引きつって歪む。


 そしてすぐに狂喜の微笑みに変わる。


「ならば望み通り殺してやろう!」

 ベロリと舌なめずりをして弓を捨て、剣を引き抜く。


「後悔するがいい。

 その体を八つ裂きにしてやる!」

 王は言うなり剣を掲げて馬に鞭打った。

 真っ直ぐミトラの方へ駆け出す。


 ミトラはゆっくり目を瞑った。


(我ながら中々よい死に方を見つけた。

 この命は最も憎むべき相手によって奪われてこそ価値がある。

 今後この王は、自分の身に不幸が起こるたび私の呪いを思い出し恐怖に震える事だろう。

 マガダの民は飢饉が起こるたび、はやり病が現れるたび、王の愚行を責める事だろう。

 それでいい。

 死をもって一矢報いてやる)


 馬が怒涛のように近付き、王の剣が振り下ろされるのを感じた。


 がっーー!


 切り刻むはずの剣は……。

 しかし、ミトラに届かなかった。


(まさか、アッサカ?)

 目を開ける。


 しかし王の剣をギリギリの所で受け止めていたのは、馬上のスシーマ王子だった。


「なぜ……?」


 ミトラ以上に王が驚きを浮かべる。

「何故邪魔をするスシーマ!

 死罪になりたいか!」

 愛息の王子さえも切り捨てんばかりの剣幕だった。


 スシーマは馬から下り、王の前に片膝をつく。

「お待ち下さい父上。

 今、この者を殺してしまえば、この者の思うつぼです」

「なに!」

 王はまだ振り下ろさんと剣を振りあげている。


「この者に魔力があるという噂は民にも広まっています。

 もし呪いの言葉を吐いたまま殺してしまったなら、民は動揺し、すべての不幸を呪いのせいだと疑うでしょう」

「うむむむ……」

「それにもし本当に呪う力があれば、王はまこと死に迫られるやもしれませぬ」

「うむむむ……」

 王の額に、たらりと汗が一筋垂れる。


「な、ならばどうするのじゃ!」

 王はようやく剣を下ろした。



「この者を私の妃に迎えましょう」



 スシーマの言葉に、ミトラは一瞬耳を疑った。


「なに?!」

 王も観衆も、想像もしていなかった返答に驚いた。


「万が一にも呪いが成就せぬよう、妃として私のそばに近く置き、必ずや呪いの言葉を解かせましょう。

 父上の身に決して災いが降りかからぬよう私が監視します」


「ぬう……」

 スシーマの思わせぶりな言葉に、ふいに王はミトラが本当に恐ろしい魔術が使えるのかもしれないと危ぶみ始めた。

 冷や汗が額の白粉を流す。


「か、勝手にするがいい!

 ふん、気分が悪い! 

 その女、国中の美姫が憧れるそなたの魅力で骨抜きにするがいい。

 そして余の前に平伏させるのだ。

 わかったな!」


「御意に。必ずや」

 スシーマは深々と頭を下げた。


「すっかり白けてしもうたわ!

 みなの者、狩りを始めようぞ」

 王は踵を返して従者の元に戻っていった。

 みんなほっとしたように王の下に集まる。


 立ち上がってその後ろ姿を見送ると、スシーマは視線をミトラに向けた。


「なぜ助けた……」

 非難を浮かべる目には、感謝のかけらもなかった。


「とんでもない汚点をつけてくれたな。

 私は今まで一度だって父上に逆らったことなどなかったのに……。

 どうしてくれようか」

 スシーマはため息をついた。


「ならば放っておけばいいではないか。

 しかも妃などと……。正気か?」

「話は後だ。来い!」


 スシーマはミトラの腰を引き寄せ、馬に飛び乗った。


「な、何をする! 放せ!」

 腕から逃れようと暴れる。

「よいから大人しく乗れ。

 自分が今どのような状況かわかっているのか?」

「どういう意味だ」

「周り中敵だらけという事だ。

 王を見てみろ。

 側近達に何か命じているだろう。

 なんと命じているのか分かるか?」

「私を殺せと命じているのだろう。

 それでいいのだ。邪魔をするな」

「殺せば呪われると思っているのだ。

 死なない程度にそなたの腕の一本でも切り落とすか、その美しい顔に無残な切り傷を付けるか、あるいは目を抉り取るか。

 女なら裸にして公衆の面前に晒すという手もある」


「な! そんなこと……」

「今のはすべて王が本当にやった事のある刑罰だ」

「そのようなむごい事を……」

 しかしあの王ならやっても不思議はない。


「父上は執念深いぞ。

 今、私のそばを離れたらどうなるか分からぬ」


 考えた事もなかった。

 死なない程度に弄られる恐ろしさに、ミトラは今初めて気付いた。

 急に恐怖が実感を伴って蘇る。


 スシーマは腕の中にすっぽり納まるミトラが、ガタガタと震えだしたのに気付いて、可笑しくなった。

(さっきは月の鬼神のように王に挑んだくせに……)


「それに悪いが私はモテる。

 そなたを妃にと公言したせいで、先程のユリをはじめ、国中の姫を敵に回したと思ってくれ。

 命も狙われるだろう」

「ならば取り消してくれ。

 私は骨抜きになどならぬ。

 そなたを愛する事などない」

 

 断言するミトラにスシーマは観念したように呟いた。


「ふっ。ナーガの言う通りかもしれぬな」


「え?」

 ミトラは背を守るスシーマに振り返った。

「簡単に手に入るから興味がなかったのかもしれぬ」


「は?」

 怪しんで見上げる。


「そなたが気に入ったという事だ」

「なにを……」

 ミトラが反論しようと口を開きかけた時、狩場の方から大勢の蹄の音と共に「わああああ!」という歓声のような声が川辺に下りてきた。


 狩りの準備をしていた王達は何事かと馬を寄せた。


 その隙をぬって、黄色地に黒色の縞模様の服を着た兵士達が、隊列を組んでどどっと川辺を埋め尽くした。




次話タイトルは「アショーカとスシーマ」です

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