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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
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36、会いたい

「ミトラ――――ッ!!!!」


 アショーカの声が聞こえる。

 すぐそこにアショーカはいるのに……。




「会いたい……」


 ミトラの体の奥から搾り出すように洩れた言葉。

 熱いものが込み上げ、涙が溢れる。


 そして気付いた。


(ああ、そうなのか……。いろいろ理由をつけてみたが、本当はそんな事よりも、ただアショーカに会いたいのだ。会ってその手に触れ、灰緑の瞳を見上げ、心地よい腕に包まれたいのだ)


 なぜ、そんな当たり前の事に気付かなかったのか。


 たとえ拒絶され近くに寄るなと言われても、誰がダメだと否定しても、どんなに遠く不可能な道であったとしても、帰る所はそこしかなかった。


 生きたい場所はアショーカの隣だけなのだ。


 ここで会えずに一生を終わるなら、自分は生きながらに死んでいるのと同じなのだ。

 皮肉な事に烏孫に引き止められて初めて気付いた。


「烏孫、すまない。そなたの気持ちには感謝しているが、私の行く道はここではない」


 何かを決意したように言うミトラに、烏孫はその心が自分をすり抜けたのを感じた。


「なぜだ……。あいつは三人も妻がいて、その一人に酷い目に合わされたんだろう? 俺ならお前一人を大事にする。生涯お前一人でいいんだ。俺の方がきっと、きっと幸せにしてやれる」


 しかしミトラは静かに首を振った。


「烏孫、私を幸せにして欲しいのではないのだ」


 女の自己実現が難しいこの時代なら、すべての女が望む事だけれど……。


 人から与えられるだけの幸せに、ミトラの幸せはないのだ。


「私がアショーカを幸せにしたいのだ。たとえ役立たずとなじられようと、僅かな事しか出来なくとも、側にいてアショーカの力になりたいのだ」


 デビとカールヴァキーの愛と、ティシヤラクシタの愛は同じ強さを持ちながら、その一点が正反対ゆえに、まったく違う方向に進んでしまった。


 デビが、カールヴァキーがアショーカを幸せにしたいと言った言葉の意味がようやく分かった気がする。そして、自分も今、確かにそう思えるのだ。


「私の生き甲斐はそこにしかなかった。流されて生き続けても何の意味もない。可能か不可能か。そんな事を悩む暇があるなら真っ直ぐ進みたい道を目指すべきであった」


 その瞳には、もはや迷いもない。


 自分の手から、この美しく清らかなる存在がこぼれていく……。

 烏孫は激しい焦燥感に呻く。


 すり抜けてしまった……。

 こんなに誰かを望んだ事などなかったのに、自分を捨てて行くのか……。


 それなら……。


 烏孫は引き止めていた腕を解き、細く折れそうな小さな首筋を両手で包み込む。

 そしてぐっと力を込めた。


「うっ!!」


 首を絞められミトラが呻き声を上げた。


「烏孫様! 何をするのですか!!」

 側に控えていた神威が驚いてその腕を掴む。


 しかしあっさり振り払われ、神威は床に転がった。

 そして再び細い首を絞める。

 マギの制約を犯す烏孫の頭の中は警告の鐘が打ち鳴らされている。

 だが気を失いそうな糾弾の鐘に抗って、なおもミトラの首を絞め付けた。


「翔靡様!! 蘭靡様!!!」


 神威は自分では止められないと悟り、外で見張っているはずの烏孫の側近の名を呼ぶ。しかし、近くにいないのか誰も助けに来ない。


「烏……孫……」


 ミトラが苦しそうにもがく。


 神威は必死で烏孫の腕にしがみつくが、簡単に振り払われて太刀打ち出来ない。


「奪われるぐらいなら……、ここで……永遠に俺のものにする……」

「う……そん……」


 意識が遠のく。



 すぐ側にアショーカはいるのに……。

 あともう少しで会えたのに……。


 こんな事なら、もっと素直になれば良かった。

 もっともっと……大好きだと伝えればよかった……。


 封印の警告が心を引き裂いても、あの胸に飛び込んで存分に甘えればよかった。


「アショー……カ……」


 最後の息を吐き出し、声ならぬ声で名を呼ぶ。


 だらりと腕の力が抜け、全身の筋力が脱力する。



 死の闇が体を包み始めた時、突然。



「バカものっっっ!!!」


 叱責がゲルに響いた。


 烏孫の両腕はゲルに突入した翔靡と蘭靡に引き剥がされ、どうっと床に崩れるミトラの体を神威が必死に受け止める。



「このたわけがあああ!! 何をしておるかああ!!!」



 ゲルの中にこだまする激しい大声に、薄らいでいたミトラの意識が呼び戻された。


 ゲホッ、ゴホッと圧迫されていた気道を広げるように咳き込む。


 烏孫は側近二人に腕を掴まれ、呆然と叱責の主を見て立ちすくんでいた。


 ゲルの中には見慣れぬ老人が立っていた。

 先に高く尖ったフエルト帽には金銀の細工が施され、白くなったびん顎鬚あごひげが形良く整えられている。ユキヒョウのマントは金糸で縁取られ、紫檀したんの杖をついていた。


 周りには狛爺こまじいと重鎮らしい側近が仕えている。


「じっちゃん……」


 烏孫は目を丸くして観念したように大人しくなった。


 老人はツカツカと、年に似合わず力強く進み出ると、ミトラの前で立ち止まった。


「これは……まさに……弥勒みろく様の生き写し……」


 ミトラの月色の髪と翠の瞳に一瞬驚いてから、深く頭を下げる。


「我が孫が無礼を致しました。どうかこの老いぼれに免じてお許し下さい」


「あなたは……?」

 ミトラはようやくまともに息が出来るようになって老人を見た。


「匈奴の単干ぜんう、烏孫の祖父でございます。また弥勒様の第三のマギでもございました」


「あなたが……」


 匈奴の王だ。


「途中、病におちいり到着が遅れてしまい、危うく大変な事態を招く所でございました。愚かな孫めは私めがきつくいましめますゆえ、どうか匈奴の民に罰を与えないで下され」


「罰など私は……」

 与えるはずもないし、だいたいそんな力もない。


「老いて今一度あなた様のご尊顔を拝謁できるとは、夢のようでございます」

 単干は懐かしさと情愛の籠もった目でミトラを見つめた。


「私はミロク様ではない。二代後の聖大師だが、まだ正式には神に嫁いではいない」


「そのようでございますね。まだ封印の身であられるようだ」

「封印の身? そなたはミスラの封印をご存知なのか?」


「いいえ。私ごときが知る事など僅かな事。私がお会いした時には、あの方はすでに封印を解かれ、ミスラ神に嫁いでおられました」


「封印を解く? 封印はやはり解けるのか?」


「七人のマギを指名し、ミスラの神に嫁げば封印は解けると聞きました。されど、それはじゅの始まり。心の自由を得る代わりに、神との誓約に縛られ、マギも女神も呪の呪縛を受けるのだと聞いております」


「呪の呪縛? それは具体的に何を……?」


「さあ、私が知るのはそこまでです。そして弥勒様の真名まなのみ」

「真名……」


「サラスヴァティーミロク様」


 老人が告げると、ぴっと空気が張り詰めたような気がした。

 神に嫁いだ後はマギ以外口に出来ぬ正式な真名。


「ああ……やはり……女神の血を受け継いだお方。この懐かしいうずき」

 老人は何十年かぶりに口にした真名と、その恍惚にしばし酔いしれた。


「単干殿は二十万もの兵を率いて、一体何をするおつもりなのですか? 月氏といくさをするつもりでやってきたのですか?」


 ミトラは一番聞かねばならない事を口にする。


「いいえ」

 単干は首を振る。


「私は月氏と新たな条約を結ぶために参ったのです」

「新たな条約?」


「まずは外の混乱を鎮め、話し合いの場を作りましょう」

 そういえば、いつの間にかアショーカの声が聞こえなくなって喧騒が消えている。


「参りましょう。月氏とヒンドゥの王子が待っています」



次話タイトルは「夢にまで見た再会」です

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