33、救世主
「死ねっ!!!」
ボーの剣がミトラに向かって振り下ろされた。
……しかし、その剣は振り下ろされる前に、ボーの体と共に地面に崩れた。
「?」
ミトラは目を開け、背中に矢を受けて倒れているボーに驚く。
続いて駆けてくる騎馬の男に目を見開いた。
「烏孫!」
蘭靡と翔靡を従えて駆けつけると、馬を飛び降りミトラを抱きしめた。
「烏孫……。無事だったのか……」
「良かった……。間に合って……良かった……。もうダメかと思った……」
烏孫の腕が震えている。
手加減を忘れた抱擁が痛い。でも泣きそうな烏孫の顔を見ると、放してくれとも言えなかった。背後に見える翔靡と蘭靡の息をきらした様子から、全速力で駆けてきたのが分かる。
「烏孫……、月氏の兵は? 村のみんなは?」
ボーは全滅したと言っていたが……。
「みんな無事だ。この丘の向こうに中央の二十万の援軍が来ている。村のみんなは狛爺が先導して今頃は二十万の軍に合流しているはずだ」
「二十万の?」
ミトラには未曾有の数だ。想像も出来ない。
「さすがのボーもじっちゃんの援軍の存在は気付いてなかったようだ。ボーに気付かれないように俺にもギリギリまで急使を寄越さなかったぐらいだからな」
「ボーが間者だと気付いていたのか?」
「ああ。だからゾドが懐いてるフリをして見張ってたんだ」
そういえばゾドはいつもボーに寄り添っていた。
「だが、桂香がボーに寝返ったのは気付かなかった。俺が甘かった」
やはり桂香の事は知らなかったのだ。
「それに狙いは俺の命だけだと思っていた。まさかお前を攫うなんて思わなかった」
翔靡がボーの体を仰向けにして息を調べる。
「ダメだ。舌を噛み切ってやがる。生け捕るつもりだったのに……」
背中の矢は致命傷ではなかったが、覚悟を決めたボーが自害したらしい。
「すまない、ミトラ。俺の考えが甘かったせいで、またお前を危険に晒した」
烏孫はミトラの前に頭を下げた。
「私の事はいい。それよりまさか月氏と戦になるのではないだろうな?」
匈奴の二十万の兵はミトラにとって嬉しい情報ではない。
拮抗する兵力が現れれば、無尽蔵の戦が始まる。
「お前は何も心配するな。我ら匈奴の兵は勇敢で強大だ。必ず勝つ」
「そんな事を言ってるんじゃない! 戦をしてはダメだ! 月氏は私を渡せば兵を引くと言ってるんだろう? だったらそれに従おう。私は月氏の元へ行く!」
「何を言うんだ! まさかお前は……」
アショーカ王子が来ていると知っているのか?
いや、まさかそんなはずはない。烏孫は頭を振る。
「迷う必要などないだろう? 戦になれば何人の命が失われると思っているんだ。私一人の進退でみんな助かるなら、そなたは国を率いる者として迷ってはいけない」
「本当にお前一人で月氏が兵を引くと思っているのか? そんな訳ないだろう! お前を奪えば、月氏はきっと怪しげな術で匈奴を皆殺しにする」
「まさか……」
「俺は今、月氏族の男達と会ってきた。あいつらは妙な技を使い、人を操る。あんな奴らに国を奪われるぐらいなら、俺は戦うぞ」
「で、でも……」
「とにかく、ここもすぐに追っ手が来るかもしれない。じっちゃんの陣営に合流しよう」
◇
「まだ暖かい……」
アショーカは地面に落ちていた血のついた兎の襟巻きを拾い上げ、眉間を寄せる。
「ここで何かの争いがあったのは間違いないね」
ヒジムが所々広がる血だまりを調べながら腕を組む。
「ミトラ様でしょうか……」
アッサカは世界一凶悪な不安顔を向ける。
「一足違いだった。くそっ! 不慣れな土地のせいで先回り出来なかった」
「やっぱりあそこに行くしかないか……」
ヒジムがあそこと言って見た方角には匈奴の二十万の陣が待機していた。
この場所に来る前に勢いのままに突っ込みそうになって慌てて引き返した。
そうして、このオアシスに辿り着いたのだ。
「仕方がないな。ここで夜まで待つか。烏孫が月氏と対峙している間に潜入してミトラを救い出す。ミトラはもうすぐそばにいる。今夜にはきっと会える」
「怪我してなきゃいいけどね」
ヒジムは血だまりの量に嫌な予感が拭えない。死人が出ている量の血だ。
「ミトラは無事だ」
なぜかそんな気がする。気のせいだと言われればそれまでだが、自分に寄り添うミトラの心を感じる。自惚れだと笑われようが、ミトラが自分を呼んでいるような気がしてならない。
◇
高地に昇る満月は空一杯を埋め尽くすほどに金の光を撒き散らす。
燃え盛る松明が、ゲルの広がる二十万の陣営を赤々と照らしていた。
方や、トルファンの盆地に陣を進めた月氏の陣営は寒さ知らずの黒服の男達でゲルの隙間を埋めている。
双方の丁度中間地点がミトラとゾドの交換場所だ。
月氏陣営は早々にゾドを連れたチャン氏とカイとイフリート、それに大宛とクシャン族の代表が一部の兵を引き連れて待っていた。
烏孫側からは、まだ誰も出てくる様子がない。
「まさか来ないつもりでしょうか? 月王様」
チャン氏は息子のカイに敬語で尋ねる。中身が月王でなければおかしな会話だ。
「匈奴の単干はそれほどバカではないと思っていたが……不測の事態が起こったか……」
やれやれと月王は頭を抱える。
アショーカ王子という変則因子のせいで、世界が大きくズレているというのに、女神のマギもまたマギに選ばれた瞬間から運命と宿命に外れ始める。
結果、ミトラとアショーカ王子の周りはいつも予測を外れた事が起こり、あるはずの未来がことごとく変えられてしまう。見えていた未来は瞬時に入れ替わる。
(しかし、これも一興か……)
先読み出来ない緊張感は、月王には目新しく、なかなかに心地よかった。
「チャン氏。しばしカイから離れる。何かあれば呼んでくれ」
カイはすっと目の奥の赤い光を消し、やがてそれと前後するようにどこからか一際大きな鷹が飛んできて、月氏の陣を掠めると、そのまま匈奴の陣営に飛び去った。
「ジンに乗っていかれたか……。珍しく月王様が苦戦なさっておられる」
チャン氏は鷹を目で追いながら苦笑した。
「アショーカ王子のせいですよ。あの王子は本当に滅茶苦茶です。思いつくと同時に計画とか吟味とか葛藤とか何も無しに行動するんです。あんなデタラメな人、見た事ないです」
自分の体に戻ったカイは、この数日アショーカに仕えて、辟易していた。
「ふふふ。面白い王子だろう。月王様と対等に向き合える人など初めてだ」
「なんで嬉しそうなんですか! 父様まであの王子のせいでおかしくなってますよ」
静かで秩序に沿った日々が、アショーカのせいでかき回されている。
「だがアショーカ王子が現れてから月王様が生き生きされていると思わぬか?」
「面倒ばかり起こしてうんざりしておられるだけですよ」
幼い頃から共に過ごしてきたが、怒ったり声を荒げる姿など数えるほどしか見た事がない。
月王命のカイから見れば、次々煩わされて気の毒でたまらない。
「すべてが予想通りの人生なんてつまらぬものだ。私は月王様が驚いたり呆れたり、怒ったり笑ったりするのが嬉しい。月王様がどれほど偉大であったとしても、肉を持って生きる人間には違いない。あの方にも人間らしい充実を感じて欲しいのだ」
「どこが充実なんですか! 迷惑以外の何者でもありませんよ!」
あの無茶ばかりする王子を、どうして父も月王も特別扱いするのか分からない。
(あんなやつ、月王様が本気を出せば、あっという間に捕えられるのに……)
「チャン氏」
ふいに親子の後ろにイフリートが音もなく近付いていた。
「どうされた? イフリート殿」
「月王様がお呼びですので、我らはこれより匈奴の陣に潜入致します」
イフリートの後ろには十人の黒服の男が立っていた。
「月王様が? やはり匈奴の陣で何かあったのですか?」
鷹の目になって何かを見たのだろう。
「どうやらアショーカ王子達三人が匈奴の陣に潜入して見つかったようでございます」
「またあの王子が!」
カイは非難を込めて叫んだ。
「そうか。では、我らは陣をもう少し進め、いつでも突入出来るようにしよう」
「はい。我らで手に負えぬようであれば合図致します」
「イフリート様、僕も行きます!」
カイはたまらず声を上げる。
「月王様も依り代がないと不便でしょうから、僕も一緒に潜入させて下さい」
チャン氏は複雑な表情をする。
「カイの気持ちも分かるが、月王様の入らないお前はまだまだ青二才の役立たずだぞ」
「わ、分かってます。月王様のジンに辿り着くまで無傷で行けばいいんでしょう?」
「イフリート殿の足手まといにならなければいいが……」
「ではカイに護衛を数人つけましょう」
言ってイフリートは懐からトネリコの葉を数枚取り出し、ふっと息を吹きかけてばら撒いた。すると、一瞬にして黒服の男が数人現れイフリートの前にひざまづいた。
「お前達はカイを無傷で月王様の所まで連れて行け。この身をお守りしろ」
黒服の男達は肯いて、すっとカイの周りを取り囲んだ。
「では、後をよろしくお願い致します」
イフリートはチャン氏に頭を下げ駆け出した。
黒服の十人と、カイとその護衛も追うように匈奴の陣に向かって走った。
次話タイトルは「アショーカの選んだもの」です




