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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
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31、ミトラの策略

 ミトラはボーの馬に乗せられ、トルファンの盆地を東に駆けていた。


 広大な平原は、東に行くほどオアシスの木々が目立ち始め、時折遠くにゲルの集落が見えた。

 よく烏孫が部族会議に出向いていた匈奴の集落なのだろう。


 ボーには慣れた道らしく、迷いなく駆け抜けていく。


「ボー殿、す、少し気分が悪いのですが、どこかで休めませんか?」

 ミトラは懐のハヌマーンを抱きしめて、ぐったりと体を横に傾けた。


「馬の振動で酔いましたか。では、あの先のオアシスで少し休みましょうか」

 ボーは仕方なく、木々の生い茂る無人のオアシスで馬を止めた。


 池とも呼べぬような小さな水たまりには、それでも村人達が水汲みにやってくるのか、壊れた木桶や青銅の壺が転がっていた。


「大丈夫ですか? ミトラ様?」

桂香が馬を降りて、木椀に水をすくって渡してくれた。


「ありがとう」


 ボーと桂香は馬に水を与え、しばし休憩をとる事にした。


 ミトラは背の高い木々を見上げた。森とまではいかなくとも林ぐらいには広がっている。

(これなら大丈夫だろうか……)


 ミトラは木々に近付き、ハヌマーンをそっと懐から放した。ハヌマーンは器用に木を登り、枝から枝を伝って林の奥へと飛び移って行く。充分に見えなくなってからミトラは息を吸い込んだ。


「大変だ! ボー殿、ハヌマーンが逃げてしまった! 捕まえてくれ!」


 池の水を汲んでいたボーは驚いて木を見上げる。


「あそこだ! ああっ! あんな奥まで行ってしまった! お願いだ。捕まえてきてくれ!」


 ボーは少し迷惑そうな顔をしたが、仕方なく林の奥に駆けていった。

 木々の間にボーの姿が見えなくなると、今度は桂香に向かって叫んだ。


「桂香殿、こっちだ。こっちにいた。捕まえてくれ!」

 ボーが去ったのと別方向を指差す。


 桂香は驚いて、ワサワサと枝を飛び回る猿を見上げた。

「わ、分かりました。ミトラ様はこちらでお待ちを……」


 桂香も林の中に消えたのを見計らって、ミトラは草を食む馬二頭に近付いた。

「すまない、許せ」


 そう宣言して馬の脇にあったムチを取り上げ、一頭の尻を思いっきり引っぱたいた。

 馬は驚いていななくと、草原に駆け出して、行ってしまった。

 そうして、もう一頭の馬に颯爽と飛び乗った。


……はずだった。


「あれ?」


 匈奴の馬にはシェイハンやヒンドゥと違って、足を乗せる所があった。

 アショーカなどは鞍の出っ張りに軽く足を引っ掛けて飛び乗っていたが、ミトラは実は自分で馬に乗った事がない。いつも誰かがひょいと乗せてくれたのだ。


 アショーカのような器用な事は出来ないと思っていたが、足置きのあるこの馬ならミトラでも飛び乗る事が出来ると思っていた。


 実際、烏孫はもちろん、同じ背丈の神威ですら、足を乗せて楽々飛び乗っていた。

 多分出来るとふんでいたのに、実際やってみると、まず足置きに足が届かない。

 辛うじて足を引っ掛けても、その態勢から自分の体が跳ね上がらない。


「ど、どうしよう……。みんな軽々やってたのに……。おかしいな……」


 焦ってよじ登ろうとするミトラの元にハヌマーンが戻ってきた。

 予定では颯爽と駆け去る途中でハヌマーンを拾って逃げ切るつもりだった。


「は、早くしないと……ボーが戻ってきてしまう……。えいっ……!」

 気合いを入れて飛び乗ろうとしても、一向に体が上がらない。

 焦ると余計に出来なくなる。


 体力のないミトラでも馬で逃げればボー達の足に追い付かれないと思っての逃亡計画だった。

 ハヌマーンも緊急事態に気付いたのか、馬の背から小さな手でミトラの服を一生懸命引っ張り上げようと踏ん張っている。しかし、あまりに非力だった。


 足台にするような物も青銅器の欠片ぐらいしかない。

 木によじ登って飛び乗るにしても、そんな事が出来るぐらいなら馬にも軽々乗れるはずだ。

 つくづく自分の無力が情けなくなる。


(私は自分で馬にも乗れなかったのか……)

 今更気付いても、もう遅い。


 必死でもがき登っているうちに、ふわりと体が浮き上がった。


 なんだか分からないが、これなら登れると手ごたえを感じた途端、ミトラの体は馬から引き剥がされて地面に転がった。


「え?」

 驚いて見上げる。


 そこには暗い顔をしたボーと桂香が立っていた。


「何のマネでしょうか? ミトラ様」

 ボーが冷ややかな声で尋ねる。


 ミトラはごくりと唾を呑み込んだ。失敗だ。最悪の結果だ。


「わ、私は月氏の元へ行く」

 こうなったら本心をぶちまけるしかない。


「ほう。あなたはみんなが言うように月氏の間者だったのですか?」

 冷たい物言いはサヒンダに通じるものがあるが、決定的な違いがある。


「月氏など知らない。でも、私が行かなければ烏孫と烏孫の村の人々が死ぬ」


「大丈夫だと言いましたよね。烏孫様もあなたを中央にお連れするよう命じられました」

「嘘だ!」

 ミトラは叫んだ。


 ボーの瞳が冴え冴えと細まる。


「嘘? 何が嘘ですか? なぜそう思うのですか?」


 なぜ嘘だと思うのか……。

 サヒンダの冷たさとどこが違うのか……。


 サヒンダは一見、辛辣で意地悪な言い方ばかりするが、不思議な事に、思い出すたび温かみを増して、時間を経るごとにその屈折した優しさに気付かされる。


 でもボーが洞窟の中で見せたぞっとするような冷たい瞳は、どれほど嘘だった、許してくれと言われても払拭ふっしょくできない真実の憎悪が垣間見えた。


 そんな思いつきの直感、根拠のない感覚だが、迷った時に信じられるのは、自分の心の奥底から出てくるものに頼る以外ないではないか。それに……。


「神威が月氏の間者であるはずがない。もし、烏孫が疑っていたのなら、私の従者につけるはずがない。決して二人きりになどしないはずだ。ボー殿のように……」


 そうだ。烏孫はボーを自分のいない所で決してミトラに近付けなかった。


「それに桂香にヒヨスを飲ませようとしたというのも嘘だ」


 ヒヨスは確かに神威が持っていた薬草の束の中に入っていた。でも……。


「神威は劇薬になるヒヨスを他の薬草と一緒くたに束ねていた。もし、それが毒草だという知識があれば、あんな束ね方はしないはずだ。嘘をついているのは桂香だ」


 桂香は指摘され、怯えたようにボーの顔色をうかがった。


「話が矛盾してないですか? 烏孫様はその桂香を誰よりあなたのそば近くにつけていたではないですか。それこそ烏孫様が我々を信頼していた証拠」


「あなた方ではない。烏孫は桂香を信頼していたのだ」


 桂香の表情を見て確信した。

 桂香は今ではガタガタと震え、懺悔ざんげを浮かべているようにも見えた。


「桂香は確かに烏孫の間者だった。でも……ボー殿に寝返ったのですか?」

 ミトラが尋ねると、桂香はギクリと肩を揺らし、動揺した様子でうつむいた。


「烏孫は知らなかったのですね。桂香がボー殿を愛している事を……」


 桂香は両手で口を押さえ、小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。


 ボーはちっと舌打ちすると、善人の皮をすっかり脱ぎ捨ててしまった。


「やれやれ、これだから女は使えない。もう少し役に立つかと思ったが、仕方ないな」

 言うなり、ボーは剣を抜いて、桂香を躊躇ためらいもなく袈裟切りにした。


「……うっ……!!」


「桂香っっ?!!」


 桂香は胸から脇腹にかけて刃傷を受け、分厚いフエルトの衣装を血に染める。


「桂香っ! 桂香!」



次話タイトルは「最後に望むもの」です

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