29、裏切り者は誰?
「信じられぬようでしたら証人を見せましょう。入れ!」
ボーがゲルの入り口に声をかけると、人影が天幕を上げ、しずしずと入ってきた。
「桂香!」
桂香がにっこり微笑むと、その腕に抱かれていた猿がキキッと鳴いてミトラに飛びついた。
「ハヌマーン!」
洞窟の中の騒動で、いつの間にかはぐれてしまっていた。
「無事だったか、ハヌマーン」
柔らかな毛並みに頬ずりすると、気持ちが弛んだ。
「気分が悪いフリをして出てくるように指示していました」
「桂香、ハヌマーンを連れてきてくれてありがとう」
何を信じていいか分からない今だからこそ、ヒンドゥから見知ったハヌマーンがいる事が何よりの救いに思えた。
「でも、大丈夫なのか桂香? さっきは気分が悪そうだったが……」
「ご心配には及びません。神威を欺く為に毒草を飲んだフリをしたのです」
「桂香! しゃべれるのか?」
想像と違う理知的な話し方にも驚いた。
「桂香は神威を探らせるために烏孫様がつけた匈奴の間者です。神威はそれに気付いて殺そうとしたのでしょう。カノコ草と偽り、ヒヨスを煎じて飲ませようとしたのです」
「ヒヨスを?」
幻覚作用のある劇薬だ。
「匈奴ではシャーマンは王族の次に尊敬される地位にあります。その神聖なる仕事に手を出す事は禁忌とされ、何より嫌われます。それを知って、ミトラ様がシャーマンの仕事を侵害しようとしている事を村人達に示し、排除されるように企んだのでしょう」
「なぜ私を?」
そこが分からない。
「月氏があなた様を欲しがっているというのは事実です。神威はあなた様を孤立させたかったのです。そうして村から追い出して、攫うつもりです。ここも安全ではありません」
「な、なぜ月氏が私を欲しがるのだ?」
「我ら匈奴がシェイハンの女神の存在を知ったのは現単干様が弥勒様と契約を結んでからでございます。されど、それまで激しく領土争いをしていた月氏が、それによって匈奴への攻撃をしなくなったのは全く予想外の事でした。月氏が女神の何に畏れを抱いているのかは、我々にも分からないのです」
「畏れを抱く? 私に?」
「匈奴にあなた様を取られると困る事でもあるのでしょう。心当たりはありませんか?」
「心当たりなど……」
自分の無力は誰より知っている。
「まさかソーマを飲んだ時の力を……」
知っているのだろうか?
「ソーマ? ハウマ酒の事ですか?」
ボーはミトラの呟きを聞き止めた。
「そういえば烏孫様と契約された時も、そのソーマを飲まれたとか……」
ミトラはぎょっとして、ボーと桂香の顔を交互に見た。
刺繍をしながら話していた事は、桂香からボーに筒抜けだったのだ。
……という事は、烏孫や蘭靡達にも全部伝わっているのだ。
なんだか余計な事をいっぱい言ってしまった気がする。
自分の迂闊さに頭を抱えたくなる。神威がいる時には神威にも聞かれていた。
これではシェイハンを追われた時と同じではないか。
あの時も間者であったラーダグプタとアッサカを信用しきって簡単に謀られた。
自分は少しも成長していないのだと、心底情けなくなった。
簡単に人を信じるなとうるさいほど言っていたアショーカを思い出す。
(こんなだから呆れて見捨てられたのだ……)
「ボー殿、神威が月氏の間者だったとして、月氏が私を渡さねば村人を皆殺しにすると言ったのは本当なのだろう? だったら、私は月氏の元へ行く。連れて行ってくれ」
このミトラの申し出にはボーと桂香が驚いた。
「な、何をおっしゃいますか。月氏の所へなど行ったら何をされるか分かりませんよ」
「そうです。ミトラ様、どうかこのまま我らと東へ逃げて下さい」
「東へ?」
桂香の申し出にミトラは目を丸くする。
「東とは?」
「匈奴の中央です。そこには月氏に対抗出来るだけの兵がいます」
「兵? そんな事をしたら戦になるではないか!」
どんどん事態が最悪になっていくような気がする。
「烏孫の村の人々はどうなる? 私が逃げたら皆殺しになるのだろう?」
「彼らは逃げる事に慣れています。ミトラ様はご自分の身の心配だけをして下さい」
「でも……」
本当に?
いくら逃げるのに慣れているからといって、あの山肌を埋め尽くす黒い軍隊から逃げられるのか? 鷹を手足のように使う精霊の一族をごまかせるのか?
(考えなければ。何が正しくて、何が偽なのか? 自分がどうする事が正解なのか? 正解とは何なのか? そのために自分がすべき行動は? よく考えて。もう間違えないように)
◇
「タイムリミットです」
カイの中の月王は、隣に馬を並べるアショーカにこっそり耳打ちした。
「どういう事だっ!!」
アショーカは側近からの報告を、青ざめた表情で聞いている烏孫を横目で見ながら、月王にいらいらと怒鳴った。月王は内緒話に不向きな男にため息をつく。
「一旦、陣に戻って全軍を引き連れて出直しましょう」
「なんでだっ! すぐ近くにミトラがいるんだろう? このまま探しに行く!」
烏孫の側近の報告では、村人達の避難場所にはミトラの姿はなく、月氏に引き渡す為にシャーマンが連れて行ったのだと言う。しかし、そうであれば出会うはずの道中でそれらしい人影は見なかったらしい。
「おい烏孫! 適当な事を言ってミトラを隠してるんじゃないだろうな!」
アショーカは馬上から烏孫の襟首を引っつかむ。
「放せ! 耳元で怒鳴るな!」
烏孫は迷惑そうにアショーカの腕を引き剥がす。
「嘘じゃありませんよ」
呆れたように口を挟んだのは月王だった。
双方の側近を巻き込んで揉み合っていたアショーカと烏孫は手を止め、赤目の少年を見る。
カイは意識を集中させるように目を閉じ、両手を奇妙に組み合わせて口に当てる。
「東……。一旦隠れていたゲルから出て、更に東に向かっています。白髪の男が女神を抱えて馬に乗り、黒髪の女がつき従っている。その方角には……」
二十万の匈奴の兵が迫っている。
しかし、烏孫の青ざめた様子からすると、まだ二十万の援軍に気付いてないようだ。
それとも……中央と烏孫は対立しているのか? いや、それはない。なぜなら……。
「来ましたよ」
カイは遥か遠くの草原の先に、赤く染まる目をこらした。
「来たって何だ!」
アショーカは訳の分からない事ばかり言うカイに声を荒げる。
やがて、遠くから砂煙が上がり、騎馬の男がこちらに向かって来るのが見えた。
最初に烏孫と共にやってきた側近の一人だった。
次話タイトルは「タイムリミット」です




