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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
21/222

21、スシーマ皇太子

 

 神の恵みガンジスの畔に、天井高く張られた大きな天幕がいくつも広がる。


 金糸の房を垂らした刺繍織で煌びやかに飾り立てられた象には、輿が乗せられ、風通しのよい薄絹のヴェールが覆っている。

 それぞれの象の両脇には白馬に乗った盛装の衛兵が付き従い、貴賓を丁寧に乗降台へいざなう。

 階段状になった乗降台に横付けすると、恭しく迎えに立つ侍女たちの手を取り、輿の中から姫君達が姿を表す。

 あるだけの宝飾を身に着けてはいるが、目以外をヴェールで覆っているため、顔は分からない。

 その思わせぶりな様が、観衆の男達の想像力を掻き立てた。


「すごい数ですよ、スシーマ様」


 河の対岸で待機するナーガが細い目をこらして艶やかな姫君の様子を伝える。

 狩りに付き従う若い武官達も、滅多に見れぬ深窓の姫君が到着するたび、川辺に乗り出して歓声を上げている。


「天幕はいくつあるのだ?

 あれに一つ一つ挨拶せねばならないのだぞ。

 面倒な事だ」

 スシーマは狩りの正装の上に、美しき王子をやたらに飾り立てたがる乳母や女官が用意した黒地に金糸で織られた剣帯やら、孔雀の羽をこれでもかと盛られたターバンを被せられ辟易している。


「十ぐらいでしょうか?

 これでも良家の子女だけに絞ったのですよ」

 それぞれの天幕には、すでに大勢の従者が姫君に粗相がないように忙しく立ち働いている。


 中央には一際大きな天幕が張られ、王とスシーマ王子、重臣達が狩りの合間に休憩出来るようになっている。


「おや?

 あの地味なこしらえの象は、もしやシェイハンの姫君では?」

 ナーガはわざと丁寧に解説して伝える。

 頭の蛇達もすっとぼけた顔をしている。


「なぜあの生意気な巫女まで来ているのだ?

 今日は私の妃選びであろう。

 すでに断った女が何用だ」

 スシーマは眉をひそめる。

「もう一度再考されては……という事では?」

 もちろんナーガが仕組んだ事だ。


「お前は、やけにあの巫女姫を私に勧めるな。

 そんなに気に入ったのか?」

「美しさも身分も申し分ありませんが、何より、私のこの頭の異物を見ても悲鳴一つ上げず、何の偏見もなく話をした姫など初めてですのでね。

 スシーマ様の神猿、ハヌマーンも追い払わなかったではありませんか。

 これは神意ですよ」


 ヒンドゥでは有事を成す者には神の意をくむ動物が従うと言われている。

 ナーガの蛇はよく分からないが、スシーマのハヌマーン、アショーカのガネーシャは神獣と噂されている。


「考えすぎだ。

 ハヌマーンがなついてる訳でもないだろう」

「でも追い払わなかった姫も初めてですよね」



 ミトラは王に下賜された、いつもの赤いサリーを着て、王の衛兵という立場のまま付き従うアグラとハウラ達に周りを固められて炎天下の川辺に辿り着いた。


 その川岸の壮大な煌びやかさに目を瞠ったものの、すぐに猛暑の熱気に気分が悪くなった。


 足を止めた象の上では風も吹かず、他の姫君達より随分質素に設えられた輿は日差しを充分には遮ってくれない。

 象の輿につけられた小さな庇の下で日干しになるミトラをあざ笑うように次々と姫達が輿を降りて天幕に姿を消す。

 ミトラをはじめハウラもアグラもこの場の作法を知らない。

 シュードラのハウラ達が話しかけても、誰も口さえきいてはくれない。

 どうしていいか分からず、象に乗ったまま一番奥の天幕の横に並ぶと、開会を知らせる法螺貝が鳴り響いた。


 踊り子達が色とりどりの花びらを撒き、ドーラが打ち鳴らされる。

 ヴィーナの楽団が幻想的な音色を奏で、天幕の前に踊り子の撒いた花道が出来上がる。

 男達の待機する対岸には噂を聞きつけた市民が続々と集まり、貴族達の贅を尽くした催しに歓声を上げている。

 祭りのような騒ぎだ。


「近衛隊隊長マトゥーラ様!」

 呼掛け人が叫ぶと対岸の十人ばかりの一団がおおーっと雄叫びをあげ、初老だが年を感じさせない威厳を放つ隊長を先頭に、強兵ぞろいの武官達が浅瀬を通って河を渡ると、天幕の前に出来た花道を大歓声に応えながら奥まで突き進む。


「馬政長官カーシー様!」

 また一団が雄叫びをあげ、隙が無く品のいい武将達が花道を進む。


 一人呼ばれるたび活気のある歓声で川辺全体が揺れるような熱気に包まれる。


 ミトラだけが灼熱の輿の中で気を失いかけていた。


 幾重にも折り重なる衣装は熱を籠もらせ、小さな庇から漏れ当たる日差しは火を噴きそうに熱い。

 温暖なシェイハンで育ち、大事に守られてきたミトラには想像した事もない暑さだった。


(干からびて死ぬか……)

 

 意識が遠のき始めた頃「皇太子スシーマ様!」という呼び声と共に、一際大きな歓声が聞こえてきた。


 スシーマ王子は長い栗毛によく映える緑地の衣装に、孔雀の羽をあしらった肩から斜め掛けにしたマントを翻し、いつの間にか天幕の外に出て待つ姫君達に一人一人挨拶を交わしている。


 馬上から優雅に声をかけて回るスシーマに、姫達どころか侍女や女官もとろけそうな表情をして、少しでも気を引こうと贈り物や話題が尽きない。


(早くしてくれ……)

 いつまで続くか分からない灼熱地獄にミトラは朦朧とし始めた。


「スシーマ様、ご活躍を期待してますわ」

 やがて溌剌とした少女の声がすぐ隣りに聞こえた。

「ユリか。任せよ」

 悠然と答えるスシーマに熱い視線がからみつく。

 しかしスシーマは慣れたようにあっさりと視線を振りほどくと、花道に待つ側近達の元に戻った。


「これで最後か?」

 やれやれという顔でスシーマが、馬を並べるナーガに小声で尋ねた。

「わが王子はモテモテですね。

 これで最後……と、まだシェイハンの巫女姫がいましたか」


 ナーガはユリの天幕の隣りで、まだ象の上に乗ったままのミトラを見上げ、そばに行く。


「これ、象の上から王子を見下ろすとは何事ぞ。

 下りて挨拶せぬか!」

 怒鳴られて、ミトラはゆるゆると庇を覆うヴェールから顔を出した。

 衣装からわずかにのぞく目元の白い肌が、ゆでだこのように真っ赤になっているのを見て、スシーマは小気味よくなった。


(先日の無礼な女がいい様だ)


「いかがした巫女姫殿。早く下りるがいい」

 わざとそ知らぬ風に言うスシーマに、姫達の間からクスクスと笑いが漏れた。


「ああっ!

 台座の方に象を移動させます。

 すみませんミトラ様」

 アグラとハウラはあわてて象を引いた。

 その途端、朦朧としていたミトラの体が、反動で輿の外に投げ出された。


「わああミトラ様!」


 青ざめて叫ぶアグラとハウラを押しのけ、頭から落ちるミトラをギリギリ受け止めたのは、ナーガと、頭からシュルリと伸びた蛇の背だった。


「危ない危ない。

 あの高さから落ちたら大怪我ですよ」

 俊足のナーガがいなければ、どうなっていた事か。

 それほどの危うさにも関わらず、姫達もスシーマもクスクス笑ったままだ。


「スシーマ様、気を失っています。

 日陰に入れないと死にますよ」

 ナーガは腕の中で瀕死の状態の姫が気の毒になった。


 受け止めてみると、衣装の重みしか感じないほど儚く小さな少女だった。

 このか弱い少女が先日暴言を吐いた少女と同じとは思えない。


「ふん、この後、王がお出ましになる。

 目障りだ。隅にやっておけ」


 ナーガはそっとミトラを中央の天幕の隅に運んだ。

 自分のマントを外し地面に敷くと、その上にミトラを寝かせたが、顔を覆うヴェールが熱を逃さない。


「失礼しますよ。巫女姫様」

 ナーガは一言断って、ミトラのヴェールを外した。


 そして粗忽な自分と同じ生き物とは思えぬ華奢で繊細な鼻筋と口元に、一瞬見入ってしまった。

 頭の蛇達も体を伸ばし覗き込む。

 力なく閉じた目に長い睫毛が影をさし、月色の髪が煌いている。

「なんと。

 近くで見ると奇跡のように美しい姫だなあ」

 ナーガは今更ながらミトラを受け止めた事に安堵した。

「王子はこの姫との結婚を断ったのか。

 勿体無い事をするなあ」


 天幕の外では大歓声が起こっている。

 おそらく王が通っているのだろう。

 やがてドーラの音が響き、始まりの音頭と共に踊り子達が舞っている華やかな音楽が聞こえてくる。

 しかしナーガは、女神に魅入られたように団扇で風を送りながらミトラを見つめた。


「いつまでその女に構っているつもりか」

 式典を抜け出しスシーマがナーガの元にやってきた。


「スシーマ様、この姫様をもういじめないで下さい。

 可哀想ですよ」

「その女が無礼な態度だからだろう。

 いい気味だ」

 スシーマは満足気にミトラを覗き込んだ。


 そして、ナーガと同じようにその繊細な美しさに一瞬驚いた。

 目を閉じて無防備な姿は、この間の意志の強い眼差しで睨み付けた女と同じに思えなかった。


「まだ幼い少女じゃないですか。

 おとな気ないですよ」


 その通りだと思った。


「う……、いや、こんなに小さな女だったか?

 横柄な態度ばかりが腹立たしく頭に浮かんでくるゆえ忘れておったのだ」

 スシーマも少し気の毒になった。

「弱い者いじめなんてスシーマ様らしくありません」

 ナーガと蛇達は尚も抗議する。


「わかった、わかった。

 もういじめぬ」

 正義感の強い王子は、急に怒涛の罪悪感に苛まれた。


「異国から来て、後見もいないのです。

 天幕も無しでは可哀想です」

「うむむむ、そうだな。

 ユリの天幕にでも入れてもらうか」

「ユリ様の……」

 ナーガは気が進まなかった。

 顔は美しいが意地悪な姫だ。

「私の頼みだ。

 ユリも無下には断らぬだろう」


 スシーマは無意識に手を伸ばし、ミトラの柔らかな頬に触れた。

 二十歳の青年の大きな手の中に覆い隠されてしまう小さな頬は、罪悪感のせいか無性にいじらしく思えた。


 その時少女の瞳がうっすら開き、鮮やかな翠の光が漏れ出す。


「あっ!」

 そしてスシーマを見止めた途端、警戒の色をのせて大きく見開かれる。


 スシーマは、その一連の動きの美しさを、不思議な感動で見つめていた。


「スシーマ王子!」

 ミトラは非難を込めた大きな目で睨んだまま、後ずさる。


「そんな目で睨むな。私達はそなたを介抱していたのだ」

 スシーマはため息をついた。


「そなた眠っておれば愛らしいのにな。

 まあよい。

 ここは男達の天幕だ。

 ユリの天幕に連れて行ってやる。来い!」


 ミトラは立ち上がろうとしたが、まだ足がふらついて力が入らない。

「なんだ、立てぬのか?

 手のかかる女だな。

 どれ、抱き上げてやろう」

 ミトラは差し出されたスシーマの手を払いのけた。

「結構だ! 自分で歩ける!」

「なにっ!」

 スシーマの顔が険しくなる。


「スシーマ様!」

 あわててナーガが制止する。


「女のくせにつべこべ言うな!」

 スシーマは逃げようとするミトラの腕を掴むと、ひょいと持ち上げ、左の肩に担ぎ上げた。

 驚くほど軽い。


(女とはこんなに軽いものなのか?)

 驚愕した。


「し、しょせん力でかなわぬのだ。

 素直に抱かれていれば丁重に扱ってやるものを」

「放せ!」

 ミトラが必死に抗っても、スシーマの想像を超える非力さだ。

 その無力に、さらに驚く。


 中央の天幕を出ると、中の様子を覗っていたアグラとハウラがスシーマ王子に背負われているミトラを見て仰天した。


「スシーマ様! これは一体……」


「騒ぐな。

 この隣りの天幕に入れてもらえるよう頼んでやる。

 そなたらは外で待ってるがいい」

 スシーマに命令されてアグラとハウラは平伏した。

 生粋のバラモンのスシーマは、本来シュードラが口をきいていいような相手ではない。


「ユリ、邪魔するぞ」

 スシーマが入っていくと、女官達がきゃあきゃあと騒ぎ上げた。


 突然の王子の乱入にヴェールを外してくつろいでいた女官達があわてて平伏し、顔を伏せる。


 ユリは奥にゆったりとしつらえられた敷布から立ち上がった。


「まあ、スシーマ様!

 狩りの前に私に会いに来て下さったの?」

 笑みがこぼれる。

「頼みがあるのだ。

 この巫女姫を隅でいいから置いてやってくれ」


「え?」

 ユリが怪訝そうにスシーマの左肩を見上げる。

 すでに暴れるのを諦めたミトラを地面に下ろした。

 外れたヴェールから月色の髪と翠の瞳がこぼれる。

 その外見にユリは息を呑んだ。


 自分より美しいなどとは意地でも思わないが、僅差の美少女だ。


「こ、これはシェイハンの?

 何故スシーマ様がこの姫を?」


「ナーガが子供を苛めるなと言うのでな。

 仕方ないのだ」

 ユリが余計な事をという目でナーガを睨みつけた。

 ナーガは首をすくめて「すみません」と呟いた。


「子供……。本当に痩せた小さな姫だこと」

 ユリは高飛車にミトラを見下ろした。

「それ、その隅に余った敷布でも敷いて置いてやってくれ。

 心優しいユリなら丁重に世話をしてくれると思ってな。

 そなたにしか頼めぬのだ」

 スシーマの言葉に、ユリの顔がぱっと紅潮した。

「まああ!

 それほどまでに私を信頼してくださってるのね。

 さあ、余った敷布などと言わず、私の横にお座りなさいな。

 先程はお辛かったでしょう?」


 興味がないくせに女の扱いがうまいな……と、ナーガは笑いを噛み殺した。


「では、私はもう行くがよろしくな。

 ユリのために獲物を捕らえて参るぞ」

「まああ!

 お任せ下さい。スシーマ様」

 

 有頂天で天幕の外まで見送ったユリは戻ってくると、まだ突っ立ったままのミトラをジロジロと見つめた。

「あなた、その髪は金で染めているのではないの?

 本物?」

 体の豊満さから想像していたよりも年若の姫のようだ。

 カールヴァキーとまた違うタイプの小柄なヒンドゥ美人だ。

「妃を断られたんですってね?

 まあ当然よね。

 国中の美姫達が言い寄っても冷たくあしらわれているんですもの。

 あなたのような貧相な異国人に応じるはずがなくってよ。

 まるっきり子供扱いですもの。

 残念だったわね」

 慰めたつもりらしい。


「アショーカは……」

 ミトラはふと、その名を口にしていた。


「え?」

 ユリは怪訝に眉をひそめる。

「アショーカ王子はどうなのだ。

 言い寄らないのか?」


 ユリは一瞬きょとんとしてから、ぷっと吹き出した。

「いやあだ、アショーカ王子?

 あの卑しい王子がお好きなの?」


「卑しい?」

 わざと怒らせるために下卑と言った事はあるが、本気で卑しいと思った事はない。


「そうよ。

 シュードラの血を色濃く受けた卑しい王子よ。

 バラモンの姫は誰一人相手にしないわ。

 ああ、一人だけティシヤラクシタ様だけはご執心で、御子までお生みになったわね。

 お美しいけど拝火教の魔術を使うと言われている気味の悪い方よ」

「拝火教? ゾロアスターか? 

 ヒンドゥにもいるのだな」

「次の王はアショーカ王子だと占ったとか。

 スシーマ様に決まってるのに」


「そなた、王妃になりたいのか?」

「そりゃあもちろんなりたいけど、私はスシーマ様の妃になれるなら王妃の座なんていらないわ。

 あの深い藍色の瞳にずっと映っていたいの」


 ユリがうっとりと呟くのを見て、深窓の姫といえども恋する様は村娘と変わらないのだと微笑ましくなった。


 そんなミトラ達の会話を遮るように突然「ぎゃああああ!」という断末魔の叫びが天幕の外から聞こえてきた。




次話タイトルも「スシーマ皇太子」です

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