23、アショーカと月王の攻防
翌朝、山に敷いた陣から離れた先の平原で、アショーカとヒジムにアッサカ、そしてカイとイフリートと十人の月氏の兵が騎馬のまま烏孫を待っていた。
朝の山は、夜とはまた違う低空に閉じ込めたような寒さが足先を凍らす。
夜明けの約束だったが、すでに空はすっかり明るくなっている。
夜明けなどというアバウトな約束だから仕方ないが、もうずいぶん待った。
「まさか来ないつもりじゃないだろうな」
アショーカはいらいらと腕を組み直す。
来ない場合は一旦、陣に戻り、イフリートの全軍を連れて烏孫の村に攻め込む。
「くそう、ミトラのやつ、まさか俺を嫌がってるのではないだろうな」
「だから言ったでしょ? 手紙にはアショーカの名前より僕とアッサカの名前を入れた方がいいって。僕達だったらミトラも絶対来たのに」
ヒジムが隣から口を挟む。
「むうっ! それではまるで俺の名があるから来ないみたいじゃないか」
「そうじゃないの? それ以外考えられないでしょ」
アショーカはチラリと隣に馬を並べるカイの様子を窺った。
今は赤目ではない。
鍛え込まれた体躯の割りに表情は幼い。
まだ子供の域を出ていない。
「チャン氏に聞いたが、お前は少し前まで中華の人質になっていたらしいな」
カイはアショーカに話しかけられて、飛び上がりそうに緊張している。
月王の私室まで否応無く押しかける強引さを目の当たりにして、相当恐れているらしい。
「は、はい。月王様の身代わりに、趙という国に軟禁されておりました」
「趙? 中華には幾つも国があるのか?」
「はい。いくつかの大国に別れ、戦の絶えぬ戦乱の地です」
「どんな連中だ? 熊のような大男達か?」
「いえ。ぼ、僕は……その……月王様のフリをして……その……姫君の恰好をしてましたので、周りにいる男達は宦官か文官でした。だから……細身の雅やかな男が多かったです」
「ああ、そうか。女だったな」
姫のフリをしてたのかとジロジロ見やる。
カイは狼に睨まれたように身を小さくしてオロオロしている。
「お前に身代わりをさせて月王はどこにいた? 時々入れ替わってたんだろう?」
「えっ!」
カイは弾けたように顔を挙げ、ますますオロオロと落ち着きが無い。
「分かってるぞ、月王。出てきたらどうだ?」
アショーカはカイの瞳の奥を覗き込む。
「な、な、何をおっしゃってるんですか? ぼ、ぼ、僕は……」
「余計なごまかしは無用だ。月王、さっさと出てきやがれ」
更にアショーカが問い詰めると、ぽうっとカイの目が赤く光った。
途端に、オドオドしていたカイが、不敵な表情をつくり、ふっと口端で微笑む。
「何の御用ですか? 今、あなたの連れて来た商人と商談中だったんですがね」
「ふん。あっさり認めやがったな、月王」
「えっ! 月王? カイじゃないの?」
ヒジムが横から目を丸くしてカイを見つめる。
「見た目はカイだが、中身が月王に入れ替わってるんだ。目が赤いだろ?」
カイはジロリとヒジムに冷ややかな視線を向けた。
カイにはない傲岸な視線だ。
「ぎゃああ、怖いよ。僕そういうの苦手だって言ってんじゃんか」
ヒジムが顔を強張らせる。
月王の入ったカイは、すっと周りを見回して状況を把握する。
「どうやら女神は現れなかったようですね。あなたの元に帰りたくないという解釈でいいでしょうか?」
カイは楽しむようにアショーカを見つめた。
「いや、ミトラは手紙を見てないか、烏孫に捕えられて来れないんだ」
言い切るアショーカにカイは、くくっと笑った。
さっきまで純朴な少年だったはずなのに、中身が入れ替わると、こうも印象が違うものかとヒジムは背筋が寒くなった。
「どこからその自信は湧き出て来るんでしょうか。むしろ我らの包囲網に恐れをなした烏孫が必死で説得するも、行きたくないと泣いて懇願する女神の姿が想像出来ますが……」
「むうう……、くだらぬ想像をするな!」
「されど、来ないとなれば次の作戦に進めなければなりませんね。一旦、陣に戻り、イフリートの軍を連れて女神を奪還するか……それとも……」
「それとも?」
もう一つ選択肢があるとは聞いていない。
「この場で無用になったあなたを殺しタキシラに向かうか……」
「なにっ!」
アショーカの背後のヒジムとアッサカが剣の柄を握る。
「もう一つ選択肢はあるぞ」
アショーカは分かっていたように落ち着いている。
「もう一つ?」
カイが不審な顔を浮かべる。
「このまま俺とヒジムとアッサカで烏孫の村に突入して、ミトラを奪還する」
「……」
カイは笑顔を消してアショーカを睨みつける。
「どうした? さすがに読めなかったか? 俺も今考えたからな。驚いたか」
「いいえ。相変わらず無謀なバカだと感心してたのです。たった三人で奪還出来ると? それにあなたの私兵と側近二人は置き去りですか? 無慈悲な暴君だ」
「あんたに俺の私兵と側近を殺せるか? 出来ないだろう?」
「女だからそんな残酷は出来ないとお思いですか? 甘いですね」
「いや、残酷だからじゃない。あんたは烏孫を殺せばミトラが俺を許さないと言った。だが、烏孫を殺すのを一番恐れているのはあんただ。女神に一番嫌われたくないのはあんただろう?俺や俺の側近を殺したら、あんたは確実にミトラの敵になる。それが怖いのだろう」
「……」
カイはしばし黙り込んだ後、ふふっと微笑んだ。
「何がおかしい?」
アショーカはむっとカイを睨んだ。
「どうやら別の選択肢が必要になったようですよ」
「なにっ?」
「アショーカ! あれ!」
ヒジムが指差す方角から騎馬の一軍が現れた。
「烏孫か……」
数人の屈強な男達の先頭に烏孫がいた。
次話タイトルは「一触即発の取引き」です




