22、ミトラを呼ぶ者
「?」
その時ふと、何か声が聞こえたような気がして顔を上げた。
「……レ……ヤ……」
前に聞いた事のある声。
「マイ……ヤ……」
はっと思い出す。
ビンベトカの岩絵を見に行った時、聞いた声。
「マイトレーヤ……」
自分に呼びかける切ない声…。
ミトラは声を辿って足を進めた。
ゲルの入り口の幕を上げ、導かれるように外に出る。
「ミトラ?」
書物を読んでいた烏孫が気付いて、慌てて追いかける。
ミトラはふらりふらりと、凍てつく夜の草原に歩みを進める。
「ミトラ? どうしたんだ?」
烏孫がすぐに追いついて、その腕を掴んだ。
「誰かが……私を呼んでいる……」
どこからだろう。
地の底の底?
それとも天の上の天?
「何を言ってる? 声なんか聞こえないぞ。おい、しっかりしろ!」
烏孫はミトラの両腕を掴んで体を揺さぶる。
様子がおかしい。
「行かなければ……。行かなければならない……」
「行くってどこへ? アショーカ王子の所か?」
聞きたくないのに聞いてしまう。
「アショーカ?」
はっとミトラはその名を聞いて現実に戻った。
「違うのか?」
動揺している様子から、アショーカの事ではないのかと安堵と不安を浮かべる。
「では誰のところに?」
問いただそうとする烏孫に答えずミトラが悲鳴を上げる。
「烏孫!! 見てっ!! あれを」
ミトラはゲルの上を指差す。
「あれは……」
烏孫も驚愕の表情を浮かべる。
「鷹が……」
烏孫のゲルだけではない。
村中のあちこちのゲルに鷹が無数に止まっている。
「なぜ……」
戦の前触れと言っていた鷹が村中のゲルの屋根に止まっている。
「目が……赤い……」
赤い悪魔が現れ……滅亡へと……。
言い伝えが脳裏に浮かぶ。
ふいに烏孫のゲルに止まっていた一匹が、大きな羽を広げ、羽ばたいた。
一瞬でグンっと加速して、二人の真横を煽るように飛び去る。
あっという間に遠くに姿を消した鷹を目で追っていた二人の足元にパサリと何かが落ちた。
丸めて紐で結ばれた羊皮紙だった。
烏孫が拾って、すぐにゲルからこぼれる灯りの下で開いて読む。
みるみるその顔が青ざめた。
「烏孫、何が書いてあるのだ? 誰からだ?」
ミトラが手紙を覗こうとすると、烏孫は慌てて懐に隠した。
「翔靡達のところに行ってくる。お前は何も心配するな。ゲルから出るなよ」
「私にも教えてくれ! 何か大変な事が起こってるのではないのか?」
「大丈夫だ。俺に任せろ。いいからゲルの中に入れ。ゾド、ミトラを見ていてくれ」
烏孫はゾドに命じて、大慌てでゲルを飛び出して行った。
※ ※
アショーカは陣を張った山の中腹から眼下に広がるゲルの集落を見下ろしていた。
夜闇の中で冴え冴えと輝く月が、辛うじてその輪郭を映している。
「ほんとにあの中にミトラがいるの?」
ヒジムが寒さに首を縮めて横に並んだ。
「月王はそう断言している。たぶん本当だろう」
アショーカは無数に陣と村落を行き来する鷹達を見上げながら、時折赤く光るその目に薄ら寒いものを感じて眉を寄せた。
(鷹の目になって見渡せるのか……)
だとしたらこの荒野に隠れる場所などない。
結局アショーカは月王の協力のもと三日の行軍でトルファンを見渡す山に辿り着いた。
協力を得られるうちは、大いに協力してもらう事にした。
もし危害を加えられたり、ミトラを奪われるような事になったら、その時考えるしかない。
行き当たりばったりだが、すべてを見通している月王にはそれが最善の策だと思った。
前もっていろいろ計画しても、計画するからこそ、見通されてしまう。
月王は赤谷城に残ったままだが、カイはアショーカを見張るようにそばに仕えている。
アショーカが怪しい行動をすれば、すぐにその目は赤い光を放ち月王に入れ替わる。
体を安全な場所に置いたまま、常に最前線で軍を率いている。
しかも……。
「それにしても驚いたよね。出陣の直前まで一万しかいなかった兵が、突然十万になるんだからさ。その上、みんな同じ顔に見えて、気味悪いったらないよ」
わざと聞こえるように言うヒジムとアショーカの背後には、それぞれ十人ずつ黒服の見張りが張り付いている。みな角髪頭の同じような背格好の男達だ。
一万の兵はチャン氏と大宛とクシャンの三部族で編成されている。
彼らは自分達のゲルを持って、食料、防寒具も揃えて行軍に参加している。
残りの九万はイフリートという月氏の男が統率する月氏の兵だ。
それは出発の直前、突如として現れた。
動き易そうな黒の上下に、防寒着もない。ゲルも持たなければ、食料もない。
そんな無謀な軍団が平原を埋め尽くすほどに黒々と現れ、黙々とつき従う。
夜になっても直立不動のまま警備に務める、恐ろしく強靭で従順な男達。
あんな不死身の者達に逆らっても、勝ち目などどこにもなかった。
「イスラーフィルとソグドは大丈夫かなあ」
その二人は月氏の要請で人質代わりに赤谷城に置いてきた。
ミトラと契約を結んだ烏孫に危害を加えたくないらしい月王ならば、やはりミトラのマギであるイスラーフィルには危害を加えないだろうという希望に賭けるしかない。
ミトラを奪還した後、月王の元に連れて行くのが二人の人質との交換条件だ。
だが、まずは……。
「烏孫は手紙の通りに従うでしょうか……」
二人の所にチャン氏がやってきて並んだ。
「ミトラが読んでいれば、きっと来るはずだ」
明日の夜明け、陣を張るこの山との中間地点にミトラを連れて来るよう書いた手紙だ。
ミトラを返せばそのまま兵を連れて赤谷城に帰るが、返さなければ攻撃すると書いてある。
明日の夜明けが一番平和的に解決出来るタイムリミットだと月王は言っていた。
それを逃せば、烏孫は匈奴の二十万の援軍を得て、簡単には応じなくなる。
最悪の場合匈奴の二十万と月氏の十万の兵の戦になる。
匈奴の半分の兵しかいないが、月氏は勝てると断言した。
ただし、それらはすべて、ミトラがアショーカの元に戻りたいと言った場合の結末だ。
もしミトラが匈奴に残りたいと言えば、やはり兵を引き、アショーカ達は皆殺しになって月氏の兵はタキシラに向かう。
「手紙には俺がミトラを出迎えると書いた。ミトラが読んでいればきっと来る」
「手紙は巫女姫様の元に届けたはずです」
今頃はこんな辺境にまで追いかけてきたアショーカに驚いているはずだ。
明日にはきっと会える。そう信じるしかない。
次話タイトルは「アショーカと月王の攻防」です




