21、闇に現れた男たち
アショーカ?
あるはずがないのに、なぜかそう思った。
思わず駆け出す。
そして近付くにつれ、それが思いがけない人物である事に青ざめる。
「烏孫……!」
なぜここに?
烏孫の後ろにはシャーマンのボーが控えていた。
「こんな夜中にどこへ行く気だミトラ!」
烏孫はゆっくり近付き、馬を降りた。
「そ、そなたこそどうしてここに? 部族会議に行ったのではなかったのか?」
「ボーが蘭靡の様子がおかしいと教えてくれた」
ミトラは驚いて背後のボーを見た。
ボーは穏やかに微笑み、ゾドがそのそばに寄り添っている。
「蘭靡が余計な事を言ったみたいだな」
「ら、蘭靡殿はそなたの事を思って言ったのだ。一番苦しんでいるのは彼だ!」
「分かってる。蘭靡は俺の為に悪者になるつもりだ」
「そこまで分かってるなら……」
「だがお前は行かせない!」
烏孫は断じるように叫んだ。
「来い! ミトラ!」
両手を広げる。
「ダ、ダメだ! 私がいればみんな傷つく。神威も桂香も杏奈も……烏孫も……私の好きな人はみんな不幸になるんだ……」
「不幸になってもいい。俺のそばにいてくれ!」
「ダメだ! そなたは国を創るんじゃなかったのか! 私の為にすべてを捨てるつもりか! そなたを信頼する蘭靡殿や村人達を裏切るつもりか!」
「いいから来い!」
烏孫は馬上のミトラの腕を引っ張って、無理矢理腕に抱きとめた。
「放してくれ烏孫! 私はいるだけで人を傷つけてしまう。どんなに息を潜めても、誰の害にもならないように慎重に慎重に気配を殺しても、やっぱり大切な人をみんなみんな不幸にしてしまうんだ! うっく……うう……」
堰を切ったように涙が溢れる。
「不幸になんかなってない! お前は息を潜める必要なんてない!」
烏孫はミトラの小さな体を抱きしめる。
自分の無力が苦しい。
「悪いのは俺だ! 俺がもっと強ければ、俺がもっと民の心を掴む主君であれば、俺がもっと上手に行動していれば、お前をこれほど辛い目に合わせずに済んだ。神威も桂香も蘭靡も傷つけずんに済んだ。全部俺のせいだ!」
「違う……私が……うう……」
嗚咽がつかえて声が出ない。
「ミトラ、俺は今まで自分の地位に甘えて、武勇に頼り、民を治める事を安易に考えていた。今の俺ではアショーカ王子にもスシーマ王子にも勝てない。足元にも及ばない」
「烏孫……」
いつも強気な烏孫があっさり負けを認める事に驚いた。
「でも、もう少しだけ待ってくれ! 俺はもっともっと知識を積んで、民の心を理解して、きっと誰からも信頼される主君になってみせる。もう二度とお前が傷つかないような、蘭靡が悪者にならずに済むような主君になってみせる。だからもう少しだけ俺のそばにいて、待ってくれ。きっときっとお前が納得出来る男になってみせるから……」
「烏孫……」
ミトラは思いがけない言葉を吐く烏孫を、信じられない思いで見上げた。
◇
翌日から烏孫は変わった。
朝に晩に民を見回り、一人一人に声をかけ、放牧に同行しては家畜の状態を細かくチェックし、ミトラに買った宝飾は売って必要な食料と武器に換えてきた。
桂香と神威を含めた村人達には雑用が均等になるように細かく話し合い、特技のある者はその才を認め専念する時間と地位を与えた。
桂香と神威だけが特別扱いにはならないように才ある者を取り立てる基準を作った。
村人達は自分にもチャンスがあると希望を持ち始めた。
狛爺やボーに勧められた書物を読み、部族会議の前にはゲルで熱心に下調べをして、会議に有利になる情報を集めた。
「しっかし驚いたな、烏孫のあの変わりようには……」
翔靡がゲルの中で呟いた。
狛爺と翔靡と蘭靡が三人で暮らすゲルだった。
「いやはや、ようやく主君の自覚を持って下さった。ワシは嬉しいぞ」
狛爺は涙を流して喜んでいた。
「あのシェイハンの姫は、最初はとんでもない下げマンだと思ったが、こうなってみると案外烏孫に必要な女なのかもしれないぞ、蘭靡」
蘭靡はまだ懐にしまったままのミトラの手紙を服の上から握りしめた。
「そうだな……」
もう分かっている。
あの姫がどの種類の女か。
奇跡のような善人だ。
どんな悪意も策略もない。
それは追い詰めた自分だからこそよく分かる。
ギリギリの絶望の中で、他人の未来だけを心配していた。
あの晩、ミトラを連れて戻ってきた烏孫は、一言も蘭靡を責めなかった。
それどころか、すまなかったと謝って、もう一度チャンスをくれと頭を下げた。
幼い頃から騎馬も剣もずば抜けていて、蘭靡も翔靡も、その武勇に惚れた。
唯一の主君と信じて従ってきたが、いかんせん、やんちゃな少年の無謀が抜けなかった。
何でも思い通りにしてきた男の甘さが、治世者としての飛躍を堰き止めていた。
初めて、どれほど足掻いても思い通りにならない、それでいて切望する存在。
蘭靡には、ミトラがまるで、偉大な治世者を造る最後の仕上げのために現れた女神のように思えた。
傾国の姫などではない。
あれは建国の姫だ。
◇
「烏孫、少し休んで薬湯でも飲まぬか? ウコギの根を煎じたものだ。疲労回復の効能がある」
ミトラはゲルに帰ってからも熱心に調べものをする烏孫に、夕方に神威と一緒に作った薬湯を差し出した。
烏孫のそばに寝そべっていたゾドがクンクンと匂ってから元の姿勢に戻る。
「神威と? なぜ薬草をお前が持ってるんだ?」
書物から顔を上げ、首を傾げる。
「神威が夏の間に集めて乾燥させてたんだ。神威は薬師の才があるぞ」
期待に胸を膨らますミトラとは正反対に烏孫は眉間を寄せた。
「前に言ったと思うが、この国では薬はシャーマンの専属だ。余計な事をするなよ」
「わ、分かってる。このゲルの中で、こっそり教えるだけだ。村で一人しか医術が出来ないなんてやっぱり心配じゃないか。みんなにバレなかったらいいだろう?」
必死に懇願するミトラに、烏孫はやれやれとため息をついてから微笑んだ。
「しょうがないな。では絶対に他の者に知られるなよ。どれ、せっかくだから飲もう」
烏孫は薬湯を受け取って、ぐびりと飲んだ。
「思ったより飲みやすいな。もっと苦いかと思った」
「シェイハンでは薬湯を煎じたり、ソーマを搾る時には歌を歌うんだ。美しい詩篇の韻が薬草をまろやかにして効果を上げると言われている」
ミトラは得意げに告げる。
「ではこの薬湯を作る時はお前が歌を歌ったのか?」
烏孫は目を見開く。
「そうだ。私はヒンドゥの叙事詩を歌うのが好きなんだ」
ラーマーヤナが特に好きだった。
「それは今度は是非作るところから見たいものだな」
烏孫は目を細めて温かな笑顔を作る。
ミトラはふと居心地の悪さを感じて、器をさげる風を装って席を立った。
つい先日までやんちゃな弟のような危うさがあったのに、急に大人びた。
そういえばアショーカがタキシラに入った後もこんな風に変わったと思い出した。
あの時も急に大人びたアショーカにドキドキした。
まあ、その後キスすると騒いで、子供の喧嘩のようになってしまったのだが……。
ただ、そういえばトムデクがしきりに感心していた。
あんなに滅茶苦茶だったアショーカが、真面目に政務をするようになったと……。
烏孫もミトラを連れ戻してから、別人のように真面目になった。
時折、ふざけたり軽口を叩いたりはするが、一つ芯が通ったような気がする。
なんだか自分ばかりが大人になれず置いてきぼりのような気がして焦る。
(私もしっかり覚悟を決めなければ)
いつまでもアショーカに未練を持っていても仕方がない。
まだ心の大部分を占めるアショーカだが、それは至極の宝石のような思い出に変えて、現実を生きなければ。
今のこの場所で精一杯生きよう。
「?」
その時ふと、何か声が聞こえたような気がして顔を上げた。
次話タイトルは「ミトラを呼ぶ者」です




