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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
202/222

20、一人ぼっちのミトラ

「この村から出て行ってくれ」


 躊躇ちゅうちょ無く告げられた蘭靡らんびの言葉に神威かむいが慌てる。


「な! 何をおっしゃるのですか蘭靡様! そんな事、烏孫様が……」

「烏孫の怒りはすべて俺が受け止める! 死罪だと言うならそれでもいい!」


 その覚悟は本物だった。

 蘭靡は大事な主君の為に命を賭けるつもりだ。


「ですが……この極寒の大地でどこへ行けと……」

 神威はまだ追いすがる。


月氏げっしがこの姫を欲しがってるなら、それなりの待遇で迎えてくれるだろう。馬を一頭くれてやる。防寒具も一揃い用意してやる。赤谷城までの地図を書いてやろう。ヒンドゥに向かうよりは、ずっと楽な道のりのはずだ」


「分かった」


 ミトラは素直に肯いた。


「ミトラ様!」

 神威が止めようとするのを蘭靡がギロリと睨んでさえぎった。


「神威、烏孫に余計な告げ口をしようとしたら、その場で切り捨てるぞ!」

 蘭靡の脅しにミトラが慌てた。


「蘭靡殿やめてくれ!」


 もう覚悟は出来ていた。


「神威、私なら大丈夫だ。烏孫には黙っていてくれ。これは私の命令だ」

「ミトラ様……」


 神威はガクリと膝をつく。


「今夜、烏孫は部族会議で隣りの村に行く。宴会になったら翔靡しょうびが夜半まで引き止める。その間に俺の用意した馬に乗ってこっそり村を出ろ。嫌がるようならその場で切り捨てる」


「分かった……」


 夕暮れと共に烏孫うそんは蘭靡の言った通り、翔靡しょうびとゾドを連れて部族会議に出掛けて行った。


 神威かむい桂香けいかはどこかで見張られているのか、あの後、姿を見ていない。


 ミトラはゲルのプライベート空間にある寝袋を膨らませ、蘭靡が指示した通り眠っているように服を詰めて細工してハヌマーンと共にゲルを出た。


 村人達はまだ夕食の片付けをしてるのか、それとも蘭靡の計画は村人全員の総意なのか、不思議なほど誰にも会わなかった。

 別れを惜しんでくれる人など誰もいないのが悲しかった。


 待ち合わせた場所には、蘭靡がすでに足の速そうな馬を連れて立っていた。


 馬の両脇には水袋と食料が、そして暖かそうなフエルト地のくらとユキヒョウの毛皮のマントまで用意してくれていた。


 おそらく手に入る最高級の物で揃えてくれた。

 悪い人じゃない。

 烏孫の事を本気で心配する忠実な側近だ。


 きっとサヒンダがこの立場であったなら、アショーカの為に同じ事をしていた。


「ちゃんと来たな。細工はしてきたか?」

 蘭靡は言葉少なく尋ねる。


 ミトラはうなずいた。


「これが地図だ。狼の出そうな場所を印しておいた。夜は絶対近付くな。出来れば夜は眠らずこの安全な道をゆっくり進め。オアシスは丸印だ。こことここにある」

 とても丁寧に書かれた手作りの地図だった。


「ありがとう蘭靡殿」

 ミトラは感謝を込めて微笑んだ。


 蘭靡は気まずい顔をそむける。


「蘭靡殿、この手紙を烏孫に渡してくれるか?」

 ミトラは樹皮紙に書いた手紙を手渡す。


「何が書いてある?」

 不審な顔で睨みつけた。


「封はしていない。蘭靡殿が読んで、渡すべき時だと思ったら烏孫に渡してくれ」

「渡すべき時?」


 怪訝けげんな顔をする。


「神威と桂香の事が心配だ。そして何より蘭靡殿、あなたはいざとなったら、すべての責任をかぶって死ぬ気なのだろう?」


 蘭靡はハッとしてミトラを見つめる。


「私は自分の意志で出て行く。その手紙には、その私の気持ちが書いてある。蘭靡殿、あなたは烏孫に必要な人だ。だからどうか生きて烏孫のそばにいる道を選んでくれ。その為に役立つなら、その手紙を烏孫に渡して欲しい。これは私の願いでもあるのだ」


 蘭靡は目を見開く。


 後悔と懺悔ざんげの想いが怒涛どとうのように心をいでいく。


「すまない……ミトラ殿……」

 思わず洩れた本音に口を押さえる。


 本当は女一人を夜の荒野に放り出すような真似をしたい人ではない。

 必死の思いで良心にフタをして行動を起こしている。

 大事な主君のために、自分が鬼になる覚悟で……。



「では、もう行く。神威と桂香によろしくな」


 蘭靡はミトラの姿が見えなくなるまで頭を下げて見送った。


  ※ ※


「ハヌマーン、また一人ぼっちになってしまったな……」


 ミトラは馬で進みながら、ふところのハヌマーンに話しかけた。


「いや、そなたがいるから一人ではないな」

ハヌマーンの柔らかな毛に頬ずりする。


「スシーマ殿はこうなると分かっていて、そなたを送ってくれたのかもな。あの方の心遣いはいつも絶妙に行き届いている。本当にいい人だな」


 ウッジャインに連れ去られた時は、しばらく口もきかなかったが、いつも大人の対応で、どんな時も誠実だった。アショーカとは違う穏やかな安心をくれる人だった。


「ハヌマーンがいなければ私はもっと絶望していた」


きっと馬を進める事もせず、どこかでひっそりと凍りついて死のうとしただろう。


「でも、出来る限りの努力をして月氏げっしの元へ行くよ。そなたを死なせたくない」


 ハヌマーンは心配そうにキイと鳴いた。


「月氏とはどんな一族だろうな? 精霊の一族の国とは魔王ラーヴァナのランカーのような国だろうか? 私を受け入れてくれるだろうか? 本当はとても恐ろしいんだ、ハヌマーン」


 ミトラはぎゅっとハヌマーンを抱きしめた。


「蘭靡殿の前では強がってみせたけれど、本当は怖くてたまらない……」


 恐怖から逃れる呪文のように、その名をつぶやいてしまう。


「アショーカ……」


 凍えるような寒さに、先の見えない荒野。

 生きている者など世界に自分とハヌマーンしかいないのではないかと錯覚しそうなほどの静けさ。


 ああ、でも、もしもここにアショーカがいたなら……。


 この背にアショーカの温もりがあったなら……。


 また追い出されたのかと笑ってくれたなら……。


 あの陽だまりの腕に抱きしめられたなら……。



 きっともう何も怖くない。

 世界中が敵に回っても安心していられる。


「うう……うっく……」


 嗚咽おえつが洩れる。


 月氏の元へ行けば、ますますアショーカは遠くなる。

 もう会うすべなど、どこにもないのだと思うと、心が砕けそうになる。



「?!」



 その時、唐突に前方に二つの騎馬の人影が見えた。

 こんな夜中に……こんな不毛の大地に……誰が?



「まさか!」



次話タイトルは「闇に表れた男たち」です

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