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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
201/222

19、知らなかった現実

 久しぶりに山に入って空腹を満たしてきたユキヒョウのゾドは、帰ってくると見知らぬ猿が我が物顔でゲルにいる事に気付いて、散々威嚇いかくして脅かした。

 最後に烏孫に注意され、仕方なく睨むにとどめている。


 日中のほとんどは桂香けいかに刺繍を教わり、神威かむいは朝晩様子を見にやってくる。ゾドはハヌマーンが来てからゲルの居心地が悪くなったのか烏孫と一緒に出かけるようになった。


「桂香、今日はアショーカの太守たいしゅ就任式の話をするぞ。すごくいろんな事があったから今日一日では話せないかもしれないな」


 刺繍を始めるとすぐに、ミトラはおしゃべりに花を咲かす。


「今までの話だと、アショーカはこの村の男達のような大男だと思っているかもしれないが、案外スマートな男なんだ。背格好は少し烏孫に似ているな。烏孫より長い黒髪に灰緑の綺麗な目をしてるんだ。勝ち気に釣り上がった目と浅焼けた肌をしていて太守の正装の白い衣装がすごく似合ってて見違えてしまった」


 ミトラはその時の光景を思い出して、胸がキュンと痛んだ。


 あの時はアショーカを見ると気分が悪くなると言って怒らせてしまったが、思い返してみると、決して不快な痛みではなかった。

 その痛みがなくなった今の方が寂しい。


 過ごした日々の大半を怒っていたアショーカだったが、時々見せる笑顔は好きだった。


 ふいに涙が溢れる。


 あの笑顔をもう二度と見る事が出来ないのだと思うと胸が張り裂けそうに痛む。


 黙りこんだミトラをハヌマーンは心配そうに抱きしめ、桂香は気長に待ってくれる。


 いい人だな……と桂香を眺めて、袖口から出ている腕にひどいただれを見つけて驚いた。


「桂香! どうしたんだ、その怪我は?」


 桂香は、はっとして慌てて傷を袖口の中に隠す。


「それは火傷やけどではないのか? かまどの火が飛んだのか! すぐに手当てしなくては!」


 ミトラは立ち上がって烏孫のゲルの中に薬のたぐいがないか探す。

 ハヌマーンも手伝ってウロウロするが、どこにも見当たらなかった。

 薬は置いてないらしい。


「誰かに言って薬をもらってこよう」

 ゲルを出ようとするミトラを桂香が引き止める。


 困ったように首を振って、大丈夫だとジェスチャーで示す。


 ちょうどそこに神威がやってきた。

「どうしたんですか? ミトラ様」


「神威、ちょうど良かった。桂香が火傷したみたいなんだ。どこかで薬をもらってきてくれないか?」


 神威は桂香の腕を見て青ざめた。


「これは酷いですね。あの……手持ちの薬草で良ければ……ここに……」

 神威は懐から樹皮紙に包まれた乾燥した草の束を取り出した。


「これは?」


 たまたま持ち歩いていたにしては多くの種類の薬草だった。


 神威は恥ずかしそうにうつむく。


「あの……怪我や病気の家畜の世話をしているうちに興味が湧いてきて……自分で薬草を見つけたら乾燥させて薬師くすしの真似ごとをして遊んでたので……」


「いや、凄いじゃないか神威! この不毛の大地でこれだけの薬草を見つけるなんて……。ドクダミまであるじゃないか! あっ、ツワブキの葉があるな。これは使えるぞ!」


 ミトラは神威の薬草を選別して、必要なものを取り出す。


「ああ、これは毒草だぞ。一緒にしてはダメだ。混ぜて煎じてしまったら大変な事になる」


「ミトラ様は薬草の知識があるのですか?」

 神威の方が驚いた。


巫女みことは本来、病や怪我を治すものだからな。ラーダグプタは一番最初に世界中の薬草について教えてくれた」


 思えば裏切られたとはいえ、ラーダグプタはとても丁寧にその用法や使い方を教えてくれた。

 あの日々も今となっては懐かしい。


 いや、感傷に浸っている場合ではない。

 ミトラは使えそうな薬草をすり潰して水で練り、患部につけて布を巻いて外気に当たらないようにする。


「痛かっただろう桂香。火傷は風に当たるとひどく痛む」


 桂香は申し訳なさそうに何度も頭を下げて礼をする。


「すごい! ミトラ様、私にも薬草の事を教えてくれませんか?」

 神威は希望に満ちた目で懇願した。


「私よりもこの地の薬草に詳しい者がいるのではないのか?」

 ミトラが言うと、神威は視線を落とした。


匈奴きょうどの医術はすべてシャーマンの一族のものです。薬草の知識も手当ての方法も一族だけの秘術として外部の者には教えてくれません」


「では怪我をしてもシャーマン以外誰も手当て出来ないのか?」

「はい。この村ではボー様一人しか扱えません」


「それでは大勢が一度に病気になったり怪我をしたらどうするのだ?」

「簡単な指示を受けて手伝いはしますが、ボー様がいなければ自然に治るのを待つ以外ありません」


 そういえばこの村に来る前にミトラの持つ知識について話した時、烏孫も言っていた。

 専門の一族がいるから下手に知識をみせるなと……。


「でも神威。そなた、本当は薬学を習いたいのではないのか?」


 神威ははっと顔を上げてから、すぐに俯いた。


「いえ……。私はミトラ様付きの従者になるのです。そんな事を習ってる暇は……」

「私の持つ知識で良ければ教えようか?」


 神威は弾けたように顔を上げる。


 しかし、予想外の所から否定の言葉が飛び込んできた。


「余計な事をするなよ、お姫さん」


 ゲルの外から蘭靡らんび剣呑けんのんな顔で入ってきた。

 驚いて神威と桂香が拝礼する。


「蘭靡殿、どうしたのだ? こんな時間に?」


 男達は放牧に行っている時間だ。


「忘れ物をしたと言って戻ってきた」

 蘭靡は冷え切った視線でミトラを見下ろした。


「忘れ物?」

 ミトラは不安気に蘭靡を見上げる。


「そう。あんたに言っておく事があったのを忘れてた」

 口端をゆがめて笑う。


「私に言っておく事とは?」

 ヒヤリと心が冷える。嫌な予感がする。


「今あんたが手当てした桂香の火傷。それがどうやって出来たか教えてやろう」


 蘭靡の言葉に桂香と神威が蒼白になった顔を上げる。


「どうして出来たか? 竈の火が飛んだのではないのか?」


 ミトラは桂香を見る。

 桂香は青ざめた顔を再び俯けた。


「表向きはな。そういう事にしてある」

 ふんっと蘭靡は小ばかにしたように鼻をならした。


「表向き?」

 ミトラにはまだ何を言ってるのか分からなかった。


「桂香は、あんたの針子係になって、日々の雑用が免除された。いずれはあんたの侍女になって中央にも連れて行くだろうと噂されている。大出世だ。だが、面白くないのは女達だ。自分達を差し置いて、しゃべれもしない桂香の位が高くなって、今までこいつがやってた雑用まで押し付けられたんだからな」


「そんな……。まさか、それで……」


「一番むかつくあんたに何かしたら烏孫が怒り狂う。だから、女達はあんたの身代わりに大人しい桂香にコマゴマとした八つ当たりから大火傷を負うほどの嫌がらせまでして、気持ちを晴らしてるのさ」


「まさか……」


 桂香は顔を伏せたまま、ミトラを見ようとしない。


「ら、蘭靡様、その事はミトラ様のお耳に入れるなと烏孫様が……」


 反論しようとする神威の元に蘭靡はズカズカと近付くと、その腕をぐいっと掴みあげた。


「いっっ!!!」

 神威は痛みに顔を歪める。


 蘭靡がめくった神威の腕には痛々しく包帯が巻かれていた。


「お前もだろう、神威。こいつに日ごと生傷が増えていくのも、単なる放牧での怪我だと思ったのか? 俺達は幼い頃から馬には乗り慣れている。放牧に出たぐらいでこんなに傷だらけになる訳がないだろう」


「では、まさか神威も……」

 ミトラは信じられないという顔で蘭靡に確かめる。


「そうだ。成人したばかりのくせに異例の側近扱いだ。烏孫の側近になるために日々武芸を磨いていた男達が面白い訳がないだろう」


 ミトラは青ざめて神威と桂香を見つめた。


 ミトラの前では何事もないように笑顔でいた二人なのに、陰では自分のせいで酷い目に合っていたのだ。自分だけが何も知らずのうのうと暮らしていた。


「烏孫は烏孫で、あんたが来てからというもの、大事な家畜を売っぱらっては宝飾に換えちまうし、今回のような周りの反感を買うような人事すら、あんたの為なら独断でやっちまう。あんたが来るまで烏孫はみんなに尊敬され、あいつの決める事に誰一人不平を言う者なんていなかった。それなのに今はどうだ? みんなが烏孫に不信感を持ち始めている。あれほど団結していたこの村が、あんた一人のせいでバラバラだ」


「……」


 ミトラは呆然として蘭靡の言葉を聞いていた。


 そして考え込んだ後、静かに口を開いた。


「蘭靡殿、あなたは私にどうして欲しいのですか?」

 翠の瞳が真っ直ぐ見上げる。


「この村から出て行ってくれ」


 蘭靡は一切の妥協だきょうを許さない目でミトラに告げた。




次話タイトルは「一人ぼっちのミトラ」です

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