20、アショーカとミトラ
「……であるからマガダの市街地には木造の周壁があり、長さ八十スタディオーン幅十五スタディオーンの広さで……」
西宮殿の執務室で、ミトラとアショーカは向かい合っていた。
「ちょっと待て。
スタディオーンとは確か、二十スタディオーンが一クローシャであったな」
嫌な所で話を止められ、ミトラは顔をしかめた。
数と単位はミトラの一番苦手な分野だ。
メガステネスの見聞録を訳し、アショーカに話して聞かせるようになって三回目だった。
「四クローシャが一ヨージャナだから、長さ八十スタディオーンという事は、ちょうど一ヨージャナという事か。
なるほど」
何がなるほどなのかさっぱり分からない。
「だが幅十五スタディオーンは短くないか?
一クローシャはあるだろう?」
知るか!
と言いたいが、弱みを知られたくないミトラは「そうだな」と知ったかぶった。
「一クローシャは二千ダンダだから二千五百ダンダぐらいはあるだろう」
千という、ミトラにとって未曾有の数が出てきた事に焦る。
「そ、その二千五百ダンダカなんじゃないのかっ!」
「は?」
アショーカは、ついていた頬杖をはずし、怪しむような顔をする。
「ダンダだろう?
ダンダカはラーマーヤナに出てくる森の名だ」
「わ、分かってる!
ダ、ダンダカなんて言うはずがないだろう」
しまった。ボロが出た。
「お前……なんか怪しいな」
気付くと、すぐ目の前にアショーカの顔が覗き込んでいた。
「あ、怪しいとはなんだ。
さ、算術ぐらいちゃんと出来る」
うっかり自分でバラしてしまった。
「そういえば十を四つで五十とかほざいていたな」
ぷっとアショーカが笑う。
「う、うっかり間違えただけだ!
笑うな!」
ほんとに嫌なやつだ。
「うっかりでも間違わんだろう普通。
教育を受けていない民なら分かるが、お前、確かラーダグプタが教育係だったんだろう?
何を教えてたんだ、あいつは」
その名にひやりと心が冷える。
「ラーダグプタと……知り合いなのか?」
重臣のようだから当然か。
「あいつは俺のじいさんの側近だったカウティリアの息子だ」
ミトラは驚いた。
「カウティリア?
あの実利の書を記したというチャンドラグプタ王の側近か?」
只者ではないと思っていたが、マウリヤ朝建国の礎と言われる男の息子ではないか。
「復讐したくとも、お前ごときが倒せる相手ではないぞ」
アショーカはもう一度頬杖をついて、世間知らずの少女に釘をさす。
「ラーダグプタは悪魔の囁きに惑わされているのだ。復讐など……」
考えた事もない。
「はあ?
悪魔のせいだと思ってるのか?
冗談だろう?
じゃあシェイハンを侵略したのも、各地で起こる戦争の数々も、悪魔の囁きのせいだと?
人には罪はないと?」
「当然だろう?
なにゆえ人が人を殺そうなどと思うのだ。
他者の領地を侵略して、何の喜びがある?
そもそも、この大国にはシェイハン以上のものがすべて揃ってるではないか」
「ああ、そうだな。
確かにマガダは栄えている。
だがもっと栄えるためには、シェイハンのラピスラズリの鉱山がどうしても欲しかったんだろうよ。
あの腐れ王はな」
「ラピスラズリの鉱山?
そんなものの為にあの暴虐を?
やっぱり思った通りではないか」
「何が思った通りなんだ?」
話がどこまでいっても噛み合わない。
「そんなくだらぬ事のために大勢の命を殺めようなどと思うのは悪魔ぐらいだ。
人ではない」
「……」
アショーカはこの珍しい生き物をまじまじと見つめた。
どうやら、この善だけを寄せ集めて出来た巫女姫には、悪への揺らぎが存在しないらしい。
善と悪に翻弄され続けてきたアショーカには、あまりに眩しく、そして憎らしい清浄さ。
「お前には二通りの楽しみ方があるようだな」
その顔に残酷な微笑が浮かぶ。
「二通り?」
あまりに無邪気に見上げる翠の瞳に、戸惑ったように目をそらす。
その清らかな心にシミを落とすように、人というものの本当の汚さ、酷薄さ、欲深さを見せ付けて、絶望に身もだえする様を楽しむか……。
それとも……。
「そろそろ帰ってもよいか?
明日は朝早く鹿狩りに行かねばならぬようだしな」
アショーカの思惑など我関せずと、ミトラが部屋を出ようとした。
その腕をアショーカがぐいと掴む。
「だ、だから痛いんだ!
そなたのせいで私の体はアザだらけだ!」
「黙れっっ!
鹿狩りとはなんだ!
そんな話は聞いてないぞっ!」
「私の知ったことか!
スシーマ王子の妃選びだと言っていた。
だからだろう」
「なんだとっ!」
アショーカの手に千ミトラの圧がかかる。
また単位を間違えてしまった。
「い、痛い! 放せ!」
この男のおかげで、とうとう未知数の千を覚えた。
「何故妃を断られたそなたがそんな所に行くのだ!」
「知らぬ!
ついでに呼んだだけだろう。
私に聞くな!」
「……」
アショーカは探るように、あまりに無垢な瞳の、澄み渡った深淵を見つめた。
「まさか……スシーマの妃になるつもりじゃないだろうな」
高すぎる純度は何一つ隠せない。
「断られたと……言っただろう……」
どんなに探っても一片の嘘も見つける事は出来ない。
「そなた……多くの命を犠牲にしてこの地に来たのだろう」
額のティラカが青い光を放つ。
「この国にきた事を神に見放されたと思っているのだろう」
服従しか許さぬ光。
「だがな、神は正しき行いをしたのかもしれぬ」
言ってる事がわからない。
「な、何が言いたい……」
ミトラは辛うじて答えた。
「俺はビンドゥサーラ王に嫌われ、各地で反乱が起こるたび鎮圧に狩り出されてきた」
地の底を這うような魔性の声が、ミトラの体に飢えた蛇のように絡みつく。
「剣の使い方もわからぬ民達を殺すのなど簡単だった。
面白いほど切り捨てる事が出来た。
幼き頃より下賤の王子と蔑んできた重臣達は反乱を鎮圧した後だけは、俺を褒め称えたさ。
勇敢な王子だと。
あのくそ親父さえも労ってくれた。
だから俺は有頂天で民を殺し続けた。
殺す事が快感にすらなっていた」
「なんという事を……」
急に目の前の男が得体の知れない人喰いの羅刹に思えた。
「いいように利用されている事にも気付かず、この手で罪もない民を大勢殺してきた。
あの腐れ王の治世に異を唱える勇気ある若者達をだ!」
悪鬼のように微笑む顔に、ふと寂しげな翳りが見えた気した。
「この手はこれからも多くの命を奪う。
幾百、幾千、幾万……数え切れぬ」
脅しているのか?
「お前はこの虐殺者の手を止めるために神が遣わしたのだ」
「は?」
「俺を選べ!
それが神がお前に与えた使命だ。
お前はシェイハンで犠牲にした多くの命の代わりに、もっと多くの命を救う為にこの国に来たのだ」
何の脅しだろうか……と思った。
どういう脅迫だ。
意味が分からない。
つと、突き刺すようなグリングレイの視線がミトラの後方にずれた。
「求婚中に失礼致します」
いつの間に入ったのか、ミトラの後ろに側近サヒンダが控えていた。
「ええっっ?!
今のは求婚だったのか?」
その言葉の方に驚いた。
シェイハンの村娘達が夢見るように語っていたそれは、もっと甘く、胸高まる喜びの瞬間だったはずだ。
想像と違い過ぎる。
ミトラの胸は確かに高鳴ってはいるが、それは狂気と恐怖で震えているのだ。
「やれやれ。
王子の過激に型破りな愛は、この巫女姫様には新手の脅迫にしか思えなかったようにございますね」
ふ……と顔を背け肩を震わす側近を、アショーカはむっと睨みつけた。
「余計な事は言わんでいい。
まさかそんな事を言う為に来たのではあるまいな」
「ビンドゥサーラ王より勅命の書状が届きました」
サヒンダは、すっと片膝をついて差し出す。
「勅命だと?」
つかつかと歩み寄り、書状を受け取る。
「……!」
その顔がみるみる怒りに赤く染まり、言いようのない殺気が部屋に充満する。
「あの……狸じじいっっ!」
ギリリと唇を噛み書状をぐしゃりと握りつぶした。
「なんと書いてあったのですか?」
サヒンダが、あまりのアショーカの剣幕に不安を滲ませる。
「タキシラの反乱を鎮圧しろと書いてやがる」
しかしサヒンダは首を傾げた。
「反乱鎮圧はいつもの事ではありませんか」
ここまで怒るほどではない。
「王の兵は一切出さぬと書いてある。
俺の私兵だけで鎮圧に向かえと……」
「な、なんと! 騎士団だけで?」
サヒンダは事の重大さに青ざめた。
「無茶です。
いくら強者揃いと言っても五百……。
各地のシュードラをかき集めても千もいない。
武器や戦車や象は?
今からではとても数が揃わないでしょう」
「俺を抹殺するつもりだ。
どこまでも卑怯なじじいだ!」
「どう致しますか?
勅命とあれば拒否すれば死罪」
アショーカはしばし考え込んだ。
「間者を放って情報を集めろ。
タキシラの反乱がどの程度の規模のものか調べろ。
それから先日西に向かった商人ソグドを見つけろ。
あの者ならタキシラの商人達に顔がきくはずだ」
「御意に」
サヒンダは答えるが早いか、姿をかき消した。
なんだか分からないが、どちらに転んでも死が間近にあるらしい。
「タキシラで反乱が起こってるのか?」
確かその太守がシェイハンを治めていると言っていた。
アショーカは、はっとミトラの存在を思い出したようだった。
「アッサカ!」
アショーカが大声で叫ぶと、風のようにアッサカが現れた。
「この女を南の宮殿まで送っていけ」
ミトラの質問に答える気はないらしい。
もう目も合わさない。
今まで求婚らしき言葉を並べていたはずの男は、用は済んだとばかり難しい顔で執務机で考え込んでいる。
「かしこまりました」
アッサカは礼をとると、ミトラを伴って宮殿を出た。
次話タイトルは「スシーマ皇太子」です




