2、導師
マウリヤ朝の首都パータリプトラから、五十ヨージャナ西の辺境の地は、漠々たる土気色の荒野に覆われ、熱砂と岩山の不毛の地が続く。
しかし気紛れな季節風が潤すその台地には、突如として天に届くかという青く輝く塔が突き立ち、ギリシャ風宮殿と円状の街並みが広がっていた。
それは神暮らす天上世界を具現する、不可侵の王国シェイハン。
【神妻の御霊預けし桃源郷
七つの使徒得し奇跡の乙女
聖婚の欠片 祝福を成す】
いつ記されたのかも分からぬ古代文字の石碑に守られた悠久のガンダーラ。
神が隣人のごとく気安さでそばにあり、悪魔が朝晩吹き抜ける一陣の風のごとく甘言を囁く時代に、その神はこの地アーリアの一人の乙女に恋をした。
古代ユーラシアに君臨した謎多きミスラの神が愛した乙女。
その清浄な血筋を引き継いだ、聖大師を名乗る巫女姫の存在がこの国を外敵から守り、平和の王国を築いていたのだった。
「偉大なるミスラの神よ。
御名の遣わす七天使の祝福により地に平安あるは天の技。
十二の星々の御光が天の再生を促すは地の技。
我が真名を贄に御身に栄光あれ。
アナ ルハック ミール スブハーニー ラー イラーハ イラ ッラーマナ ルムディル アナ ッジャマール 」
日々言い慣れた呪文のような祈りは少女の口から流暢に流れ出て、そのまま幾何学模様に敷き詰められたモザイクの床にひれ伏した。
十代前半と思しき華奢な体は、光沢のある純白のシルクの衣装に包まれ、腰まである月色の髪は左右ひと房づつとって背中で器用に編みこまれている。
まだひれ伏したままの少女の前には、青いラピスラズリをはめ込んだミスラ神をモチーフにした石の祭壇が厳かに組み敷かれ、その上の七つの燭台には、建国から継がれ続けた聖火が焔を灯す。
そして中央を貫くように竜が空に昇り立つような、らせん状の長い階段が神殿の頂上の聖室まで続いていた。
足の小指ほどの蹴込みを残して高く積まれた大石造りのらせん階段は、この地上でただ一人、ミスラ神の地上の妻となった聖大師のみが上る事の出来る純潔の聖域だった。
聖大師は太陽の昇る日中を聖室で過ごし、日が落ちてミスラの神が眠りにつかれた夜に長い時間をかけて階段を下り、食事や禊など、人としての営みを済ませるのだ。
その聖大師の世話をするのは次代の聖大師のこの少女、アサンディーミトラの仕事であった。
正式真名は神妻になる時封印されるため、名乗れるのは今だけだ。
しかし封印前でも畏れ多い事と、従者達は真名の一部のみをとって、ミトラ様と呼ぶ。
シェイハンの貴族の中に、しるしを持って生まれると云われる聖大師。
数多くの神官達には厳しい修行と戒律のもと、長い年数をかけ上りつめる七つの位階があるが、聖大師は生まれ落ちた瞬間からその最上位に君臨する。
この国でミトラは聖大師様に継ぐ第二位の権力を持つ。
それは王よりも高い地位だった。
夕闇に暮れ始めたばかりの閑散とした神殿で、少女はひとり神々に祈りを捧げていた。
「秩序と友愛の神ミスラよ。
その偉大なる力で、我等はこの邪悪な地上に平安の王国を築いてきました。
されど、私は今日をもってあなた様への信仰を捨てる決心を致しました。
あなた様はご存知ですか?
東のエルク村で悪魔憑きの被害にあった羊売りの家族を。
父と兄二人をむごく殺され、二十三匹いた羊は十九匹も連れ去られ、五匹になってしまいました。
これから女子供だけでどうやって暮らしていくというのですか」
ミトラは、人はすべて善なるもの。悪行を行う者は悪魔に囁かれた不運の者と信じていた。
敬虔な巫女姫は、今日見舞った母娘を瞼に浮かべ、ゆっくり天上を睨み付けた。
額には皮膚から浮き出るように翠十字の刻印が輝く。
水晶の結晶が隙間を開けて四つ置かれたようなその独特の模様こそ神の妻となる聖大師の証であった。
「ミスラ神よ。
あなたを敬い慕ってきた事を今日ほど後悔した日はありません。
あなたが神だと言うのなら、その御力で悪魔など何故すべて成敗して下さらないのですか?」
甘さを抑えた鼻にかかるハスキーな声音は、怒りを含んでも不思議に耳に心地いい。
「もしや、まさかと思いますが、悪魔よりも弱いのではないでしょうね?
ああ、それとも試練を与えるために見過ごしてらっしゃるのですか?
ミスラの神は慈悲深いお方とばかり思って参りましたが今日ばかりは失望致しました。
あなたは残酷無悲、最低最悪の神であらせられます。
あなたに嫁いだ暁には、私はヒンドゥのシヴァ神の妻のごとく、ふがいない夫を蹴り飛ばし理不尽あらば、足で踏みつける恐妻となりましょうや。
お覚悟下さいませ!」
ビシリと恫喝する未来の恐妻の背後で、ぷっと吹き出す声が聞こえた。
「導師殿!」
振り返った先には、雪化粧したヒンドゥクシュの山頂のような白銀の巻き毛の男が立っていた。
「いつもの事ながら、ミスラ神に同情致しますね。
それから、羊は残り四匹の間違いですね」
さりげなく計算の間違いを正す、亜麻のキトンを着こなした色白の青年は、その時々によってギリシャ人にもヒンドゥ人にも見える。
そして、若くして悟りを得たような鴉色の瞳は、麗しい男にも逞しい女にも見えた。
その中性的な麗しさは、この質素な神殿に不似合いであり、最も似つかわしくもあった。
「間もなく聖大師様が地上に下りて来られる時間です。
その前にミトラ様にお食事を召し上がって頂きたいと、レオンが先ほどから扉の前をうろうろしております」
「食事? 今日は気分が優れぬからいらぬ」
代々、聖大師は食欲が極端に希薄だった。
「昨日もそう言って召し上がらなかったそうではありませんか。
ミトラ様が食事をとらねば、豊満を好むミスラの神が嘆き、夜毎、夢の中でレオンの首を絞めるそうですよ」
「ええ? 本当か!」
ミトラは未来の夫の理不尽に驚く。
「ほほほ。嘘ですよ。また騙されましたね」
導師は涼しい顔でほくそ笑む。
「……」
ミトラは無言で導師を睨んだ。
そうだった。
この師は、ヒンドゥ人の嘘は社交辞令と言いきり、事あるごとにミトラに嘘をつく。
ヒンドゥにいた頃、髪が蛇になっている男を見たとか奥地には羊のなる木があるとか未開の森には一つ目の巨人や翼の生えた男がいるとか、どこまで本当でどこから嘘なのかも分からない。
この見事な銀髪もカツラだというもっぱらの噂だ。
「顔を見せて差し上げて下さい。
男はこの神殿に立ち入る事が出来ないのですから」
「そなた、導師殿だって男ではないか」
「私は宦官です。男でも女でもありません」
これは嘘ではないらしい。
「町の娘達がそれを知ったら残念がるだろうな。
もう一度男に戻れないのか?」
「ミトラ様は宦官がどのようなものか分かっていらっしゃらないようですね」
笑いを噛み殺している導師を、ギリシャの流れを汲む白い頬を膨らませミトラは睨んだ。
「導師殿が教えて下さらないのではないか!
そなたは私の教育係だろう?
世界のすべてを教えるのがそなたの仕事ではないのか!」
導師は戸惑ったように視線を伏せる。
「物事には知るべき順序と時機があります。
ミトラ様はまだ知らなくてよろしいかと……」
「またそうやって子供扱いをする!
私はもう十四だ!
同じ年の町娘達は結婚して子供だって生んでるではないか」
責められ、珍しく導師が深刻な顔を上げる。
「そんなに知りたいですか?
この私めの知られたくない秘め事を」
「ひ、秘め事?」
そう言われるとますます知りたくなるのが人のサガだ。
「私のこの銀の髪が偽髪であるという噂があるのをご存知でしょう?
この偽髪を外せば、私が宦官である証明となる満月のごとくツヤやかな頭を見せて差し上げる事になりますが……。
ああ、こんな屈辱をミトラ様にお話しせねばならぬとは……。
なんなら、今お見せしましょうか?」
よよと導師は悲しげに顔を伏せた。
その頭をミトラはまじまじと見つめる。
(満月のようなハゲ?)
人並みを超える麗しさが、余計に悲壮感を増長させる。
「いや、わ、悪かった。
導師殿にそんな辛い事情があったとは……」
ミトラの言葉を遮るようにカンカンと塔の上からペルシャ製の青銅の鐘の音が響いた。
「せ、聖大師様だ。日が沈んだようだな」
ミトラはほっとして話をそらした。
「では、私は下がらせて頂きます」
導師は何食わぬ顔で頭を下げて神殿から退いた。
神の妻となった聖大師様は、その生涯を人目に触れる事なく終える。
唯一の例外が、月に一度王族が参拝に訪れる神託の日だけだった。
月に一度、満月の夜、シェイハンの王族とその側近がマハルから訪れると、聖大師様は七天使の使いとなったマギの執り行なう厳かなる秘儀の後、神の神託を授ける。
王とマギの七人だけが予言の間で行う神託は、ミトラも見た事のない秘儀中の秘儀だった。
時には飢饉の予言、時には外敵の到来、時には天災の予知。
聖大師の授ける神託によってこの国は過去に何度も危機を乗り切った。
アレクサンドロス大王の遠征、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王の侵略、世界に響き渡る勇猛な王達も結局この国に手を出す事は出来なかった。
ミトラもいずれは神の妻、聖大師となり先読みの神通力と引き換えに自由を失う。
だからこそミトラは、今知る事の出来るすべてを知りたかった。
三年前、この地に流れ着いた導師はミトラの欲求を叶えるに足る人物であった。
とりわけ医学、薬学、天文学ではミトラに世界の最先端の知識を与えたが、役に立たない雑学も多かった。
中でも算術の苦手なミトラに導師が教えたエジプトの十進記数法は、ミトラの中で迷走し、遂には修復不可能な状態になってしまった。
信頼出来るようで嘘つき。博学のようでデタラメ。優しいようで意地悪。
両極端を行き来する導師を、それでもミトラは兄のように慕っていた。
次話タイトルは「聖大師様」です