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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
197/222

15、月王の正体


 イシクの湖に面した瀟洒しょうしゃ欄干らんかんは、季節はずれの桜が舞い散り、広く引き戸を開いた部屋の中に花びらが一つ二つと降り積もる。


 遠くに雪の積もる山並みが見えているのに、不思議にここだけは春の暖かさだ。


 肘掛に身を預け、ゆるりと横たわる体は金銀の糸で紡いだ内掛けを羽織り、長い黒髪が艶やかに幾筋もの流線を描いている。


 長い睫毛まつげを閉じて眠っている主君の目覚めを、チャン氏は先程から静かに待ち続けていた。


(さすがに昨夜はお疲れになったはずだ)


 カイの報告では、アショーカ王子一行が一晩中入れ替わり立ち替わり脱走を試みて、眠る暇も無かったと聞いている。

 おそらく一睡もしていない。

 もう少し寝かせて差し上げよう。


 しかし、唐突にそのまぶたがパチリと開いた。


「お目覚めでございますか? 月王様」


 月王は珍しく愉快そうに、ふ……と微笑んだ。


「間もなくお客様がお見えだ。呆れるほど短気で無謀なお方だな」


「え? お客様?」


 そんな事は初めてだった。

 この私室に生身の人間でチャン氏とカイ以外が招かれた事など、記憶にある限りは皆無だった。


 チャン氏が口を開く前に、ズカズカとこちらに足音が響いてきた。


「ち、ちょっとお待ちを! まずはお伺いをたててから……」

 カイが必死で引き止めているらしいが、足音は止まる様子もないまま、ダンっと引き戸が開かれた。


 驚くチャン氏の前にはアショーカ王子が仁王立ちになって目を見開いている。


「な!」


 ここだけ春が訪れたような暖かさに驚いたのか、異質な美しさで横たわる月王つきおうに驚いたのか、それとも季節はずれの花びらの舞いに驚いたのか。


 おそらくすべてだろう。


「お、おんな?」


 その装いの美しさは女にも見える。

 しかし男だと言われれば、年若い男にも見える。

 とりあえず確実に分かったのは、思ったよりもずっと若いという事だ。


 十代。

 おそらくアショーカより若い。

 十五、六か……。


 これが月王?


 月王はまるで来るのが分かっていたかのように落ち着いている。

 肘掛にもたれたまま、ちらりと視線だけをアショーカに向けた。


「そんな所で突っ立っておられず、ここに座ったらいかがですか?」


 謁見えっけんの間で聞いた声だ。


 やはりこれが月王かとアショーカはもう一度驚く。


「あ、ど、どうぞ、こちらに……」

 チャン氏が慌てて月王の前の座を勧める。


「し、失礼する!」

 アショーカは勧められるままに月王の前に座った。


 目の前でその姿に直面して、見た事のない容貌に更にもう一度驚いた。


 長い長い黒の直毛。

 薄卵色の透き通る肌。

 奇跡のように整った顔立ち。

 そして金に赤を落とし込んだような不思議な瞳の色。


 その瞳に既視感を覚えて、はっと背後に控えるカイの瞳を覗き込む。


 その目に宿っていた赤い光は消え、最初に紹介された時と同じ澄んだ青が瞬く。


「……」


 考え込んで再び自分をジロジロ見つめるアショーカに月王は苦笑する。


「無遠慮な方だ。あなたはいつも女性をそのようにジロジロ見るのか?」

「じ、女性?」


 ではやはり女だったかとアショーカは途端に勢いを削がれた。


「こ、これは失礼を致した」


 男だったならいつもの大声で怒鳴り上げ、政治的駆け引きに持ち込む事も容易であっただろうが……、どうしたものかと頭を抱える。


 女は苦手だ。

 追い詰めて泣き出されても面倒だ。


「何か用がおありだったのでは?」

 月王は単純な男をもてあそぶように微笑んだ。


「で、では一点だけ教えて頂こう」

 一番聞きたい事だけに絞る事にした。


「何でしょう? アショーカ殿」

 歌うような声が耳をくすぐる。


「あなたが会った事もないミトラを何故そこまで尊重されるのか教えて頂きたい」


 月王はゆるりと顔を背後の黒服の女官に向け、右手で何かの合図を送った。


 背後で座っていた女官二人は、うなずいて立ち上がり部屋の隅にある葛篭くずかごの一つから何かを取り出して月王の元に持ってきた。


 月王は受け取ると、手の平に乗るそれをアショーカの眼前にずいっと差し出す。


「?」


 それは透き通るほど純度の高い球体の水晶だった。


「アショーカ殿は我々が暮らす大地が、この水晶のような球体だと言ったら信じますか?」


 唐突な話の展開にアショーカは眉間を寄せる。


「俺の質問の答えとは、かけ離れているようだが?」

 腕を組んで睨み付けた。


「ふふ。追い追いその質問に辿り着きます。まずは答えて下さい」


 仕方なく応じる事にした。


「信じる。仮説の一つとして考えた事はある」

 正直に答えた。


「ほう……」

 月王は意外だとばかりに目を見開いた。


「一笑に付されると思ってましたが、これは驚いた」


「俺は数年前、死に目に遭って心が体から離れた事がある。魂は天空を彷徨さまよい、月を背に、この大地を見下ろした。それが丁度この水晶を青く色付けたような物体であった」


 月王は興味をひかれたように少し体を起こした。


「なるほど……。そんな経験がおありだったか。それゆえその身に……」


 探るようにアショーカの体の輪郭に視線を這わせて肯く。


「夢かとも思ったが、その仮定で大地に射す光と影を計算してみると、途方も無い大きさの球体だという仮説が成り立った」


 もっとも、こんな話を人にした事はなかった。


「そうか。あなたは数に秀でているらしい。だから体に妙な者を引き寄せているのか」


 月王はアショーカの体の気配を探って目をつむる。


「妙な者?」

 アショーカはますます不審な顔で月王を見つめる。


数魔すうまカルクリか……」


 思い至ったように目を開く月王にアショーカは驚く。


「な!」


 カルクリの事など側近しか知らない。

 なぜ月王が……。


 月王はおもむろに右手の指を二本立てて口元にあてる。

 そしてふっと息を吹きかけた。


 その瞬間、ストンとアショーカの肩が軽くなったような気がした。


「とりあえず一旦(はら)っておきました。でも隙を見せると、また来ますよ。あなたの数の才能はカルクリにとって、この上ないご馳走らしい」


「カルクリを祓ったのか?」


 確かにミトラを失ったと思った後から、ずっとついて回った暗いかげがどこかに消えた気がする。


(一体何者なのだ……、こいつ……)


次話タイトルは「月王の話す未来」です

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