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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
194/222

12、月王のたくらみ


「チャン氏、大宛だいえん、クシャンの三部族はイフリートの指示に従い、ミスラの姫を無傷で私の元に連れて来るのだ」



 名を呼ばれた三部族の男が立ち上がり「かしこまりました」とその場で拝礼する。


「ち、ちょっと待て! 月王殿の元に連れ帰るとはどういう事だ?」


 アショーカが異論を述べる。

 ミトラの居場所の捜索は頼んだが、奪還は自分でするつもりだった。

 ましてわざわざこの城に連れ帰る必要はない。

 嫌な予感がする。


「私は女神の奪還に十万の兵を出すのです。挨拶もなしに帰るつもりですか?」

「じ、十万?」


 三部族で十万の兵?

 想像以上の規模だ。


匈奴きょうどを見くびってはなりません。これは必要最低限の数。されど、その最強部隊でも、女神がアショーカ殿の元に帰りたくないと言えば、無理強いは出来ない。あなたが女神の心を掴んでおられぬなら、すべては徒労に終わる」


「な……!」


 ミトラの気持ち次第だというのか?


「ではミトラが帰らないと言えば、すごすごと十万の兵が引き返すのか?」


 アショーカのような破天荒な王子ですら、女の気持ちを頼りに国の十万の兵を動かすような無謀はしない。

 今回の捜索もあくまで私兵の騎士団を使っていて、国の兵は使っていない。

 一国の王のする事ではない。

 そんな私事に動かされる部族は不満を言わないのか?


 月王は心の声を聞いていたかのように答えた。


「心配無用ですよ、アショーカ殿。女神がもし匈奴に残ると言うならば、我等は彼らにこの地をゆずるでしょう。そうして脅威きょういの無くなった南へと南下していきます。自ら我が領土に飛び込んできた価値ある首をたずさえてね……」


 アショーカと側近の顔色が変わる。

 殺気を帯びた両脇の部族民に警戒を向ける。


 最初からそのつもりだったか……。


 匈奴かタキシラか。

 どっちに転んでも月氏に損はない。


 じわりと額に汗が流れる。

 甘かった。

 この辺境の地に、想像以上に強大で整った国家。

 こんな強大で野心の強い王がいるとは思わなかった。


「ふふ。まあ、可能性の話です。女神の心がアショーカ殿にあるなら、我等はあなたの治める国に手出ししませんよ。約束します」


「何故……」


 分からない。

 月王はミトラと面識も無いはずだ。

 それなのに、なぜミトラをそこまで重視する?


 しかもまだミスラの神妻という存在でもない。

 ミトラ自身の心をそこまで尊重する意味が分からない。

 何を考えている? この男……。


「トルファンへの出発は明後日。各部族は準備をしてしっかり体を休めておけ。アショーカ殿も慣れぬ寒冷地での行軍に備え、ゆるりと休まれるがよい。あなた方の世話はチャン氏とその息子のカイに任せよう。カイ、部屋に案内してやれ」


 月王はアショーカの疑問に答えるつもりはないらしく、そこで話を打ち切った。


 ※ ※



 アショーカ達五人が通された部屋は城の一角の、やはり草編みの敷物で埋まる広い部屋だった。

 木で編んだ壁と天井は繊細に見事だが、調度のたぐいはほとんどなく、部屋の奥に張られた板張りの一角に一輪の花が、首の細い壺に活けてあるだけだ。


 しかし不思議に貧相な感じはなく、美の奥行きを感じる。


「簡素を極めた美か。月王ってのは趣味がいいね」

 ヒジムがしきりに感心している。


「ふん、ただのケチだろう?」

 アショーカは少し斜めになった花を真っ直ぐ立てようとする。


「ああっ! もう斜めなのがいいんだよ。芸術の分かんない男は勝手に触らないでよ」

 ヒジムになじられ、アショーカはふんっと花を元に戻した。


「何か不便があれば、この者にお申し付け下さい。我が息子のカイでございます」


 チャン氏に紹介され、黒髪を四方に逆立てた青目の少年がペコリと頭を下げた。


「カイです。こ、これより皆様のお世話をさせていただきます」

 緊張した面持ちの少年は、確かミトラと同じ年だと以前チャン氏が言ってたか……。


「では私も明後日の準備がありますので、これで下がらせて頂きます」


 チャン氏が部屋を出ようとしたので「待て!」とアショーカが呼び止めた。


「そなたは初めから月王の考えを分かっていて俺の元に来たのか?」


 タキシラの傘下に入りたいと言ってきたのはチャン氏の方だった。

 北方で育たぬ穀物と取引きするための申し出で、タキシラの属国というよりは友好国に近い関係だ。


 実際、第一の主君は月氏げっしだと最初からアショーカに公言していた。

 アショーカも、それでもチャン氏の差し出す良馬と洗練された騎馬兵との取引きに損は無いと了承した。


「いいえ。私ごときが月王様の深遠な考えを汲み取る事など出来ません」

 この律儀で正直な人柄のチャン氏だから応じたとも言える。


「ミトラを取り戻せなければ、そなたも俺の首を狩るのか?」

「それが月王様の命令であるならば……」


 チャン氏は躊躇ちゅうちょなく答えた。


「なるほど……」


 あくまで第一の主君は月王であるという事だ。

 まあ当然だろう。


「では月王が俺に従えと命じたならば……?」

「命をかけてお仕えさせて頂きます」


 おそらく嘘はない。


 どうやらアショーカの首が繋がったままタキシラに戻れるかどうかはミトラにかかっているという事らしい。



「やばいよ、やばいよ。どうすんだよ。ミトラがアショーカを拒絶したら僕達この極寒の敵地で殺されるんだよ?」

 チャン氏が去った後、ヒジムが騒ぎ出した。

 カイは部屋の外にいる。


「今の内に逃げましょう。明後日の準備にみんなが慌ただしくしている間に」

 イスラーフィルが外のカイに聞こえないように声を潜めて提案する。


「そうだね。幸い僕達の見張りは子供一人だ。今ならいけるよ」

 二人はそそくさと脱出の計画を話し合っている。


「ちょっと待て。なんで俺がミトラに拒絶される前提だ。要するにミトラが俺の元に戻りたいと言えばいい話だろう? なんの心配があるんだ?」

 アショーカが憤慨する。


「……」


 しばし考え込んでから、今度はアッサカも参加して脱出計画を練る。


「では私が部屋を飛び出して衛兵の目を引き付けますので、その間にアショーカ様を……」

「こらっ! アッサカ、お前は指折り数えて俺を待つミトラを見てるのだろうが」


「そうでございますよ。あの巫女姫様はタキシラの反乱の折も、必死の想いでアショーカ様を守ろうとなさっておられました。私は信じますよ」

 ソグドは頷く。


「ほら見ろ。ソグドもこう言っておるではないか」

「ですが……、長く離れていると過去の思い出ばかりが走馬灯のようによみがえるとも言います。もしミトラ様がいろいろ、いろいろ思い出しておられたら……」

 アッサカの顔に不安がよぎる。


「な、何を思い出すというのだ?」

「無理矢理キスしようとして破廉恥はれんちののしられた事や……、服を脱げと命じて泣かせた事や……、ああ、私が初めてアショーカ様にお会いしたのは、確かアショーカ様がミトラ様に夜這いをかけ襲おうとしていた所でございましたが……」


「ぐ……、つ、つまらぬ事を思い出すな!」

「思い出されて困るような事ばっかりしてるアショーカも問題だよね」

 ヒジムが呆れる。


「……」


 ソグドはしばし考え込んだ後、ふところから銀貨を出して一つ一つ樹皮紙で包み始めた。


「何をやってるのだ?」

 アショーカが怪訝な顔で尋ねる。

「いえ、脱出にはやはり商人らしく賄賂わいろが有効かと思いまして……」


 結局、アショーカ以外の全員一致で月王の城を脱出して、五人だけでトルファンに向かおうという話にまとまった。


「じゃあ、まず僕が寝静まった頃部屋を出て、騎士団への指示とトルファンまでの行程に必要な物資の調達をしてくるね」

 ヒジムが軽く請け負った。


 子供一人の見張り以外、衛兵の姿すら見えない。

 ヒジムなら楽勝だ。

 そう思っていた。


 しかし夜半に部屋を出たヒジムは、早々に黒服の男に捕まって部屋に戻された。


「何やってんだ、ヒジム。お前らしくもない」

 怒りよりも驚いた。


 隠密おんみつで失敗するヒジムなど、このところ見た事がない。


「そ、それが、分かんないんだよ。誰もいないと確認したはずなのに、突然どこからともなく黒服の男が大勢現れて、あっという間に掴まったんだよ」


 運が悪かったのかと、今度はアッサカが部屋を抜け出た。

 しかしアッサカも呆気あっけなく掴まって戻ってきた。

 そしてやはり同じように突然黒服の男が大勢現れたと言う。


 イスラーフィルがやってみても同じだった。

 夜の内にもう一回ずつ脱出を試みたが、結果はすべて同じだった。


「なんなんだ一体? どこかに隠密が潜んでいるのか?」

「そんなはずないんだけどなあ。人の気配なんて無かったはずなんだけど」


 ヒジムもアッサカも人の気配に敏感なはずだ。


「あるのは、あのカイって子供の気配だけのはずなんだけど……」


 カイは部屋の外で正座をしたまま結構な確率で眠りこけていた。

 楽勝のはずなのに、数歩進んだだけで待ち構えていたように黒服の男が現れる。


「まずいなあ……。このままじゃ月王のシナリオ通りに動く事になるよ」

 夜も明け始めた頃、身動きのとれない状況に本気でやばいと気付き始めた。


「くっそ、そもそも俺は月王ってやつが最初から気に食わなかったんだ。だいたい、人と話をするのに御簾みすの向こう側から顔も見せないってどういう了見だ。深窓の姫君か!」

 アショーカは腕を組んで憤慨する。


「案外正解かもよ? 声も高かったしね。もしかして女なんじゃない?」


「女王にあの屈強な騎馬民達が服従するでしょうか?」

 イスラーフィルが首を傾げる。


月氏げっしは精霊の一族とも言われております。月王も謎だらけのお方。何か人の理解を超えた力で支配しているならば、ありえる話かもしれません」

 ソグドは幾分、聞き知っている。


「あーくそっ! コソコソ動き回るのが面倒になってきたぞ! こうなったら俺が直接、月王とやらの所へ乗り込んで、その顔をおがんできてやる!」

 アショーカはすくっと立ち上がってダンっと部屋の引き戸を叩き開けた。


「ち、ちょっと短気はやめてよね。これ以上状況が悪くなったらどうすんだよ」

 ヒジムが止めるのも聞かず、アショーカはズンズンと廊下を進む。


 すぐに部屋の外に控えていたカイが、アショーカの前に進み出た。


「どちらへ行かれますか? 必要な物があれば私がご用意致します」

「では月王と話がしたい。ここに連れて参れ」


「そ、それは……」

 カイは驚く。

「で、出来ません。会うなら謁見えっけんの間に……」


「はっ! また御簾みすごしか? 俺は目を見て話をしたいんだ。顔も見てないやつの何を信用出来る? 協力するって言うなら、ちゃんと顔を見せやがれ!」


「……」


 蒼白になるカイの瞳がふいにぽうっと赤く色付いた。


「?」


 アショーカは見間違いかと瞳の奥を凝視する。

 その目の赤と焦点が合った。


 ふ……と幼い顔が意味ありげに微笑む。


「月王様は滅多に姿を見せぬお方。会うならそれなりの覚悟がいりますが……」

 さっきまでのオドオドした態度が一変して、妙な威圧感がある。


「覚悟? ふん、いいだろう。主君の人見知りを治してやるぞ」

 キラリと瞳の奥で禍々しい赤が光を放つ。


「ふふ。いいでしょう。では私が月王様の所へご案内致しましょう」

 アショーカは部屋の中のヒジムにそっと目配せして、カイと共に廊下の奥に消えていった。




次話タイトルは「烏孫との暮らし」です

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