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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
193/222

11、アショーカと月王


 アショーカは、草の香りが漂う床にどっかりと胡坐あぐらをかいていた。


 入り口で防寒用の長靴を脱がされたから裸足だった。


 板張りの廊下から部屋の中に入ると、草を編んだ弾力のある敷物が部屋全体に隙間なく敷き詰められていた。暖かくて足触りがいい。


 木を編んだような建物の装飾も、横に引く扉の形式も珍しい物ばかりだ。


 城の主人である月王つきおうが座る上座かみざには、ヒンドゥでは後宮に多く用いられる紗幕のような、草編みの薄い幕が垂れ下がっている。

 御簾みすと呼ばれるものだと、そばのチャン氏が教えてくれた。


 アショーカの周りには、ヒジムとイスラーフィル、そしてアッサカとソグドだけが城に入る事を許され、座している。


 左右の壁際にはゲルにいた時のように月氏げっし一族が鷹を肩に居並んでいた。


 そして、その手前には傘下の部族代表らしい、大男達が様々な風体ふうていで座っていた。


 タキシラの傘下にも遊牧民は大勢いるが、まあ似たり寄ったりの外観だ。

 ただ、その数の多さに驚く。

 一人ずつ側近を連れているようだが、それでも多い。


 一つの部族に数万の民がいるとしたら、百万の民というのも大げさではないようだ。


 月王が来るのを待たされて、もう一刻ばかりそうやって過ごしていた。


 部屋に入った時は、シンと緊張していた部族民達も、少しだれて、口々にヒンドゥから来た珍しい男についてヒソヒソと噂し合っている。



「だれだ? 恐ろしい大男だとか言ったのは? まだ子供じゃねえか」

「背は高いが、俺達から見れば華奢きゃしゃな女みたいなもんだ。あれで剣を使えるのか?」

「女が好みそうな甘ったるい顔だしな。あれは、おいらが一睨ひとにらみしたら泣き出すぜ」


 クスクスと笑いが洩れる。

 地獄耳のアショーカには全部聞こえている。

 側近達は好き放題に言われるアショーカに笑いをこらえていた。


「おいら、あの横にいる、暴れ獅子のようなでかい男が王子かと思ったぜ」

「それより後ろの恐ろしい顔の男だろう? ありゃあ百人は人を殺した顔だぜ」

「強欲そうな商人を連れてやがる。口実をつけて商売で儲けるつもりか?」

「女の従者もいるのか? すげえ美人だな。側女そばめを連れ歩いてるのか?」

「大国の王子はちゃらちゃらしてやがる。くそーっ、いい女連れやがって」

「おいらも相手してもらいたいもんだぜ」


 ヒジムが不機嫌そうにふんっと鼻をならす。

 同じように陰口を叩かれる側近にアショーカがほくそ笑んでいた。

 いつもの事とはいえ、アショーカの遊び女に間違われるのはヒジムが一番嫌がる事だった。


「アショーカがスケベったらしい顔してるから、いつも間違われるんだよ」

「な! なんで俺が責められるんだ」

 アショーカは理不尽な側近の矛先ほこさきに不平を言う。


「暴れ獅子とは初めて言われました。タキシラに戻ったら髪を切ります」

 イスラーフィルの、伸ばし放題に伸びた髪が、暴れ獅子に見えるらしい。

 暴れとついたのが、少し傷ついたようだ。


「強欲そうなとは、心外な。私は律儀で公正な商売人です」

 ソグドも憤慨ふんがいする。


「私は百人も人を殺していません……」


 最後に恐ろしい形相でつぶやくアッサカに、四人と、チャン氏までが思わず吹き出した。


 ザワザワと雑談に興じていると、にわかに上座に人の気配がして、場が一斉に静まり返った。


 屈強な男達の青ざめた緊張感に、月王の権力の大きさが伝わってくる。

 こちら側からはうっすら黒い人影しか見えない。

 衣装を引きずるような音から、仰々しいマントのような物を羽織っているらしい。


 大勢の従者が中で行き交う音がした後、一瞬にして、そのほとんどの気配が消えた。


(外に出たのか? それにしては一瞬だったような……)

 アショーカは首を傾げる。


「お待たせしたな、アショーカ殿」

 御簾みすの中から声が響いた。


(女? いや、まさかな……。若いのか……)


 成人の男にしては声が高い。


「いいえ、月王殿。突然の要請にも関わらず、受け入れて頂き、感謝致します」


 へりくだる事もなく物怖ものおじのしないアショーカの大声に、部族民達が少し驚く。


「だいたいの事情はチャン氏から聞いている。ミスラの姫の居場所をお探しとか?」

「ええ。この辺りの地理には不案内ゆえ、分かる情報があれば教えて頂きたい。居場所だけ分かれば、後は我々で救出するゆえ、月王殿の手をわずらわせる気はありません」


「ご自分で奪還されると?」

 部族民達からクスクスと笑いがれる。


「大国の王子は若いゆえ、考えが甘いようでございますな」

「わずか百ばかりの兵で遊牧の騎馬兵に勝てると?」

「あっという間に全滅でございましょうな」


 嘲笑ちょうしょうがあちこちで聞こえる。

 アショーカはむっとして周りを睨み回す。


「みな、静かにせよ! 我が民が失礼を申しました」

 月王は軽く詫びる。


「されど、彼らの言う事も正しい。あなたは相手がどれほどの勢力か知らぬようだ」

「相手? ミトラの居場所が分かっているのですか?」


「今現在、トルファンにいます」

 月王は断言するように答えた。


「トルファン? それは確実な情報なのか?」

 アショーカは身を乗り出す。


「確実だ。そなた達で言うところの間者かんじゃにあたる者が確認している」


「ならば……」


 今すぐ出発する。

 こんな所で時間を無駄にしている暇はない。


「まあ、待たれよアショーカ殿。相手の勢力も分からずに立ち向かうとは無謀が過ぎるのではないですか? それでは命が幾つあっても足りぬでしょう」


 クスクスと部族民達が小ばかにしたように笑う。


「戦を仕掛けに来た訳ではない。ミトラを取り返すだけだ。秘かに潜入して救出する」

 最悪の場合は、もちろん戦になる事も覚悟はしているが……。


「不利ですね。あなた方は南方のヒンドゥでの戦いには慣れているが、この北の極寒の大地では翼をもがれた鳥のようなものだ。潜入の前に全員凍死しますよ」


 断言されると、妙に説得力がある。

 それ以外の運命などないような気がする。


「それに……トルファンの烏孫だけであれば容易であったかもしれないが、中央が動き始めた」

「中央?」


匈奴きょうどの中央です。二十万の兵を持つ巨大部族の中心勢力です」

「二十万?」


 それは部族民も初耳だったらしく、部屋中にどよめきが起こった。


「ま、まさか月王様、匈奴が我らを攻めて来るのですか?」


「目的はミスラの姫です」


 月王の言葉に、アショーカは青ざめる。


「まさか……。なぜ匈奴がミトラを?」

 烏孫一人の独断ではないのか?


「匈奴の弥勒みろく伝説はご存知か? 彼らは天と自然と、そして女神を信仰している」

「その女神がミトラだと……?」


 なぜそうなる?

 この辺境にミスラ神の信仰が広まってるとは考えられない。


「烏孫は女神と契約を結びましたね?」


 分かった事のように問いかける月王に、アショーカは警戒を浮かべる。

 烏孫のマギの話はチャン氏にも伝えていない。

 一体どこまで知っているのか。


「現在の単于ぜんう、匈奴の王もまた、先々代の女神と契約を結んでいる」


 はっと、アショーカ達は顔を見合わせた。


 まさか……。


「契約は次代の女神に受け継がれる。生きている限り、継がれ続ける。それは、そこにいるあなたの側近が一番ご存知でしょう?」


 イスラーフィルは御簾の中から鋭い視線を感じて、冷や汗を流す。


(何者だ、この男? なぜそんな事を知っている?)


 観念したように、アショーカは浮かせた腰を、もう一度床に下ろした。


「あなたの目的は何だ? 何を企んでいる?」

 ただの親切心で協力する訳ではないのはハッキリしている。


「そう警戒されるな、アショーカ殿。私の目的もまた、女神の奪還。匈奴に女神を渡すわけにはいかない。私は今はあなたの敵ではない」


「今は……」


 いずれは敵になるという事か。


「最強の女神奪還部隊を出しましょう。イフリート、前へ」


 その名を聞いて、部族民達が驚いたようにどよめいた。

 壁際に立つ黒服の右最前列の男が、すっと前に出た。


 その瞳がぽうっと赤い光を帯びた気がした。

 途端に影のようだった存在感がみるみる大きくなり、他の似通った黒服の男達とは全然違う、突出した存在に変わる。


「アショーカ王子と協力し、女神を奪還せよ」


 月王に命じられ、イフリートと呼ばれた男は膝を着き、拝礼する。


「かしこまりました。必ずや奪還致します」


「チャン氏、大宛だいえん、クシャンの三部族はイフリートの指示に従い、ミスラの姫を無傷で私の元に連れて来るのだ」



次話タイトルは「月王のたくらみ」です

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