9、烏孫の後悔
烏孫は自分専用の移動式ゲルで旅の疲れを癒すようにぐっすり眠っていた。
烏孫に寄り添うように、ユキヒョウのゾドが毛足の長い暖かな背中を預けている。
しかし、入り口に人の気配を感じて、ピクリと耳を立て、のそりと起き上がった。
気付いた烏孫が脇の剣を引き寄せ、入り口に向かって叫んだ。
「誰だ!」
「お休みのところすみません。神威です」
すぐに幼い声が答える。
「神威? どうした?」
烏孫は上着を羽織り、ゲルの幕を上げる。
「少し気になる事がありまして……」
神威は授かったばかりの成人男子の服に着替えていた。
「気になる事?」
「さきほど女性の悲鳴が聞こえたのですが……」
「女の? 恋人と睦まじ合ってるのではないのか?」
今はひっそりと静まり返っている。
「ミトラの声に……思えたのですが……」
神威は不安気に顔を上げる。
「ミトラの?」
烏孫はさっと顔色を変えた。
「まさか……。しばらくは誰も手出しするなと言ったはずだが……」
「私の気のせいであれば別にいいのですが……万が一と思いまして……」
聞くなり、烏孫はゾドと共にゲルの外に駆け出していた。
神威が驚いて追いかける。
ほどなく女達のゲルに辿り着き、躊躇なく中に飛び込む。
突然の男の乱入に、眠っていた女達が一斉に悲鳴を上げた。
ここは男子禁制だ。
しかし烏孫は構うこともせずに、「ミトラ!!」と叫んだ。
薄闇に目をこらすが、ミトラの姿は見当たらない。
ジワリと冷や汗がたれる。
「何事?」
眠い目をこすりながら起き上がる杏奈が目に入った。
「杏奈! ミトラはどこだ?」
杏奈は一瞬、事態が呑み込めなかった。
「烏孫様、こんな時間に女のゲルに乱入して、何の騒ぎですか?」
「ミトラはどこにいる? お前が世話係だろう?」
そこでようやく杏奈は先程の出来事を思い出した。
あれからすぐ眠りについて、どれほどの時間が経ったのか分からないが、半刻は過ぎたはずだ。
「さ、さあ……。隣で眠ってたはずだけど、夜風にでもあたりにいったのかしら?」
いまさらどうしようと、すべては手遅れだ。
しらを切るしかない。
「お前は世話係のくせに何故もっと注意して見てなかったんだ!」
珍しく女に声を荒げる烏孫に、ゲルの女達は動揺を浮かべる。
「そ、そんなこと……私に言われても……寝てる間まで責任持てません」
杏奈は俯いた。
「じ、自分で出ていったんじゃ仕方ないわよね?」
「だ、誰か気になる男でもいたんじゃないかしら?」
女達が杏奈を援護する。
「ミトラがそんな事するか!」
烏孫が断言するほど信じているのが悔しい。
「そ、そういえば熊切の声が聞こえたわ」
女達は自分達の正当性を探す。
「案外好みだったのかも……」
そうだそうだと肯定する。
「昨夕もさほど嫌がってる風でもなかったし……」
口々に嘘を並べ立てる。
「熊切だと……?」
烏孫はその名を聞くなり、再びゲルを飛び出した。
ゲルの外で待っていた神威とゾドは、慌てて後を追いかける。
「熊切の野郎……。もしもミトラに何かしてたら……」
烏孫は脇の剣を握りしめる。
許さない!!
切り捨ててやる!
想像を絶する怒りで身が焦げつく。
こんな激しい怒りは久しぶりだ。
熊切は去年、他の部族から離脱して自分のゲルと家畜を持って一人でやってきた男だ。
下卑で粗暴な男だが、自分の食い扶持は持参し、力仕事には使える男だったから自由にさせていた。
悪事を働くほどの知恵もないと高をくくっていた。
「こんな事になるなら……」
あの時厳しい処罰を下すべきだった。
熊切は今までにも幾度となく、女を無理矢理自分のゲルに連れ込み問題を起こしていた。
他の男の妻にまで手を出した事もある。
好色に見境が無かった。
いや、それよりも、何故ミトラを自分のそばから離したのか……。
本当はとっくの昔に決めていた。
ミトラを妻にして、もう少し暖かくなったら、中央に出向いて単于に紹介するつもりだった。
表面は否定していても、本当はミトラを奴隷商人から助け出した時から……、いや、もっと前、きっとウッジャインで初めて会った時から決めていたのだ。
そう気付く。
それなのに自分の妻になる事を少しも喜ばないミトラに……いまだにアショーカ王子に想いを馳せるミトラに……腹が立って、わざと民の中に放り込んだ。
女達のゲルなら安全だろうと自分のそばから離した。
少し辛い目にあって、自分の妻になる事がどれほど幸せな事か思い知らせてやりたかった。
「そばから離すべきじゃなかった……」
後悔してもしきれない。
あのアショーカ王子が、スシーマ王子が、どれほど厳重な警備と警戒をしても、命の危険に晒され続けてきた女だ。
この辺境の大地では、片時も離すべきではなかった。
集落の一番端に建てた熊切のゲルに、ようやく息をきらして辿り着いた。
ゲルはひっそりと静まり返っている。
嫌な予感に背筋が凍る。
ゆっくりとゲルの入り口の幕を掴んでから、動きを止める。
「……っ、はっ……烏孫様?」
やっと追いついた神威が、息を整え烏孫を見上げた。
どんな修羅場があるのかと身が縮む。
裸で泣きそぼる姿か?
それとも茫然自失で、されるがままになっている姿か?
あの汚らわしい男が何をしたのか……。
知るのが怖い。
「か、神威……先に入ってくれ……」
狼も戦も怖くないのに、今はひどく勇気がない。
「は、はい」
神威は命じられるままに、素直に幕を上げて中に入った。
そして……。
「あ!」
神威は驚いたような声を上げたまま立ち止まった。
次話タイトルは「信じられない結末」です




