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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
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8、成人の儀式


 成人の儀式といっても、ヒンドゥの太守たいしゅ就任式のような大仰なものではなく、みんなで焚き火を囲み、祝いの兎の鍋を食べ、馬頭琴ばとうきんの演奏にのせてボーと呼ばれるシャーマンが吟じる聖句の中で、烏孫うそん神威かむいに成人男子の服と剣と弓矢を授ける簡単なものだった。


 しかし総勢百人を超える村人全員に祝福を受ける様は、なかなかにおごそかで、小規模だからこその神聖さが心を打つ。


 儀式の後には、ミトラも新入りとして村人に紹介された。

 いつも巫女として隔絶した環境にいたミトラには、新鮮で温かな集いだった。


 一人一人に挨拶をして廻ったミトラは、交わした会話で村の全容がだいたい分かってきた。


 まず、烏孫を呼び捨てにして友人のように接する翔靡しょうび蘭靡らんびは、狛爺こまじいの孫で兄弟らしい。


 そして狛爺の息子、翔靡と蘭靡の父親というのは、匈奴きょうど単于ぜんうの重臣、右賢王うけんおうの位にあり、領土の西側を治めている。


 東側は左賢王さけんおうである単于の息子、つまりは烏孫の父親が治めている事を考えれば、その家柄の高さがよく分かる。


 そして左賢王の下には左都尉さとい王の位に烏孫の兄、烏順うじゅんがいて父を補佐をしている。


 烏孫は右都尉王の地位を持ち、匈奴の西方の領土を広げる命で、ここに村を作っていた。


 実際、このトルファンは去年まで大月氏だいげっしという国の傘下にある大宛だいえんという部族のものだったらしい。

 そこに烏孫が村を率いて陣取り、大月氏の支配を逃れた少数部族が合流して今になる。


 家畜が多く、豊かな烏孫の村は傘下に入るものが後を絶たず、日々成長していた。


 村人達は身分の差別がなく、あるのは男達の騎馬能力に応じた素朴な武力階級のみだ。

 唯一、匈奴の中央から派遣されている烏孫と翔靡、蘭靡、それに狛爺、それからシャーマンのボーだけが場違いなほど高い地位を持っていた。


 村人達は中央から来た彼らにだけ敬称をつけて呼び、拝礼した。

 そうして女達が、なぜこうも烏孫の妻選びにうるさいのか分かってきた。


 年頃の女達はみんな、あわよくば中央の男の妻になって、玉の輿に乗る事を夢見、男達は男達で武勇を認められ烏孫の側近になる事に憧れていたのだ。




 儀式が終わりゲルに帰ると、出かける前とは女達の態度が一変していた。


 どんなに色仕掛けをしても妻にするとは誰にも言わなかった烏孫が、どんな理由にせよ妻にすると言った事に年頃の女達はみなショックを受けていた。


 小さくて貧乳であろうとも最大の敵なのだ。


 草原の女達は良くも悪くも裏表がない。

 敵と思ったら明らかに冷たい。


 中でも世話係りのはずの杏奈が誰より容赦なかった。


「ちょっと、ここからはみ出さないでくれる? 私の場所なんだから」

「す、すまない」


 しかしミトラは驚かなかった。

 同性に嫌われるのはいつもの事だ。


 ただ大好きだった人達を思い出してしまう。


(ナルマダ……)


 唯一友人として受け入れてくれた女性。


(ソル……)


 友のように思っていた信頼出来る侍女。

 ウッジャインで大変な怪我をしたが無事タキシラに帰っただろうか?


(ミカエル様。デビ殿、カールヴァキー殿)


 温かい人達だった。


 カールヴァキーの髪の束は、まだ秘かにふところに持っている。

 いつか返せるだろうか。

 そしてなにより……。



(アショーカ……)



 乱暴で声が大きくて、怒ってばかりで……それなのにその腕は温かく、抱きしめられると不思議なほど安心出来た。

 敵地の中の安全地帯のように心がゆるんだ。


 決して優しい言葉をかける男ではなかったが、最後も冷たく拒絶されたというのに、なぜか月日がたつほどに、あの腕の中にいる時だけが陽だまりのような時間だったと思える。


 突然消えたミトラを少しは心配してくれただろうか?

 それとも面倒な女がいなくなったとせいせいしているのだろうか。


 そんな気もする。


 いや、人情に厚い男だから自分を責めているかもしれない。

 そうしてきっと、いなくなったミトラの代わりにシェイハンの民を守ってくれると信じたい。


 もうアショーカのもとに、シェイハンの民の元に戻る事は二度とない。

 ここはヒンドゥからあまりに遠く、ミトラ一人で戻れる距離ではない。

 そしてヒンドゥの王子であるアショーカにも、あまりに遠い辺境の異国。


 なんの価値もないミトラのために王子が出向くような場所ではなかった。


 少しも癒えない心の痛みを鎮めるように眠りにつこうとするが、眠れない。


 そして、ふと、ゲルの女達が次々ひっそりとゲルを出て行くのに気付いた。

 気付くと半数ぐらいしか残っていない。

 残っている女はほとんど壁際の年配の女達だ。


「杏奈、みんなこんな夜中にどこに行くのだ?」

 隣りの杏奈に尋ねたが、答えはない。


「何か夜の集いでもあるのか?」


 やっぱり返事は無い。

 無視するつもりらしい。


 ミトラは確かめるようにそっと立ち上がり、ゲルの外に出てみた。

 そしてすぐに分かった。


 二・三組の男女がヒソヒソと語らい合っている。

 恋の語らいというやつだ。


 ゲルの外は、まだ凍てつくような寒さだというのに、熱い目をしてどこかに消えていく。


「そ、そういう事か……」

 鈍感なミトラにもなんとなく分かった。


 納得してゲルに戻ろうとしたミトラは、ふいに腕を掴まれ背後に振り返った。


「?」


「ゲヘヘ、なんだよ、おいらを待ってたのか?」


 熊切だった。

 夜闇の中では化け物のように巨大に見える。


「さっきは邪魔が入ったが、そういう事なら烏孫様も許してくれるな、ケヘヘ」

「な、なんの事だ。は、放せ! そなたを待ってた訳ではない!」


 振り払おうとしても、ミトラの力では本気の抵抗とも思えないらしい。


「恥ずかしがらなくてもいい。さあ、おいらのゲルに連れて行ってやる」

「け、結構だ! 私は寝るんだ。放してくれ!」


「寝るならおいらのゲルの方がずっと広くて暖かいぞ。さあ、来い!」

「放して!! 杏奈!! 杏奈! 助けて! 誰か!!!」


 大声で叫んでも誰も出て来なかった。

 みんな寝たフリを決め込むつもりらしい。


 まさか、そんな……。


「助けて!! 誰かああああ!!」




 

 しばらくして、ミトラの声が遠くに遠ざかった頃、残っていた女達はそっとゲルの入り口の幕を上げ、連れ去られた事を確認して気まずい顔を見合わせた。


「バカな子。自分からゲルを出るからよ。自業自得ね」

「初めての相手が熊切だったら気の毒ね」

「私達の知った事じゃないわ。烏孫様に特別扱いされて調子に乗ってるからよ」

「私達は悪くないわ。みんな寝ていて気付かなかったのよ」

「そうよ。いいわね? 明日問い詰められても寝ていた事にするのよ」


 北の大地の夜は、女たちの悪意にドス黒く染められて……。


 更けていった。



次話タイトルは「烏孫の後悔」です

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