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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
19/222

19、最高顧問官 ラーダグプタ

 

 その頃、ビンドゥサーラ王の宮殿では王と五人の最高顧問官とスシーマ王子が御前会議を開いていた。

 七日に一度開かれるこの会議はマガダの最高権力者達の集いだった。


 ここで決定された事は絶対で、誰も逆らう事は許されなかった。


 最高顧問官は先の十六大国時代の有力国コーサラ王、アヴァンティ王、ヴァッサ王が代々務め、あと二人は王の指名によって決まっていた。


 ラーダグプタは、今回その一席を得た事になる。


「ラーダグプタよ、西方の地はいかなものであったか。

 タキシラの地に不穏な動きありと密偵からの知らせが入っておるが、そなたの意見を述べよ」

 ビンドゥサーラ王は会議の間で、玉座から臣下を見下ろした。

 玉座を取り囲むように数段低くなった椅子に、五人の顧問官が並ぶ。

 一番左端に座っていたラーダグプタが立ち上がって答える。


「はい、ラージャン。

 タキシラの太守であられるラージャンの弟君ゴドラ様は強引にバラモン教を広めようとなさり、民の反感をかっているようでございます。

 あの地は仏教徒が多く、事を急ぎすぎては危険かとお見受け致しました。

 また、貴族の娘に次々お手を付け、抗議した親族を切り捨てられたなど、悪しき風聞が広まっております」


「うーむむ、ゴドラか。

 あの愚か者に太守など無理であったか」


「さらには、勝手に租税を上乗せし、自らの財としているようにございます。

 民は重税にあえぎ、山賊になるものが後を絶たないとの報告。

 治安が乱れ、商人達のキャラバンがことごとく襲われ、西方からの物資の供給が滞って参りました」


 ラーダグプタは淡々と事実を告げる。


「同母の弟と思うて甘やかせ過ぎたな。

 そろそろ潮時か。

 されど西方の物資が滞っているようには見えぬが……」

 ビンドゥサーラは髭を撫でようとして慌てて手を止めた。

 この会議には、さすがに白粉をはたく女を入れるわけにいかないのだ。


「わが娘も先日エジプト仕様の見事な髪飾りを手に入れておりましたぞ」

 答えたのはスシーマに執心なユリの父親コーサラ王だった。


「わが婿殿、アショーカ様でございますよ。

 アショーカ様は非常に商才に長けた方ゆえ、お抱えのキャラバンを多くお持ちです。

 アショーカ様のおかげで物資が流れているのでございます。

 優れた王子でございますな」

 得意満面に口を挟んだのはティシヤラクシタの父、ヴァッサ王だった。


 王の不興を買い続ける婿を、少しでも見直してもらおうという思いからではあったが、ラーダグプタは心の中でチッと舌打ちをした。


「アショーカ……。

 あのバカ者は王子でありながら平民のように商売に手を出しておるのか。

 外見の卑しさは行動にも映されるのだな。

 呆れ果てた奴だ」

 一気にビンドゥサーラの機嫌が悪くなる。

 ヴァッサ王は思いがけない方向に話が向かって慌てた。


「商才だけではありません。

 衛兵の育成にも熱心で非常に優秀なシュードラの兵士部隊を作っています。

 戦になれば必ずやラージャンのお役に立つと……」

 ラーダグプタは心の中で

「黙れ!」

 と叫んだ。

 血筋だけの無能な男だ。


「なんと、王の断りもなく親衛隊を組織しておるのか?

 これはゆゆしき事でございますぞラージャン。

 もしや謀反の企みがないとも限りませぬ」

 コーサラ王はこれ見よがしに大仰に驚いて見せた。


 スシーマ派のコーサラ王には、アショーカは目障り極まりない王子だった。


「これ以上力をつける前に叩いておいた方がよろしいのでは……」

 もう一人、王の指名で地位を得た、スシーマ派のパンチャーラが畳み掛けた。


「うむ。

 謀反のかどで牢屋に入れるか」

 ビンドゥサーラ王が考え込む。


「お、お待ち下さい!

 王子は決して謀反など考えておりません。

 すべてはラージャンの御為、母上のミカエル様が嘆くような事は致しません」

 ヴァッサ王が汗だくになって否定する。

 自分の言葉でとんでもない事になってしまった。


(知恵浅き男よ)

 ラーダグプタはため息をついた。


 しかし、それに真っ先に異議を唱えたのはスシーマだった。


「牢屋は賛成出来かねますね、父上。

 ヴァイシャ、シュードラに人気の高いアショーカを捕らえれば大きな反乱のうねりを作りましょうぞ」

「ほう、スシーマ。

 そなたならどうするが得策と思うか」

 ビンドゥサーラは二十歳になってからこの最高会議にスシーマを伴うようになり、その聡明さに驚いた。

 容姿の美しさだけでなく思慮深く賢い王子が自慢だった。


 貴族ボケした他の顧問官より、よほど頭の切れる王子に、いつも最後の意見を求めた。

「折角訓練された兵がいるのです。

 王のために組織したと言うなら証明させればいいのです」


「……というと?」

 スシーマが何を言いたいのか分かったのはラーダグプタだけだった。


「タキシラの反乱。

 これをアショーカの私兵にて治めさせれば良いのです。

 それで安定すれば良し、もし逆に全滅してもアショーカを慕う民達も仕方がないと諦めましょうぞ」


 眉一つ動かさず、柔らかな物腰で言い捨てるスシーマをラーダグプタはそっと見つめた。

(思いのほか賢い王子だ。

 この王子が天を獲るか……)


「さすがは我が息子じゃ。

 それは良き策じゃぞ。

 アショーカが討ち死にすれば、スシーマ、そなたがタキシラの鎮圧に向かうがいい。

 十万の兵を与えるぞ。

 そなたがアショーカに代わって反乱を治めれば、誰一人そなたの後継に異を唱える者もいなくなるだろう」 

 ビンドゥサーラ王は、ほくそ笑んだ。


「私は戦は好みませぬ。

 スーリアの神は殺生を禁じています」

 恐ろしい策を講じたかと思うと、サラリとこんな事を言う。


(食えぬ王子だ)

 ラーダグプタは、半ば感心して成り行きを見守った。


「そなたは高潔なるブラフマンゆえ、そこが国を治める者として弱点じゃのう。

 王が戦をせぬ訳にはいくまい。

 後ろで指揮するだけで良いから行かねばならぬぞ」

 王の溺愛ぶりが覗える。


「それが父上のお望みであるなら天の言葉と受け止めましょう」

 スシーマは恭しく手を組んで服従の礼をとった。

 すべて計算ずくなのか、話はスシーマに有利に進んでいく。




「良き結論が出た所でスシーマ様。

 我が娘との婚姻を如何にお考えか?

 今日こそは是非ともお聞かせ願いたい」

 コーサラ王がここぞとばかりに尋ねた。


「そうじゃ。

 そなたシェイハンの巫女姫も早々に断ったそうではないか」

「ほう、断られましたか。

 あの月神のような容姿の姫にも心奪われませんでしたか」

 コーサラ王はほっとしたように破顔した。


「珍しい容姿ではありましたが、あのように傲慢な女は好みませんね」

「傲慢でございますか?

 そういえばラージャンに拝謁した折も左様でございましたな」


「ミカエルもそうじゃが西方の女は気位が高くて疲れるのう。

 じゃが、国を治めるに西方の女を一人囲っておくのは必要な事だぞ。

 なに、側室の一人でいいのじゃ。

 気に入らなければ名ばかりの妃でも役に立つ時もあろうぞ」


 コーサラはしまったと思った。

 我が娘を勧めるつもりが余計な方に話が進もうとしている。

 あわてて話の方向を変える。


「ラージャン、ここは大規模な鹿狩りを催されてはいかがでしょう。

 出発地点となる麓の川辺には目ぼしい姫達を集め、踊り子や旅芸人などに盛り上げさせましょう。

 狩で高ぶったお心で美しき姫を見ますれば、スシーマ王子も心揺れるかもしれませぬ」


 スシーマは迷惑そうに顔を歪めたが、それぞれに年頃の娘のいるパンチャーラとアヴァンティも大喜びで賛成した。


 一人娘をアショーカに嫁がせたヴァッサ王だけが苦々しく見守る。

(わが娘をアショーカ王子に嫁がせたは早まったか。

 スシーマ王子こそが次の王であったというに。

 ティシヤラクシタめ。

 つまらぬ男に嫁いだものよ)



       ※       ※



 夕暮れの西宮殿にミカエルを尋ねて一人の男が木柵の陰に密やかに立っていた。


「ここは男子禁制ですよ、ラーダグプタ」

 柵ごしに背を向けたままミカエルが窘めた。


「三年ぶりに会ったというのに相変わらずつれない方ですね」

 ラーダグプタは微笑んだ。


「また一つ罪を重ねてきましたね。

 あの時私はこの命を懸けてもそなたを止めるべきでした」

 ミカエルはラーダグプタをというよりは自分を責めている。


「いかなミカエル様といえども私を止める事は出来ませんよ。

 私には亡き父上と目指した揺ぎなき大義があります」

 銀髪の宦官だったはずの男は、精悍な黒髪の男に変貌していた。


「大義のために悪魔にもなるのですか?」

 ミカエルはため息をつく。


「それが必要な事であれば致し方のない事……」

 冷たく笑う。


「男というものは何故こうも愚かなのでしょうか。

 みな大義の前に人を騙し、殺め、戦に駆り立てられていく。

 そして……惜しげもなく命を捨てるのです」


「そうせずにはいられぬ生き物なのでしょう。

 されど人を殺したいわけではない。

 私はこたび、戦をせずに天を獲るための切り札を見つけて参りました」


「アサンディーミトラ殿ですね。

 まだ小さな少女ではありませんか」

「されどあの者の瞳には神に選ばれし者の輝きがある」

「何をするつもりですか?

 あの穢れなき少女に」

 ミカエルは不安げに振り返る。


「何も。

 ただ、かの姫が選ぶ男を見定めるのみ。

 その者が天を獲る覇者となり、私はその者に生涯の忠誠を誓うでしょう」


「アショーカをと考えているのですか?」

 ミカエルは慎重に尋ねた。


「最初はそう思っていました。

 まさかすでに三人の妻子をお持ちとは思わなかったので」

 ラーダグプタは苦笑いをした。

 シェイハンで密偵として過ごしている間に、三人もの妻を娶っていた。


「あれは良くも悪くも頂点に立つ男でしょう。

 大国の覇者となるのか、大虐殺の悪魔となるか。

 私にもわかりません」


「ビンドゥサーラ王との仲はますます険悪のようですね」

 ラーダグプタは苦笑してから続ける。

「逆にスシーマ王子。

 以前は敬虔なバラモン教徒としか思っていませんでしたが、なかなかに面白き男に成りましたね。

 侮れぬ男です」


「ミトラ殿が選んだ方が天を獲るというのですね。

 ふふふ。

 アショーカに勝ち目があるのかしら。

 国中の姫達が迷わずスシーマ殿を選ぶでしょう」


「スシーマ王子を選んだらどうしますか?」

 ラーダグプタはこれを聞くために来た。


 ミカエルは少し考えた後、穏やかに答えた。

「それが神の下した答えであるのなら受け止めましょう。

 もとより私は母としてどのような行く末も見守るつもりでいました」


「それを聞いて安心致しました」

 ラーダグプタは静かに礼をして柵を離れる。


「ラーダグプタ殿!」


 ふいにミカエルはその背中に問いかけた。


「シェイハンの神殿に火をかけたのは、本当にそなたなのですか?」

 ラーダグプタは背を向けたまま立ち止まった。


「今更何をお尋ねですか?

 私以外に誰が火をかけるというのですか?」

 そう答えるラーダグプタがひどく寂しげに見えた。


「そなた、もしやシェイハンの聖大師殿を本当に愛していたのでは……」


 ふ……と、ラーダグプタが笑った。


「愛していたらどうだというのですか?

 愛などという愚かなものの為に亡き父と夢見た大義を捨てると?

 この私が?」

 ばかばかしいと肩をすくめる。


「私はシリア王、セレウコスの娘です。

 そして母は当時の大帝国ペルシャ貴族の娘アパメ。

 アレクサンドロス大王のヒンドゥ遠征に随行した父達は、ちょうどシェイハンの辺りで戦意を失い引き返しています。

 そしてみな一様に、ペルシャの翠目の女を探し回り妻に迎えている」


 ラーダグプタの瞳が微かに動揺する。


「わが父とマガダのチャンドラグプタ王との戦いもちょうどシェイハンの辺りで突如和解しています。

 これは偶然でしょうか?」


「何を……おっしゃりたいのですか?」

 ラーダグプタは蒼白な顔でうつむく。


「チャンドラグプタ殿は当初、母と同じ翠の瞳の私を妻にするつもりで和解に応じました。

 圧倒的に優位な軍事力があればシリアの奥深くまで侵略出来たはずなのに、この私と、シリアの四州の獲得と引き換えに、戦象を五百頭差し出し、和解しました。

 世間では四州獲得が目的であったと思われているようですが、私にはこの私を手に入れる事こそが目的であったように思えるのです」


「されど……チャンドラグプタ王はミカエル様を結局息子のビンドゥサーラ王に娶らせたではありませんか」


「最初は自分の妻にするつもりだったのです。

 でも王は私を女神のように崇め、手を触れる事も出来なかった。

 王の腹心の宰相であるカウティリア殿の息子のあなたならご存知でしょう?」


「……」

 ラーダグプタは黙り込んだ。


「過去においてシェイハンを得ようとした王達はことごとく戦意を失っている。

 そして、とり憑かれたように翠の瞳に執着している」


「呪いにでもかかったと?」

 ラーダグプタは可笑しそうに笑った。


「少なくとも聖大師殿を無理矢理手篭めにする事など出来ない」

 断ずるように言い切ったミカエルに、ラーダグプタは反論しなかった。


「もしや聖大師殿もそなたを愛していたのでは……。

 だとすれば火を放ったのは……。

 そなた、本当は聖大師殿を連れて逃げるつもりだったのでは……」


「つまらぬ詮索はおやめ下さい!」

 ミカエルの言葉を遮るようにラーダグプタが叫んだ。


 その恫喝にすべてを悟ったミカエルは、切なさに胸が痛んだ。

「そなた……。

 驚くほどの策略と権謀を持ちながら、わが心には不器用な男ですね」



「大義の前に我が欲にまみれた心など……」

 ラーダグプタは呟いて立ち去った。


(欲にまみれた?

 聖大師殿を愛していたと認めたようなものではないか。

 本当に不器用な……そして大義のために生きる愚か者よ……)

 ミカエルは涙を拭った。




次話タイトルは「アショーカとミトラ」です

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