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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
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6、トルファンでの生活②


烏孫うそん!」


 背後で腕を組んで小ばかにしたように笑っていた。


「烏孫様だ!」

「烏孫様、遊んで!」


 気付いた子供達がすぐに群がる。


 烏孫は小さな子を一人抱き上げ、軽く放り投げてから地面に下ろした。

 キャアキャアと喜んで他の子供達が次々抱っこをせがんでいる。


 その様子にアショーカと弟ティッサが重なった。

 思いがけず涙が溢れる。


「な! なんで突然泣くんだよ」

 涙に気付いて、烏孫が慌てた。


「す、すまない。烏孫はどこかアショーカに似ているから……」


 烏孫は、その言葉にまた腹が立った。

 腹立たしい事しか言わない女だ。


「はんっ! どこがだよ! 俺様の方がずっといい男だ!」


「そうだな」


 ミトラが微笑んだので、ようやく少し気分が良くなった。


「しっかしお前、なんだその恰好? 子供用の服じゃないかよ」

 烏孫は笑いを堪える。


 年頃の女達は刺繍の入った、もっとおしゃれな長衣を着ている。


「どれもブカブカで着れなかった」


 烏孫は、ははっと笑った。

 こんな所までアショーカに似ているとミトラは思った。


「どうだ? ここの生活は? ヒンドゥとは大違いで驚いただろう?」

 もう帰りたいと泣きべそをかいているかと様子を見に来たのだ。


「いや。初めての事ばかりで楽しい。こうしていれば……」

 気が紛れる。


 もっともっと忙しくして、アショーカもシェイハンも忘れてしまいたい。


 ふと視界の端に白いもこもこが見えた。


「ああっ! この動物はたしか……」

 ミトラはヤギの横の小さな柵にいる動物に目を止めた。


うさぎだ。ヒンドゥにはいなかったか?」

 十匹ほどがぴょんぴょん飛び跳ねている。


「茶色の兎はいたが、こんな白い兎は初めてだ」

 雪のように白くてフワフワしている。


「触ってもいいか?」

 ミトラは柵に近付いた。


「別にいいが……」

 烏孫の許可を得るとミトラはそっと柵の上から手を伸ばす。


「フワフワだ」

 ミトラは注意深く抱き上げ、柔らかな毛に頬をうずめる。


 迷惑そうに小首を傾げる様子が可愛い。

 知らず笑顔がこぼれた。


 そこに天幕の外から年寄りの男がやってきてミトラの兎に目を止めた。


「ああ、ちょうどいい。その兎をこっちに渡してくれ」


「?」

 ミトラは素直に愛らしい白兎を老人に渡した。


 男は受け取ると、無愛想な顔でさっさと天幕の外に出て行った。


「あの兎はあの人のものだったのか?」

 ミトラの質問に烏孫は困ったように視線を落とす。


「違うよ。今から鍋に入れるんだよ」

 子供の一人が当たり前のように言う。


「え? まさか!」


 ミトラは驚いて烏孫を見た。

 烏孫は気まずそうに目をそらす。


「と、止めなきゃ! やめてくれ!」

 叫ぶと同時に天幕の外へ駆け出していた。


「おいっ、どこに行くんだ貧乳女!」


 烏孫がちっと舌打ちして追いかける。


「ま、待って! 待って! その兎を殺さないで!」

 ミトラは天幕の外を探し回る。


 村中を走り回って、ようやく人目を避けるように張られた柵の向こうに見つけた兎は、すでに首を絞められて生き絶えていた。


「いやあああああ!!!!」


 ミトラは驚愕して立ちすくむ。


 知ってはいても、食事に出た事はあっても、殺す所を目の当たりにした事などなかった。

 民の暮らしを知っているようでいて、実際の現状を見た事などなかった。


「なんだね、あんた。妙な悲鳴で神聖な場所をけがさないでくれ」

 老人はぐったりした兎の皮を剥ぎながら、迷惑そうにギロリと睨んだ。


「神聖な場所?」


 兎を殺すこの場所が?


 老人は何事かを呟きながら、時折兎の死体を天にかざすようにして拝礼している。



「ミトラ、大事な儀式の邪魔をするな」

 烏孫が手を引いて柵のこちらに連れ戻す。


「儀式?」


「俺達は無意味な殺生をしている訳ではない。この北の大地では作物やミルクの少ない冬には、動物の肉を食べなければ生きていけない。家族のように大事に育てた牛や羊も、感謝の祈りを捧げながらその身をいただく。彼はとむらいのシャーマンだ」


「弔いのシャーマン?」


「この部族で最も尊敬され、地位のある職業だ」

「動物を殺す人が?」


 ヒンドゥでもシェイハンでも奴隷の仕事だったはずだ。


「それだけ敬意を払って命をいただいているという事だ。お前にとったら身近な殺生は残酷に思えるかもしれないが、俺達からしてみたら、けがれた身分とされる者たちに感謝なく陰で殺させるヒンドゥの方がよっぽど残酷だ」


 常識がくつがえされる。

 正義が分からなくなる。

 烏孫の言う事が正しく思える。


 動揺するミトラの手を、そっと小さな手が握りしめる。


 はっと手のぬしを見た。


「僕達は命をいただくたび、その重みに恥じない生き方を天に誓うんだ」


 神威かむいだった。

 屠殺場とさつじょうに向かってひざまずき、両手を天に差し出し、祈りを捧げながら拝礼する。


「あの兎は僕の成人のお祝いにもらった命なんだ」


「神威の成人の?」


 ミトラの視線に気付いて、烏孫は頷いた。


匈奴きょうどの男は十二で成人する。神威は俺が村を離れていたから、少し待たせたがな。今日からこいつは子供のゲルを出て、独身の男達のゲルに入って仕事を担う」


「こんなに小さいのに……」


 そういえば、他の子供達のように烏孫に抱っこをせがんだり、ミトラが話しかけて逃げて行ったりしなかった。

 大人の自覚を持っているのだ。


「今日より烏孫様のお心に答えられるよう、精進して参ります」

 神威はうやうやしく烏孫に拝礼した。


「よく仕事に励んで強い男になれ、神威」

 烏孫は神威の頭に手をかざして受けた。


「兎の毛皮はミトラに贈ります。よいでしょうか?」

 神威が烏孫に尋ねた。


「ええっ? い、嫌だ! いらない!」

 ミトラは慌てて拒否する。


「ミトラ、成人祝いの獣の皮は本来両親に贈るものだが、この神威には親がいない。成人の日に村にやってきたお前に贈るのはいい考えだ。もらってやれ」


「で、でも……」

 生きていた姿を思い出して恐ろしくなる。


「言っただろう。ここではお前は女神でも姫でもない。ただの一人の女だ。他の生命の犠牲の上に生きる凡夫だ。早くその事実を受け入れる事だ」


「他の生命の犠牲の上に生きる……」


 それは自覚が無かっただけで、今までもずっとそうやって生きてきたのだ。

 肉食を好みはしなかったが、出されれば口にしていた。

 いや、植物だって命を絶つという意味では同じだ。

 血を流さない分、罪悪感が薄いだけだ。


 生きるという事の罪深さに初めて気付いた気がする。


「もう、ミトラ何やってるの? こんな所でさぼって。ヤギのミルクはどうなったの?」


 烏孫のそばで油を売っているミトラに杏奈と女達が文句を言いにやってきた。


「早く用意しないと男達が帰ってくるわよ! 烏孫様も新入りを甘やかさないで下さい!」


 烏孫を狙う女達にとっては陰で密会するミトラがおもしろくない。


「分かった分かった。ちょっとここのルールを教えてただけだ」


 なだめていると、平原の向こうから大勢の馬のひづめが聞こえてきた。


「男達が放牧から帰ってきたようだ」



次話タイトルは「トルファンの男達」

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