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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
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2、トルファンへ


 パータリプトラからヒマラヤ山脈を西に廻り込み、カラコルム山脈を抜け出ると、タクラマカンの砂漠に出る。

 そして右手に崑崙こんろん山脈を見上げながらオアシスを頼りに東北を目指せば、天山てんざん山脈の東のふもとに行き着く。

 そこが冬でも比較的温暖な地、トルファンだった。



 一行いっこうは六日目の今日、ようやくカラコルムの山を抜け、眼前にタクラマカンの広大な砂漠を眺めていた。

 上空には春を待ちきれなかった鷹が一匹、円を描いて見下ろしている。


 朝焼けの草原は霜がおり、僅かに残る草の根が光に反射して、輝石きせきの海原のようだった。

 そして頂上に雪の積もる崑崙山脈から遠く前方には天山てんざんの山々が白い稜線りょうせんを描いている。


 雪の残る砂漠には時折、木々が連なるオアシスが見える他は、起伏のある平原だけがどこまでも続いている。

 三月の高原はまだまだ氷点下の寒さで、旅人は常に凍死の危険と隣り合わせだった。


 凍りついた僅かなオアシスで、辛うじて火を起こし薄手の天幕を張って夜をしのいだ一行は、朝日が昇ると同時にトルファンへの出発の準備をしていた。


「あー、さすがにこの時期の野宿はきついな。本当はもう少し暖かくなってから村に帰りたかったんだけどな」


 烏孫うそんはぶるると身を震わせて、平原の真ん中でひざまずく少女を見やった。


 長く真っ直ぐな月色の髪は、朝焼け色に染まり、澄んだ白い肌は遠目にもキメの細かさが分かる。両手を組んで目をつむり、さっきから一心に祈りの姿勢で何事かを唱えている。


 その可憐な様は、この殺伐さつばつとした風景の中で心を打つほどに美しかった。


「本当に天から降りた女神のような方ですな」

 焚き火の始末をしながら老臣はしみじみと呟く。


 五日もの間、烏孫の腕の中で眠り続けたミトラは、目覚めた時にはすっかりみどりの光を失い、ウッジャインで見たような不思議な力も威圧感も無かった。


 烏孫は半分ほっとして、半分期待外れだった。


 また上から目線で命令されるのは腹立たしいが、あの翠の恍惚こうこつをもう一度味わってみたいという願望も確かにあった。


 ゆうべ目覚めた時、烏孫の腕の中にいることへの戸惑いはあったものの、意外にも冷静に受け止め、逃げるわけでも以前のようにアショーカの所へ連れて行けと騒ぎ立てる事もなかった。


 何故烏孫の腕の中にいるのかという経緯と、これからどこへ向かうつもりなのかという二つだけを尋ねて、その後は黙り込んでしまった。


 旅の疲れで火を囲んだまま眠ってしまった烏孫達が、朝日と共に目覚めた時には、ミトラはすでに今の姿勢で一人、祈りを捧げていた。


「もう半刻はんときもああやって祈っておられますが、お寒くないのでしょうか?」


 烏孫と家臣三人は自分用の獣の皮を被っているが、ミトラはヒンドゥを出る時着ていた侍女の服のままだった。


「さあな。お偉い女神様だから寒さも超越ちょうえつしてんじゃないのか?」


 烏孫は気に食わなかった。

 自分が助けてやったというのに少しも嬉しそうでない事。

 感謝の言葉すらまだ聞いていない。

 更には何があったのか一向に話そうとしないのもムカつく。

 どこまでも上から目線な女だ。


「さすがは神の加護のある方は違いますな。私などは、あのような薄着では凍死しますよ」


 感心する老臣に、烏孫はふと嫌な予感がよぎった。


「普通に考えればそうだが……。あの女は大丈夫なんだろうな?」


 まさか……という動揺を浮かべ、二人は顔を見合わせる。


 しかし、その二人の見守る前で、ミトラはパタリと平原にくず折れた。


「だ! 大丈夫じゃねえのかよっ! おいっ! 貧乳女!!」

 烏孫が慌てて駆け寄り、抱き起こす。


「つ、冷たい!! 半分凍ってるじゃないか! おい、狛爺こまじい、もう一度火をおこせっ!!」

 ミトラは烏孫の腕の中でガタガタと震えている。


「か……から……だが……ふ…ふる……震えて……う…うう…うごか……ない……」


「バカかああ!! 体温調節ぐらい自分でしろおお!!」


 烏孫は怒鳴りながらも自分の毛皮を脱いで、ミトラの体を包んだ。


「す……すまな……い……」


 烏孫はそのまま火のそばに抱いて来て、家臣に命じる。

「あるだけの毛皮と毛布を出せ! 早く暖めないと死ぬぞ!」


 腕の中で抱え込むようにして、ミトラの手足をさすって暖める。


「信じられない女だな! 自分の命の危険すら分かんねえのかよ」

「す……すまない。シェイハンは……温暖で……。寒さを危険だと感じた事が無かった。寒さは精神で乗り切れるものと……思っていたのだが……」


「乗り切れるかっっ!! お前みたいなヤツは、この北の大地ではあっという間に死ぬぞ! 何が偉大な女神だ! 驚くほど無力じゃねえかよっ!!」


 思い返してみれば、この女はいつも命の危険に晒されていた。

 初めて間近に接した時は、タキシラで刺客に襲われていた。

 次はウッジャインの騒乱に巻き込まれ、今度はパータリプトラで奴隷商人に売られそうになっていた。

 こんな女を守ろうとしたら、こっちの命が持たない。


「どんだけ手のかかる女なんだよ。貧乳のくせに!」

 そう言いながらも、凍傷になりかかった手を必至にさすっている。


「すまない……」


 申し訳なさそうに自分を見上げるみどりの瞳に気付いて、ぷいっと目をそらす。


「……ったく、こんな所で油を売ってる場合じゃねえってのにさ。早くトルファンに向かわないと、アショーカ王子とスシーマ王子に追いつかれちまう」


 その言葉にミトラは傷ついたように視線を落とした。

 ゆうべから二人の王子の名を出すたび、この調子だった。


「おい、いい加減、何があったか話せよ! 黙ってたら分かんねえだろうが」


 二人の王子と何かあったのは間違いない。

 やがてミトラは、最低限必要な言葉だけを口にした。


「アショーカとスシーマ王子は……追って来ない。急ぐ必要は……ない……」


「追って来ないだと?」


 本当だろうかと烏孫はミトラの表情を探る。

 嘘をついている様子はない。


 しかし、あれほどこの姫を大事に守っていた二人がそんなにあっさり引き下がるだろうか?


「何だよ、二人の王子に振られたのか? 貧乳女」


 ミトラは烏孫の言葉にギクリと肩を震わせた。


「おいおい、図星かよ! まあ、考えてみりゃあそうだよな? お前のような絶望的な貧乳女が王子二人にモテてた方がおかしいんだよ。人生、最初で最後のモテ期だったのに残念だったな、貧乳女」


 盛大に落ち込むミトラを見て、そばで聞いていた狛爺こまじいたしなめる。


「烏孫様、いい加減になさいませ。いくら何でも女神様に失礼でございますよ」


「ホントの事を言って何が悪いんだよ。こいつは自分が貧乳だって事をもっと思い知るべきなんだよ。いいか? よく聞け、乳が無いってのはなあ、男にとっては最低のさいってーの女だって事だ。女としての価値無しだ! 分かったか!」


「それは烏孫様の判断基準でございましょう。この類稀たぐいまれなる容姿は最上級でございますよ」


 老臣が呆れて言い返す。

 しかしミトラは思ったよりもそこは気にしてないようだった。


「烏孫、そなたは……トルファンという村落の……匈奴きょうどと言ったか。その部族なのか?」


 違う事が気になっていた。


「おう、そうよ。だが、トルファンは冬の陣を張る匈奴のほんの一部族だ。匈奴はおれの爺さんが単于ぜんう……まあ、ヒンドゥで言う王様みたいなもんだが、それに就任してからどんどん勢力を伸ばし、今では広大な領地をいただく大国家だ。

 俺様はつまりは、その大国家の王の孫にあたる偉い身分だ。分かったか」


「では……いずれはそなたも王になるのか?」


 ミトラの問いに烏孫はふんっと鼻をならした。


「いんや、俺には兄貴がいるからな。俺はしがない次男坊だ」


「次男……アショーカと同じか……」

 ポロリとその名を呟いてミトラは目を伏せた。


「もっとも俺様は次男坊の立場で終わるつもりはないがな」


「国を奪うつもりなのか?」

 ミトラは不穏ふおんな顔をする。


「ふん! 俺様は新しい国を創る。俺様の理想の少数最強騎馬国家だ! そして俺様の後宮は巨乳美女であふれさせるのだ」


「コホン、烏孫様、後半は余計でございますな」

 老臣が再びたしなめる。


「それで?」

 ミトラはその続きを尋ねる。


「は? それでって何だ?」


 たいがいはここでクライマックスだ。

 ほとんどの女は尊敬のまなざしで後宮の一人に加えてくれと懇願こんがんする。


「私をそこに連れて行ってどうしたいのだ? 私が役立つ事なんてあるのか?」


「ほう。そうきたか」

 烏孫はしばし考え込む。


「そうだな。お前は何か得意な事はないのか?」


「得意な事……」

 今度はミトラが考え込んだ。


「私は算術は苦手だが、天文学や法律などの知識はある。あと、薬学と医術も少しなら……」


 烏孫は言葉の途中でため息をつく。


「ふん、俺達の素朴な暮らしには不要なものばかりだな。単干ぜんうの暮らす中央では役立つ事もあるかもしれないが、そもそも女が口出しする場所ではない。それぞれの学問には代々受け継がれた博士がいる。医術はシャーマンが受け持つ。へたに頭角とうかくを表せば命を狙われるぞ。

 女は乳搾ちちしぼりと料理と洗濯、それに羊毛織りが出来れば充分だ」


「そ、そうなのか。どれもやった事はないが……」


「役立たずな貧乳女だな」

 烏孫はやれやれともう一度ため息をついた。


「すまない……」


 落ち込んだ表情から見て、逃げるつもりはないらしい。

 ……というより、王子二人に捨てられ、行く所も無いというのが現状らしい。

 この気位きぐらいの高い女が、思いがけず簡単に手に入った事に秘かにほくそ笑む。


「一つだけ、何も出来ないお前が村で確立した立場を得る方法もあるがな」


「確立した立場?」


 得意げに告げる烏孫にミトラは首を傾げた。


「俺の妃になる事だ。王子の妻。俺が国を創ったならば王妃という事だ。俺の妻であれば、お前のその無駄な知識を生かす道もあるかもしれん」


「そなたの妻……」


 ミトラは物思いにふけるように黙り込んだ。


 村一番のいい男と言われ、妻になりたがる女が五万といる烏孫は、こんな条件のいい提案にも少しも嬉しそうにしないミトラが、ますます腹立たしかった。


「……と言っても、俺様にも選ぶ権利がある。お前のような貧乳女は、はなから除外だがな」


 ふんっと、そっぽを向く。


「そうか……」


 あっさり納得するミトラに、またムカついた。


「と、とにかく俺の村で暮らしたいなら働いてもらうからな! 今までのように女神だなんだとチヤホヤしてくれるヤツなんて俺の村にはいない。覚悟しておけ! 分かったか、貧乳女」


「……分かった……」


 ミトラは無表情にうなずいた。




次話タイトルは「月王の側近、チャン氏」です

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