33、イシク湖の月王①
「月王様! 月様! 大丈夫でございますか?」
生命の息吹を吹き込まれたようにパチリと目覚めた金色の瞳には、心配そうに覗き込む黒髪の少年の姿が映った。
こしの強そうな短髪はハリネズミのように四方八方に尖がっている。
そして湖面を写したような青く澄んだ瞳が、ほっと安堵したように緩まった。
「今日はいつもより目覚めが遅いので心配しました。
戻ってこられないかと思いましたよ」
快活な声は語尾が微かに震えている。
やがてガチガチと尋常でなく歯がかち合う。
「カイ、バカだな。なぜ湖に入ったのだ」
言って、ザバリと水面から体を起こす。
湖一帯に広がっていた長い黒髪が、水しぶきを上げて白装束の男に纏わりついた。
立ち上がると腰までの高さの水深しかなかった。
遠く北に広がるクンゲイ山の麓までを満たすイシク湖は、山中の海と言われるほど広大で、凍えるような冬にも凍結することがない不思議な湖だった。
「だ、だって月様が……な、なかなか……おお、お目覚めにならないから……」
ガチガチと歯を鳴らしながら、同じぐらいの背丈の少年が腰まで水に浸かっている。
「三月の水はお前には冷たいだろう。早く出て体を温めよ」
凍らなくとも氷点下の冷たさは変わらない。
見渡す山々は、まだ白雪に染まっている。
「つ……つつ……月様は寒くないの……で、ですか?」
寒さで口が回らなくなってきた。
ザブザブと湖から出る主君を追いかけ、カイと呼ばれた少年が陸に上がる。
水から出ると、一層寒さが身に滲みるような気がしてぶるると身震いする。
「今は少々寒いが、水面に漂っている間は何も感じない」
湖畔には黒装束の従者と女官が火を焚き、着替えを手に待ち構えていた。
「ま、まま、毎夜……お辛く……な、ななない……の……で……か?」
月王は誰も気付かないぐらいに微かに、ふ、と微笑んだ。
「私より先にカイの着替えを手伝ってやれ。
風邪をひかれては困る」
するりと着物を脱ぎ捨て、女官の差し出す手巾をカイに投げて渡した。
「い、い、いい……え! わ、私ごとき……よ、より……つ、月王様を……」
「よい。私は毎夜の事で慣れている」
実際に少しも寒そうな様子はない。
そもそも喜怒哀楽が、その神々しいほどに美しい顔に浮かぶ事はほとんどない。
「で、で……でも……でででも……」
感情丸出しのカイとは対照的だった。
「早く濡れた服を脱げ。お前には今から働いてもらうぞ」
カイははっと顔を上げた。
「で……でででは……ジンを……?」
月王はゆっくりと頷いた。
「だから風邪などひいてる場合ではないぞ。早く着替えよ!」
カイはキラキラと目を輝かせ、「はいっ!」と返事をして急いで着替えた。
絹織りの深い紫染めの着物を幅広の帯で留めた珍しい衣装は、中華の物ともヒンドゥの物とも西洋の物とも違って、月王の長く真っ直ぐな黒髪が映えて何とも言えず雅やかであった。
木を編んだような装飾に彩られた精巧な木造の城は、天上の異世界のように典雅で、趣深い。
い草で編んだ床は足触りが良く、よい香りを放っていた。
大勢の黒装束の従者を従え、長い黒髪と裳裾を優雅に引き寄せながら、すす、と幾層もの部屋を通り過ぎると、御簾で遮られた壇上に辿り着いた。
御簾の向こうにはすでに大勢の男達が並んで座している気配がする。
肘掛のついた座椅子に座ると、付き従ってきた従者と女官が衣装の裾を整えて、脇に下がる。
カイも一段低くなった側近の位置に控えた。
その背後に据え付けられた止まり木には、見事な鷹が一匹、目を閉じて止まっていた。
月王はすっと右手の二本の指を立てて口元に当てると、小さく何事かを呟いてから、ふっと息を吹きかけた。
すると大勢の黒装束の従者の姿が一瞬で掻き消え、その場所には、葉っぱがひらひらと舞い落ちる。
そして、月王のいる御簾の中には、カイと鷹だけが残った。
御簾の中からは外の様子がよく見える。
部屋の両脇には、黒ずくめの角髪頭の男達が約十名ずつ、肩にそれぞれ鷹を乗せて並ぶ。
そして御簾の前には様々な衣装を着込んだ屈強な男達が座している。
この時期はみな、フエルトで織った衣装に動物の毛皮を羽織っている。
寅、ユキヒョウ、ヤク、鹿。
それぞれが放牧する動物の皮だ。
どの男も、高い地位を思わせる壮年の精悍な顔立ちをしている。
ここに集うのは部族長というよりは、その部族の宰相のような立場の男達だった。
それぞれが俊敏そうな従者を従えている。
部族の文武の最高峰だった。
ここで認められない部族は、やがて廃れ、消えていく。
シンと緊張の伝わる部屋に月王の静かな声が響き渡った。
「待たせたな。報告を聞こう。まずは塞氏」
塞氏と呼ばれた男は熊ほどの巨体をピンと伸ばして口を開いた。
「はっ! 我ら塞族はようやく春の気配を読み、三日前より北の地への移動を開始しました」
「北か。今季はどこを目指す?」
「はい。例年通りハンガイの山々を目指そうかと思っておりますが」
「今季の夏は例年より暖かい。
今夏はバイカルの湖を目指すがよい」
「な! バイカルでございますか?
そこには北の異教徒が住んでいると聞きますが」
「奪うがいい」
何でもない事のように言う月王に、塞の男はぎょっと目を見開いた。
「い、戦でございますか?
さ、されど北の民が大挙して攻め返されては……」
「彼らもまた、その北に目が向いている。
今季ならば容易く落とせるだろう。案ずるな」
「さ、されど……」
行った事もない未開の地だ。
下手をすれば一族全滅だ。
「戦の始まる頃にはマリッドを送る。
塞の男達は日々の鍛錬だけを欠かさぬようにせよ。
そして奪った地は塞族のものとするがいい。
月王の名において認める」
塞氏は強力な助っ人に安堵を浮かべ、喜びのままにひれ伏す。
「はっ! はいっ! ありがたいお言葉。
全力を尽くします!」
「次は大宛」
金髪の野生のライオンに似た大男が顔を上げる。
「はい。我々は今季は東方の地を手に入れたく、月王様には匈奴の討伐を是非にも認めていただきたくよろしくお願い致します」
匈奴と移動地の接する大宛は、春になるたび小競り合いが続いている。
「匈奴か……。女神の加護があると言われる単干も、かなりの高齢だったな」
「はい。弥勒菩薩に守られていると吹聴しての傍若無人には、もはや我慢なりません」
先代の月王の遺言により、今の単干が生きている限りは、手出しするなと聞いている。
それをいい事に、あちこちの部族の領地を荒らしまわっていた。
この辺り一帯の主だった遊牧民で月王に従っていないのは、匈奴と、そのもっと東方の部族、東胡だけであった。
遊牧民の秩序を乱す元凶だった。
「我等は良い馬をたくさん揃えております。
部族の者も勇敢な騎馬上手ばかり。
必ずや討伐してご覧にいれます」
血の汗を流すと云われる魔馬を生み出す大宛は、最強の騎馬民族だった。
「そなたらの武勇は分かっているが、匈奴に手出しはするな」
だから、月王の弱気な発言に大宛の男はいきりたった。
「な! なにゆえでございますか!
匈奴は我らの種馬を盗み、魔馬をどんどん産出しているとのこと。
このまま匈奴を野放しにすれば、必ずや災いとなります。
今こそ討つ時です!」
「確かに、現単干は間もなく死期に入る。
だが、あの部族はまた一人、女神と縁を結んだ者がいるようだ」
月王の言葉に一同がざわついた。
次話タイトルは「イシク湖の月王②」です




