32、謎の民族、月氏
「その名は実在の存在というよりは伝説で語られる。
捉えどころのない幻のような一族だ。
精霊の集団とも、神の一族とも言われている。
その能力も人種も謎に包まれている」
「その謎の一族とは一体……?」
「月氏だ」
聞き覚えのある名にイスラーフィルは驚いた。
「実在するのか?」
シリアにいた頃も話題になった事があった。
シリアのセレウコス王もアレクサンドロス大王ですら、その不気味な噂に遊牧民の地に踏み込む事を諦めた。
雑多に分かれて暮らす遊牧民を影で統括していると言われていた。
その名を聞けば、荒くれの遊牧の民さえ震え上がって従うと聞いた。
「チャン氏は月氏に一番近く仕える一族だ。
俺もそれ以上は教えてもらえなかった。
だが、その月王ならばきっとウソンを見つけられるはずだ」
◆ ◆
ミトラは毛皮の男に包まれるようにして、昏々と馬の背で眠り続けていた。
ソーマのせいで、うっすらと翠の光が全身を覆っている。
ひどく濃度の濃いソーマを飲まされたのか、馬に揺れても目覚める気配がない。
半刻前、背の曲がった大男が商人のキャラバンに売ろうとしている所へ急襲してミトラだけを奪って逃げた。
腕の中で無防備に眠る少女を短髪の男はそっと見下ろした。
毛布から洩れ出た月色の髪が頬にかかり、瞳は固く閉じている。
しかし、その瞼の奥に深い神秘の翠が存在している事を充分に知っている。
その瞳を思い浮かべただけで、心が恍惚に溺れ堕ちそうになる。
呪にかかった男……。
その切れ長の青い瞳は諦めたように一度閉じて、ため息をついた。
「烏孫様、よくあの場所に姫がおられると分かりましたな」
馬を並べる三人の従者の一人が、ようやく人心地ついた所で尋ねた。
タキシラの衛兵隊長の目を盗み、なんとか首都パータリプトラに入ろうとしていたはずが、突然北に向かう街道に駆け出し、訳も分からぬままついていくと、何故だかそこには、この姫がいて、奴隷商人に売られようとしていた。
何故そんな事になっているのかも分からないし、この主君がなぜそれに気付いたのかも分からない。
そして何故ムキになって助け出したのかは、もっと分からなかった。
なにしろ、ついさっきまで散々この姫の悪口を並べたてていたのだ。
マギだかなんだか何様のつもりだ。
俺様を使徒扱いとは図々しいにも程がある。
巨乳ならまだしも絶望的な貧乳のくせしやがって。
……そんなところだろうか。
「知らん! 俺だって訳が分からん。
気が付いたら向かっていた。
突然この女の気配がして、助けを呼んでいる気がした。
そう思ったら勝手に体が動いてたんだ。
きっと第五のマギだとかになったせいだ」
自分の意志とは違う所で突き動かされる。
本当に厄介な事に巻き込まれた。
いっそのこと気を失っている間に命を奪ってしまおうかとさえ思うのに、体はそれを許してはくれない。
無性に腹を立てているというのに、大事に腕に抱え込んで手放す事が出来ない。
「良いではありませんか。
呪でも何でも、この不思議な魔力を持つ姫を妃にお迎えなされ。
この姫の力があれば、国創りも夢ではございませんぞ」
「ふん! くだらん!
国創りを女の力になど頼るつもりはない!」
「されど、こうやって連れ帰っているという事は妃にされるおつもりなのでしょう?」
「仕方がないだろう。
こんな異教の女、村に戻っても俺様の妻以外何の役にも立たぬ」
その表情はがっかりしているのか、期待に溢れているのか、側近の老武官ですら分からなかった。
実際、烏孫自身にも自分の気持ちが理解出来ていなかった。
一つだけ分かっているのは、この翠の姫を誰にも渡したくないという事だけだった。
◆ ◆
眼前の空間一杯に浮かぶ、丸い丸い軽石のような球体。
闇の中で大いなる光を受け、無機質な表面のデコボコが露になる。
振り返った背には、青く輝く美しい球体が静かに息づいている。
意識を伸ばし、その大いなる存在を抱きしめるように包み込む。
ああ、私の故郷。
私の愛する星よ。
その地に暮らす、あらゆる生命の意識を纏い、共に息づく温かな存在よ。
混沌の世界に私が秩序を与えよう。
争いを繰り返す愚かな人間共を私が支配しよう。
私こそがこの星の支配者。
私こそが蒼き星を守る絶対者。
さあ、戻ろう。
お前の元に。
私の成すべき事をするために。
青い球体がどんどん近付き、雲の切れ間を抜け、海と陸の境を見下ろし、川と山の起伏を確認する。
月明かりに染まる密林と、雪を頂く山々を越えて一点を目指す。
ぐんぐん高度を下げて透明に澄んだ湖を視線の先にとらえる。
しかし、ふと、その東に意識が流れた。
湖の南東に約5ヨージョナー。
高原に向かう峠道を進む四頭の馬。
その一人の腕に抱えているもの。
そこから清らかな翠が洩れこぼれている。
地上にあるはずもない、神宿す聖者の翠。
初めて感じる興味と感動。
この地上に、自分がここまで惹かれるものが存在するとは思わなかった。
しばし、翠を追いかけ四頭の馬に並走して空を漂う。
(月色の髪の女……。では、この者が……)
意識は呟き、はたと西北の方角を見やる。
(時間切れか……)
意識はふっと光の速さで、あるべき場所に向かう。
瞬時に辿り着き、ストンと湖面に浮かぶ肉体へと潜り込んだ。
「月王様! 月様! 大丈夫でございますか?」
次話タイトルは「イシク湖の月王①」です




