31、救世主
ヒジムは待ち望んでいた相手に笑顔を浮かべた。
「イスラーフィル!」
ずいぶん汚れ、旅の苦労が滲み出ている。
ズカズカとアショーカのベッドに進み、後ろに続くアッサカが追いすがる。
「イスラーフィル様、お待ちを! どうか、冷静に!」
しかし、そんな忠告も聞かず、イスラーフィルはベッドに寝そべるアショーカの胸倉を掴んだかと思うと、ぐいっと体を引き起こした。
「あんたっ! こんな所で寝そべって何やってんだ!
ふざけるな!!」
「イスラーフィル様、アショーカ様はミトラ様を失ったショックで……」
アッサカが今にも殴りかかりそうなイスラーフィルの腕を掴んで止める。
「柄にもなく感傷に浸ってる場合か!
この腰抜け王子! 早く目を覚ましやがれ!」
言うが早いか、アッサカの制止を振り切り、アショーカの頬に拳がめり込んだ。
ベッドの上にどうと倒れる。
切れた唇を拭い、闇に堕ちた心は容易に狂気に囚われる。
「死にたいようだな、イスラーフィル」
ガバリと飛び起き、今度はイスラーフィルの屈強な顔にアショーカの拳が炸裂する。
イスラーフィルは床に転がったかと思うと、すぐに頑丈な体を起こし、もう一度アショーカに掴みかかる。襟首を両手で締め上げ、そのまま床に投げ落とす。
背中から床に体を打ちつけたアショーカは、まるで痛みを感じないようにイスラーフィルに飛び掛り、転がった二人はお互いに殴り合いながら重量級の戦いを繰り広げる。
「と、止めて下さい、ヒジム様」
アッサカは腕を組んで見守るヒジムにオロオロと懇願する。
「僕もちょうど殴って目を覚ましてやろうと思ってた所だったからさ、助かったよ。
力勝負だとこっちがボコボコにされるの分かってるからさ、どうしたものかと思案してたんだ。
イスラーフィルなら重量級同士、対等にやりあえていいんじゃない?」
言ってる間にも二人はズタボロになっていく。
「で、ですが、このままではどちらかが……」
死にますと言う言葉をアッサカは飲み込んだ。
イスラーフィルが馬乗りになってアショーカを殴りつける。
「それだけの元気があるなら、すぐに騎士団を集めて出発しろ!
このバカ王子!」
形勢逆転で今度はアショーカが馬乗りになってイスラーフィルを殴りつける。
「何を言ってる! どこに出発するのだ! 黄泉の国か?」
イスラーフィルはもう一度形勢逆転して、アショーカを押さえ込む。
「寝ぼけてんのかっ! 北だ!
おそらくパミール高原の方角。遊牧民の地だ!」
「パミール?」
反撃しようとしていたアショーカは手を止める。
「なぜそんな辺境の地へ?」
「ミトラ様が向かっている。俺には分かる」
「まさか……」
アショーカの目を翳らせていた暗い影がすっと引いていく。
「生きて……いるのか……?」
「当たり前だ! ミトラ様を勝手に殺すな!
このへたれ王子がっ!!」
「本当にミトラが……?」
「俺は第七のマギだ。だから分かる。
ウッジャインの時と同じだ。ソーマを飲んでいる。
おそらくソーマを飲んでいる時だけ、聖大師の仮り身となられる。
ソーマの気配がある間ならば、俺にはおおよその居場所が分かる」
アショーカはイスラーフィルを跳ね飛ばし、ガバリと起き上がった。
「それを先に言えバカ者が!
そうと分かれば、お前なぞと殴り合いなどしている場合ではないだろうが、たわけが!」
「だから、さっきからそう言ってんだよ、クソ王子が!」
「ヒジム、騎士団を集めろ! すぐに出発する!」
まるで別人のように立ち直ると、せっかちな性格のままに次々思考を巡らす。
「遊牧民の地ならチャン氏に早馬を出そう。
そこに騎士団の隠密も数人いるはずだ。
俺が行くまでに近辺の捜索を命じろ。
それから商人ソグドだ。
あいつはこの時期サマルカンドの故郷に帰っているはずだ。
商人筋の捜索にあたらせろ」
ヒジムが頷いて外に待機する騎士団に指示を与えると、またすぐに戻ってきた。
「やれやれ、やっと目が覚めたみたいだね。
じゃあ僕の報告の続きね」
「何か分かったのか?」
乱闘のせいであちこち傷だらけだが、瞳だけは力強い。
「その後の調べで、あの神殿には秘密の抜け道がある事が分かった。
地下から直接王宮の外に出られる地下道があるらしい。
ギリカという大男の従者がそこから連れ去った線が濃厚だ」
「抜け道が? そうやって生贄の女を連れ込んでいたのか」
「多分ね。それからラーダグプタ様。
最高顧問会議の途中で気分が悪くなられて退出された。
ちょうど様子を探りに行っていて出くわしたから、事情を話し協力を頼んだよ」
「ラーダグプタに?」
「あの方もミトラの第六のマギだ」
「ラーダグプタが?」
アショーカは驚いたがイスラーフィルはそうだろうと思っていた。
「ラーダグプタ様もミトラがソーマを飲んでいると言っていた。
ただ、さっきは王宮の近くにいると言ってたから、何かあって移動を始めたのかもしれない」
イスラーフィルは頷いて後を続けた。
「私は実は昨日の夕方にはパータリプトラの城門まで到着していました。
途中でウソンに出くわしたため、ずっと追いかけて山越えしたのですが、関所を通れず足止めされていました。
あちらは三人の武官を従えていましたので捕まえる訳にもいかず、後を尾けてずっと様子を探っていましたが、今日の昼過ぎ、ちょうどミトラ様の異変を感じたと同じ頃、突如姿を消しました」
「ウソンがパータリプトラにいたのか」
アショーカは考え込む。
「ここに来る途中アッサカに聞きましたが、ウソンはウッジャインでミトラ様に第五のマギに選ばれたとか……」
「なに? ミトラがウソンを……? なぜだ?」
そのアショーカの問いにはアッサカが答えた。
「私はその場にいましたが、ミトラ様はソーマを飲んでいる間は別人のようでした。
そして目覚めた後、ご自分がウソンを指名した事を覚えていらっしゃいませんでした」
「ミトラの意志でなく指名したというのか……?」
「ウソンの事を未来の自分に必要な存在だとおっしゃっていました。
それはまさにこの危機の事を指しているのではないかと思います」
「ウソンがギリカからミトラを助け、連れ去ったというのか?」
「そう考えるのが妥当ですな。
ほんの半刻前から猛スピードで北西に向かい出した」
イスラーフィルが目を瞑り、遠くミトラの気配を探る。
「なるほど。ではウソンの居所を探せばミトラに辿り着くのだな」
「おそらく」
「イスラーフィル、教えてくれ。
マギとは聖大師にとってどういう存在だ。
ウソンがミトラに危害や暴行を加える心配は?」
イスラーフィルは静かに首を振った。
「聖大師様が許さぬ限り、一切の手出しは出来ません。
本人の意思がどうであれ、命を賭してミトラ様を守るでしょう。
むしろウソンがマギであって良かったと思います」
「そうか……」
アショーカはほっと息をつく。
「よし、では準備を整え、すぐに出発しよう。
ウソンが三人の武官を従えていたという事は、国を動かす身分かもしれぬな。
もしかして戦になるやもしれぬ」
「戦? さすがにそんな人数すぐには揃えられないよ。
騎士団の本隊はタキシラに残してきてるんだから」
ヒジムは慌てた。
「分かってる。チャン氏の協力を頼むしかないだろう」
「チャン氏?
チャン氏ってパミール高原を移動する遊牧民族だろ?
そんなのかき集めたところで大した戦力にならないよ」
「チャン氏の主君に会ってみよう。
イシク湖畔に城があるらしい」
「チャン氏の主君?」
イスラーフィルとアッサカが首を傾げる。
チャン氏自身がサカ族の領主のような立場だったはずだ。
「北の大地を牛耳る謎の集団。
支配下にある民は十万とも百万とも言われている」
「北の辺境に百万の民?」
一同は驚いた。
農作物の育たない北の地では百人単位の少数遊牧民が雑多に移動していると聞いていた。
百万とはマウリヤ朝の大都市に値する数だ。
「その名は実在の存在というよりは伝説で語られる。
捉えどころのない幻のような一族だ。
精霊の集団とも、神の一族とも言われている。
その能力も人種も謎に包まれている」
「その謎の一族とは一体……?」
「月氏だ」
次話タイトルは「謎の民族、月氏」です




