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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第五章 パータリプトラ 後宮編
177/222

29、数魔カルクリ

「アショーカ、アショーカ、起きて」

 ヒジムの声に目覚めた。


「もう、肝心な時に役立たずなんだから。

 乱心してる場合じゃないでしょ?」


 アショーカはガバリと起き上がる。

「ミトラは? ミトラはどうなった?」


「へへーん。見つけてきたよ。危なかったよ。

 もう少しで殺されそうになってた所を僕とアッサカで助けて連れて来たんだからね」

 ヒジムがにやりと笑って横にずれる。


 その背後に月色の髪が見えた。


「まさか……」

 アショーカは慌てて立ち上がる。


 夢中で駆け寄ると、懐かしい翠の瞳が見上げていた。

 途端に、どっと緊張の糸が切れたように心が弛む。

 冷え切っていた心に温かいものが流れ、世界中のすべてに大声で感謝を叫びたくなった。


「無事だったかミトラ! 良かった。

 ヒジム、アッサカよくやった。礼を言う。」


 その細い腕を引き寄せ、力一杯抱きしめる。


「さっきは悪かった。

 お前を拒否したわけじゃなかったんだ。

 西宮殿は危険だから、早く安全な場所に逃がしたくて……つい言い過ぎた。

 すまなかった。許せ、ミトラ」


 もう一度腕に力を込めて抱きしめる。

 ミトラはそんなアショーカを無表情に見上げる。


「許さない」


 その口から出た言葉でアショーカの背に冷や汗が流れた。


「え?」


「離してくれ。私はお前のように暴言を吐く男は大嫌いなんだ。

 私はスシーマ王子の妃になる事にした。

 みんなそれが一番いいと言うしな」


「な! し、しかし……お前は俺の迎えを待っていたのでは……」


「それは以前の話だ。

 やっぱりお前のような短気な男の側にはいたくない」


「そ、それは……」


 言い澱み、そして、ふいに思い直した。


「なんだ、そうか。おかしいと思ったのだ。

 お前が俺の迎えを指折り数えて待っているなんて、どう考えてもおかしい。

 さっきのが夢か。最悪の夢だった。

 ははは、そうか」


 アショーカはすべて納得したように、もう一度ははははと笑った。


「よし、それなら対策済みだ。

 お前がタキシラに帰りたくないというかもしれない設定なら、ヒジムと幾通りも考えてきたのだ」


 そして指折り待っているという設定は想定外だった。

 だから話がおかしくなったのだ。

 こっちが現実だ。


「俺様を見くびるなよ。

 たった今お前が殺された夢を見たのだ。

 それに比べたら、お前の拒否など屁でもないわ。

 兄上と結婚したいならするがいい。

 お前が生きている限り付き纏って妨害してやるぞ。

 何が何でも俺様に振り向かせてやる!」


「ではシリアに行くまでだけお前のそばにいる」


「おお、少しは計算高い事も考えられるようになったか。

 よし、いいだろう。

 お前が生きて側にいるなら、全力でお前の護衛をしてやる。俺様を利用して構わんぞ」


「それからダッカ(学校)にも入りたい」


「む! つ、強気に出たな。

 今なら俺が何でも許すと思ってるだろう?」


「ダメならお前の夢に戻る。

 ティシヤラクシタ殿の神殿に……」


「ま、待て!! 分かった! 分かったぞ。許す。

 お前がどうしてもダッカに入りたいというなら、そうだ!

 男装をして信頼出来る従者をつけよう。

 水練は体が弱いと言って見学すればよいな。

 剣術もそれで回避できるな。

 そうだろう? どうだ?」


「なんだ。そんな方法もあったんじゃないか。

 頭ごなしにダメだと言ったくせに」


「そ、それは最後の最後の手段だ。

 出来る事ならそんな危険な場所には……」


「でも……すべてが……遅かったけどな……」

 遮るように寂しげにミトラは呟いた。


「え?」


 アショーカは驚いて腕の中のミトラを見る。


 今まで確かにあったはずの温もりは掻き消え、そんなものは最初から無かったのだと気付く。


「ミトラ!!」


 数歩先に、最後に見た、西宮殿で涙を浮かべるミトラが立っていた。


「待て! 違う! 誤解だ!

 俺はお前を守りたくて……」


 ミトラは寂しげに首を振る。


「私の時はここで止まってしまった。

 どこまで行っても、どれほど時が過ぎても、私とお前の時間はここで止まってしまった。

 どれほど後悔しても永遠に変わらない……」


「ま、待て!! 待ってくれ! お願いだミトラ!

 もう一度チャンスをくれ!」


 哀しげな翠の瞳はポウと光を放ち、肉体を消し去る。


「ミトラッ!!」


 必死で伸ばす手は、どんなに頑張っても届かない。


 その翠の瞬きの上に、無情に鉛色のしずくが垂れる。

 ポタポタと翠を打ち消し降り積もる。


 目の前を覆い尽くす鉛色に愕然と膝をつく。

 世界が鉛色に染まった頃、鉛玉は統合を始め、十の塊を作っていく。

 十の塊がまた十を作り、その十がまた十を作る。


「六百五十七億八千九百二十一万三千七百四十二」

 無意識に答えていた。



「ケケケケ。さすがは王子。お久しぶりでございます」

 巨大な鉛色の塊がケタケタと体を揺らして言葉を発する。


「カルクリ……。消えたのではなかったのか……」

 愕然と見上げる。


「私は不死身。闇と数の秩序のある所、何度でも復活出来ます。ケケケケ」


「お前に用などない。去れ!」

 格段に大きく成長したカルクリに引き込まれそうになる。


「用ならあるはずでございますよ。

 あなた様の大事なものを奪った愚か者に復讐をするのです。

 独りよがりな執着を愛だとうそぶき、あなた様に害成すおぞましい女。

 私にお任せ下されば、ヴァッサ王を取り込んだまま、あの女を始末して差し上げましょう」


 激しい怒りが再燃して、残酷な衝動に溺れそうになる。


「一番悪いのは俺だ。

 俺がティシヤラクシタの悪事を知っていながら、目を瞑ってきたから……。

 ミトラを傷つけ、まんまとあの女の罠に嵌らせてしまったから……。

 すべて俺のせいだ」


「王子は何も悪くありません。

 悪いのはそもそも西宮殿から騎士団を排除して護衛の質を落としたビンドゥサーラ王です。

 騎士団が王子の命じていた配置で警護していれば、あなた様の妻は病になる事もなかった。

 さすれば王子はウッジャインに翠の姫を迎えに行く事が出来たのです。

 さらに言えば、スシーマ王子が翠の姫を攫わなければ、何も起こらず、彼の姫はタキシラで静かに暮らせていた事でしょう。

 諸悪の根源は王とスシーマ王子なのです」


「たらればは好きではない。

 よくもそんな責任転嫁が出来るものだ」


「ケケケ。私はあなた様の心が創る数魔です。

 すべてはあなた様の心に巣くう思いの数々」


「俺がそんなくだらぬこじつけに囚われていると言うか。バカバカしい」


「違うと言い切れますか?

 あなた様の半分は誰よりもドス黒い願望で出来ているのでございます。

 どれほど押し込めたつもりでいても、私にはすべて見えております」


 断じられると分からなくなる。

 そうかもしれない。

 善悪であらわすなら、自分は間違いなく悪に寄っている。

 自分の心の中にはそんな暗い陰鬱な想念が渦巻いているのかもしれない。


 ミトラに気付かれないように必死に取り繕い、心の奥に仕舞い込んでいた。


 体が沈んでいく。

 深い闇が絡みつき、地の底へと落ちていく。


 悪魔が黒い翼をはためかせ、ヌラヌラと照かる毒蛇が這い回り、ウジが湧いて出る。

 この世界こそ自分のもの。

 ここが居場所。

 自分にはここが相応ふさわしい。


 綺麗なものに憧れ、無垢で清らかなものに惹かれ、翠の瞬きに焦がれた。

 決して手の届かないものに手を伸ばし、それに相応しくなろうともがいた。


 しょせんは叶わぬ夢なのだと、悪魔がせせら笑う。

 闇にまみれたお前がバカな望みを持ったものだと、餓鬼が嘲り地獄に引きずり込む。


「お望みであるなら、この闇の世界に翠の姫を連れて来て差し上げましょう」



次話タイトルは「闇に堕ちる王子」です

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