28、アショーカとティシヤラクシタ②
「ミトラ様は……東宮殿の侍女の服を……着て……いました……」
アショーカはばっとティシヤラクシタを突き放し、祭壇の下でヒジムが手にするヴェールを奪い取った。
見覚えがある。
ほんのついさっき、アショーカの暴言に涙を浮かべたミトラが被っていたもの……。
最後に見た顔。
自分の言葉に傷ついて見上げる、あの……翠の……。
「まさか……。まさか……」
アショーカはヴェールを握り、ガクリと膝をついた。
「あ…あ……あ………」
額の印が痺れ、青く禍々しい色を放つ。
「ああああああああ!!!!!!」
獣の咆哮のように感情を濃縮した叫びが空を突く。
その鼓膜を貫く大声に、壁が震え、床がうねり、突風が吹きぬける。
「うわああああああ!!!!」
狂ったように床に頭を打ちつけ、目につくものすべてを拳で打ち抜き、蹴り飛ばす。
「ああああああ!!!」
気の触れた獣のように破壊の限りを尽くし、祭壇に奉られたものを投げ捨てる。
初めて目にする主君の乱心にアッサカと騎士団の面々は、ただ呆然と見守るしかなかった。
「アショーカ! アショーカ! 落ち着いて!
まだ死んだと決まったわけじゃない」
ヒジムだけが冷静に主君を止めようと暴れる体を受け止める。
しかし細身のヒジムには体格も力も及ぶはずもなく投げ飛ばされる。
「アッサカ、騎士団、アショーカを止めろ!」
壁に打ち付けた肩をさすりながら、ヒジムが命じる。
その場の全員でアショーカを止めにかかるが、乱心したアショーカに次々投げ飛ばされる。
ゼイゼイと息を切らすアショーカの目に、部屋の片隅で震えるティシヤラクシタが映った。
アショーカの額から青い光が流れ出て、怒りが全身を包む。
「ティシヤラクシタアアアアアア!!!!!!!」
ティシヤラクシタはビクリと飛び跳ね、初めて目にする夫の姿にガタガタと震える。
アショーカはスルリと腰の剣を引き抜き、ズカズカと歩み寄った。
「貴様!! ミトラに何をしたああ! 女であっても許さぬぞおおっ!!」
「まずいっ! みんなアショーカを止めろ!」
ヒジムが慌てて駆け寄る。
「殺してやるっ!! 幽閉など甘い事は言わぬ! この場で殺してやるっ!!」
躊躇無く振り下ろされた剣をヒジムが間一髪受け止める。
「止めるなあっ! ヒジムっっ! こいつはカールヴァキーばかりかミトラまでも……。許さんっ!! 許さんぞおおおおっ!!!!」
ヒジムとアッサカが次々繰り出される剣を必死で受け止め、騎士団はその体を押さえ込む。
十人がかりでも止まらない怒りと破壊。
「わ、私じゃないわ。ギリカが……ギリカが……」
動揺のあまりティシヤラクシタは従者の名を出す。
「私は……ただ……アショーカ様に……私一人を見て欲しかっただけ……」
初めて向けられた夫の殺意にわっと泣き出す。
「そのために……そのために罪も無い者を殺すというのか……!」
「愛しているのです。あなたを……だから……」
「ふざけるなっっ!!
そんなもの愛ではないっ!!」
「いいえ、愛ですわ。あなたが他の女の名を呼ぶなんて我慢出来ないっ!」
わあああ、とティシヤラクシタは子供のように泣きじゃくる。
神殿を勝手に建てた時も、愛していると泣きじゃくれば許してくれた。
きっと今回も……。
しかし、灰緑の瞳は温かさを失い、冷ややかに自分を睨み付けたままだった。
「お前の腐った愛などに、俺は生涯答える事はない。殺してやる……」
怒りは激しい熱をなくし、冷たい狂気へと変わっていた。
ゆっくり剣を振り上げる。
ティシヤラクシタはガタガタと自分を狙い定めた剣を見上げる。
「ア……アショーカ様に……殺されるなら……本望でございます。どうぞお気の済むように……」
観念したように両手を胸で組み合わせ、首を垂れる。
その姿に一瞬、怯んだように見えたアショーカは、しかし衝動のままに剣を振り下ろした。
キイイイイン!!!
……とその剣が受け止められる。
「ヒジム邪魔をするなっ! お前でも切り捨てるぞ」
言葉の通りに、一旦引いた剣をヒジムに向かって力一杯振り下ろす。「うわっ!」その威力に、受け止めたまま態勢を崩す。
「アショーカ! よせって!!」
ヒジムの制止にも次の剣を容赦なく振り下ろす。
それを受け止めたのはアッサカだった。
そのままアッサカと剣を重ねる。
ヒジムはその間に態勢を立て直し、剣を左手に持ち替えた。
「こうなったらしょうがないね。ごめんよ、アショーカ」
そう言って右の拳を突き出した。
アッサカの剣に気を取られていた一瞬の隙に、ヒジムの拳がアショーカの額の印を打った。
「うがっ?!!」
妙な叫び声を残して、アショーカはあっさりと床に崩れた。
「?」
アッサカと騎士団が呆気にとられてその様子を見つめる。
「アショーカが正気を無くした時の対処法。側近三人だけが知ってる急所だよ。サヒンダなんか指先一本でやってのけるけどね。アッサカにも後で教えてやるよ」
ヒジムはやれやれと汗を拭いた。
そしてほっと息をつくティシヤラクシタを睨んだ。
「勘違いしないでね。別にあんたを助けたくて庇ったわけじゃないからね。あんたなんかのためにアショーカの手を汚したくなかっただけさ。死ぬのなら自分で死になよね。誰も止めないよ」
ふんと見下す。
ティシヤラクシタは無礼な従者を強気に睨み返した。
「騎士団、その女を夕べ整えたビハールの森の隠れ家に連れて行け。侍女と女官も一緒に幽閉して、ミトラの行方を吐かせろ。
僕とアッサカはアショーカをサヒンダの屋敷に連れて行くから、何か分かったらすぐ知らせろ。分かったな?」
ヒジムの命令に「はっ!」と騎士団は機敏に動いてティシヤラクシタの両腕を掴んだ。
「離しなさい! 無礼な! 私はヴァッサ王の娘よ!」
騎士団は一瞬怯む。
ヒジムは笑った。
「違うでしょ? あんたはカールヴァキー様とミトラ様に危害を加えた罪人だよ。騎士団、遠慮はいらない。その女は魔力も使う。心して見張っておけ!」
騎士団達は今度は躊躇なくティシヤラクシタを掴んで階下に下りていった。
ヒジムとアッサカは、ぐったりと気を失うアショーカを両脇から支えて後に続いた。
「早く西宮殿を出よう。もうすぐビンドゥサーラ王が帰ってくる」
もう帰っているかもしれない。
この騒ぎに気付かれてはまずい。
「スシーマ王子も会議が終わってラージマール様の件を聞いているでしょう」
五麟が使えなくともナーガを使って動き出しているかもしれない。
「アッサカ、お前はミトラが本当に火に捧げられてしまったと思うか?」
ヒジムは白光りのする凶悪な目付きの男に問いかけた。
「いいえ。ミトラ様にはミスラ神の加護があります。
そう簡単に死んだりしません」
それは確信というよりは、全身全霊をかけた願いに近かった。
「だよね。僕も信じないよ。きっと探し出してみせる」
黄泉の国まででも……。
「ラーダグプタ様の様子を探る事が出来ますか?」
アッサカは唐突に尋ねた。
「ラーダグプタ?」
ヒジムは思いがけない名前に首を傾げる。
「ウッジャインの事件の時、ラーダグプタ様はいち早くミトラ様の危機に気付いたそうです。その時スシーマ王子に、第六のマギだと告白されたようです」
「第六のマギ……?」
ヒジムは驚いた。
似た話を聞いたばかりだ。
「なんでも聖大師様の異変には、遠く離れていても気付くとか……」
「確かに……」
イスラーフィルもそうだった。
「もし命を脅かすような事があれば、冷静ではおられぬでしょう」
「分かった。たぶん最高顧問会議で王宮にいるはずだ。このまま隠密となって探りをいれてこよう。お前は先にアショーカをサヒンダの屋敷に連れて戻っててくれ」
「分かりました」
「そして戻ったら、ミトラを追いかけてイスラーフィルが近くまで来ているはずだ。あいつを探して連れて来てくれ」
「イスラーフィル様を?」
今度はアッサカが首を傾げた。
ヒジムは神妙に頷く。
「あいつは第七のマギだ」
次話タイトルは「数魔カルクリ」です




