表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第五章 パータリプトラ 後宮編
175/222

27、アショーカとティシヤラクシタ①

 アショーカは神殿の入り口に現れたティシヤラクシタをじっと覗った。


 頬を紅潮させ優雅に微笑む様子は三年前に出会った時と変わらない。

 年を重ねぬ若々しさは、今では年下のようにさえ見える。


 十五歳だったアショーカには、あまりに美しく、心奪われる容貌だった。

 若い好奇心と、ウッジャインで兄を亡くした空虚感に付け込まれ、誘いにのってしまった。


 当時、兄ヴィータショーカを亡くしたばかりのアショーカは荒れ狂い、すべてに自暴自棄になっていた。

 そこから立ち直るまでの半年間、アショーカの暗黒の時代に側にいた女だった。


 この姫からアショーカは女という生き物の負の部分をすべて教わった。

 嫉妬、執着、打算、依存。


 愛ある間は好ましく愛おしいものが、愛を亡くした今はおぞましい狂気を伴って纏わり付く。

 その粘着質な愛情には恐怖すら感じる。


 もっと大人の男であったなら、そんな狂気もすべて包み込めたかもしれない。

 しかし十代の前途ある青年には疎ましく、嫌悪すら感じてしまう。


 ティシヤラクシタをこんな女にしてしまったのは心変わりをした自分のせいかもしれない。

 その罪悪感が、この姫の暴挙に目をつむらせてきた。


 もう二度と愛情を向ける事の出来ない女への哀れみ。

 それがアショーカの決断を鈍らせてきた。


「アショーカ様。ああ、自らお越し下さるなんて何ヶ月ぶりかしら。

 前回はジャラウカの一才の誕生日だったかしら。

 さあ、お入り下さいませ」


 弾んだ声で自分の来訪を無邪気に喜ぶ様を見ると、決意がゆるむ。

 本当に、目の前の虫も殺せぬような愛らしい姫が、みんなの言うような残忍な事をしているのかと疑問さえ浮かぶ。


「入らせてもらうぞ、ティシヤラクシタ」

 アショーカは神殿に足を踏み入れた。


「どうぞお入り下さいませ。いまお茶の用意を……」

 言いかけて、はたと笑みを消す。


 アショーカに続いてヒジムとアッサカ、騎士団がゾロゾロと続く。


「な、何ですの?

 ここはアショーカ様以外男子禁制ですよ。

 いやだわ、作法も知らないの?」

 ティシヤラクシタは無礼な従者達を睨み付けた。


「いや、悪いがティシヤラクシタ、部屋を捜索させてもらうぞ。

 実は賓客の姫が行方不明で探しているのだ。

 ここに迷い込んでいるかもしれぬ」


 アショーカの言葉にティシヤラクシタの顔がさっと変わる。


「な、何をおっしゃっているの?

 そんな姫など見ておりません。

 私をお疑いになるの?」


「何かの手違いで迷い込んでるかもしれぬという事だ。入るぞ」

 アショーカは有無を言わせず騎士団達を引き連れ、神殿に押し入った。


「おやめ下さい!! ひどいわっ!! アショーカ様っ!!!」

 悲鳴を上げてアショーカの腕にしがみつくティシヤラクシタに罪悪感が募る。


 部屋にいた侍女と女官達も男達の突然の乱入に悲鳴を上げて逃げ惑う。


 居間とおぼしき部屋は紫の蝶と花に彩られ、綺麗に整えられている。

 来客用のテーブルと椅子は入り口近くの小部屋で仕切られ、メインの部屋の真ん中にはゆったりとクッションをきかせた座椅子が置かれている。


 アショーカ専用だと前に来た時に座らされた座椅子は、いつ来てもいいようにシミひとつなく、万全に整えられていた。

 一度しか座ったことのない新品のような座椅子に、尚更居たたまれなくなる。


 悪事がどうであろうと、どんな残忍な事をしていようと、この姫は間違いなく自分を愛しているのだ。


 この姫の唯一の真実が、いつもアショーカを追い詰める。


 報いる事の出来ない自分に、良心が痛む。

 その想いを必死で振り払う。


「騎士団二人は誰も外に出ないように入り口を見張れ。

 三人は侍女と女官を隅に集め調書をとれ。

 あとの者は俺について来い」


 アショーカは命じてズカズカと奥に通じる扉に向かった。


「いやっ!! やめて!! そこは私の私室ですわ!

 夫といえどもこんな無体な!」


「すまぬな、ティシヤラクシタ」


 この手の女が苦手でたまらない。


 涙を浮かべるか弱い女を振り払うより、死地の戦いに向かう方がアショーカにとってはずっと楽だった。

 引きずられるように絡みつくティシヤラクシタの腕をゆっくりほどく。


 ミトラの事がなければ、ここまで強行出来なかったかもしれない。

 折れそうな心を立て直し、奥の扉を開いた。


 その奥には行った事がない。

 そもそも義務感で時節の挨拶に来るだけで、この神殿に泊まった事もない。


 子供が出来たと西宮殿に乗り込んできて、勝手に建てた神殿だった。

 それで気が済むならと、特に問い詰めるつもりもなかった。


「なんだこれは?」


 初めて目にした神殿の内部にアショーカは眉をひそめた。


 迷路のように入り組んでいて、上ったかと思うと下り、下ったかと思うといつの間にか上っていた。

 途中まではティシヤラクシタの私室や侍女や女官の部屋らしき小部屋の扉があったが、次第に窓も無い石造りの通路だけがワザと複雑に堅牢に頂上に向かっている。


 まるで侵入者を惑わせるために作られたような通路。

 そして上に昇れば昇るほどに洩れ漂う熱気。


「入り口があるよ」

 ヒジムが先を行きながら振り返った。


「やめてっ!! そこは神聖な場所なのよっ!!

 勝手に踏み荒らさないでっ!!」


 ティシヤラクシタは走るような速度のアショーカを追いかけ、ぜいぜいと息を切らす。


 入り口の紗幕を上げたヒジムとアショーカは、中の様子に呆然と立ち止まる。


 燃え盛る祭壇と死に絶えた獣の供物の数々。

 ボコボコと音をたてて火を噴く火のひつぎは、何を燃料にしているのかよく燃えている。


 まさか……。


 アショーカもヒジムもアッサカも、辿り着く結論を必死で否定する。


 そんな事があるはずがない……。


 若い女が生贄として火に捧げられているという噂。

 聞いても半信半疑だった。


 実際に目の当たりにして初めて、事態が最悪であると……改めて気付いた。


「あの火は……何を燃やしているのだ? ティシヤラクシタ」

 アショーカは問いかける。


「け、獣の供物です。それとトネリコの葉と……」

 ティシヤラクシタはうつむき答える。


「獣か……。そうだな。

 まさか……人を投げ込んだり……するわけがないな……?」


 当たり前だと言って欲しくて問い詰める。

 しかし、ティシヤラクシタはギクリと肩を揺らし「はい……」と小さく肯定する。


「答えよ、ティシヤラクシタ。

 お前が若い女を生贄にさらっているという噂がある。

 まさかそんな恐ろしい事を……お前がするはずがないな?

 そうだな?」


 ティシヤラクシタは、はっと蒼白になった顔を上げる。

 それが答えだった。


「ミトラを……まさかミトラを……捧げたりしていまいな?」

 アショーカは真っ白になる頭で呆然と問いかける。


「し、知りません。そんな姫には会っておりません」

 怯えたように顔を背ける。


「俺の目を見て答えよ。ティシヤラクシタ!!!」

 アショーカはぐいっとティシヤラクシタの両腕を掴み、顔を覗き込む。


 ガタガタと震えながらティシヤラクシタは視線を落とした。


「アショーカ、血のついたヴェールがあるよ。

 これは東宮殿の侍女の服じゃない?」


 中の様子を探るヒジムが、祭壇のそばに落ちていたヴェールの切れ端を見つけた。


 はっとアショーカは横に立つアッサカを見た。

 アッサカは青ざめた顔を苦渋に歪め答えた。


「ミトラ様は……東宮殿の侍女の服を……着て……いました……」



次話タイトルは「アショーカとティシヤラクシタ②」です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ