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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第五章 パータリプトラ 後宮編
172/222

24、側室ティシヤラクシタ

 ミトラは闇雲に走って、いつの間にか森に迷い込んでいた。


 ほんの少し森に踏み込んだだけのはずが、気付くと薄いもやのようなものに包まれて、どこから来たのか、どう戻ればいいのか分からなくなってしまった。


 靄から抜け出ようとすればするほど、黒い霧に覆われ視界が悪くなる。

 やがて右も左も分からなくなった。


 でも今は恐怖よりもアショーカの視界から逃れた事に安堵していた。


 顔を合わすのが怖い。

 次に浴びせられる否定の言葉で自分は正気を失くすかもしれない。


 きっと無様ぶざまに大声で泣いてしまう。

 そばにいさせてくれと駄々をこねて困らせてしまう。


 だから、このまま誰にも見つからない場所で一生隠れていられればと思った。


 アショーカに現実に突き放されて、初めて分かった。

 そこが帰る場所だと思えたから、自分は希望を持って生きて来られたのだ。


 ウソンの言葉が唐突に思い浮かぶ。


―― アショーカ王子にとったら何の得もない面倒な存在 ――


 その通りだ。


 まんまと連れ去られたミトラを迎えに来る何の理由もない。



「アロン王子……兄上……。

 とうとうどこにも居場所が無くなってしまいました……」


 無条件にいつも愛情を注いでくれた人。

 そんな人はもう、この世界のどこにもいない。


「アショーカ……」


 もうその腕に二度と戻れないのだと思うと無性に寂しい。

 シェイハンを追われた孤独の中で、その腕の温もりだけが唯一の安らぎだった。



「わああああ!!!」


 暗闇に閉ざされたのをいいことに、いつしか声を張り上げて泣いていた。


 どれほどの時間をそうやって泣いていたのか……。


 気付くと、闇の中に白く浮かび上がる姿に、ミトラは泣き腫らした顔を上げた。


 地面に垂れるほどの黒髪に、ひどく白い肌。

 赤茶の目は闇の中では赤ばかりが引き立って、妖しげに美しい。

 長い睫毛は頬に影をつくり、無垢な少女のように微笑んでいた。


「何か辛い事がおありですか? 可愛いらしい方」

 頭の中にさえずるような声が聞こえた。


「良ければ私が聞いて差し上げましょう」

 魅惑的な声と姿に頭がしびれる。


「さあ、こちらにおいでなさい。可愛い人」

 ひやりと冷たい手がミトラの手首を掴んだ。


 少しも力ずくでないはずなのに、何故か逆らう事も出来ない。

 歩いている自覚はないのに、景色は流れて、どこかに向かっている。

 霧が重く積もっているのに、迷いもなくいざなわれる。


 一瞬のような一刻のような妙な時間の経過の後、気付くと赤紫の蝶と花のタペストリーで飾られた部屋の中にいた。

 テーブルを挟んで豪華な肘掛け椅子に座っている。



「そう。スシーマ王子に追い出され、アショーカ王子にも出て行けと言われたの」


 幾何学模様の茶器を手に、赤茶の目がゆっくり瞬きながら頷く。


(あれ? 私はいつの間にそんな話までこの方に……?)


 記憶がおかしい。


「お可哀想に。二人の王子に見捨てられてしまったのね」


 ズキリと胸が痛む。


「さあ、飲むといいわ。嫌な事がすべて忘れられるわよ」


 ミトラの両手には杯が握られていた。

 中には毒々しい紫の液体が入っている。


(こんな物をいつ渡されたのだろう?)


 記憶と時間の流れがおかしくなっている。


 杯に口を近付けると、プンと独特の匂いがする。


(これは……ソーマ?)


 ソーマに似た香りはするが、自分が聖大師様に作っていたものとはかけ離れている。

 ウッジャインのものより更に粗悪なソーマ。


 邪悪な韻がこもっている。


「いりません……」

 ミトラはまどろみの中に流されそうな意識を必死で繋ぎとめて杯を返した。


「うふふ。ダメよ、飲まなくては」

 美しい人は優しく命じる。


「ソーマは飲まない……と……アショーカと約束したのだ」


 ふいに美しい女性の目が険しく吊り上ったような気がした。

 しかしすぐに穏やかに微笑む。


「アショーカ様との約束?

 あなたは見捨てられたのよ。もう関係ないわ」


「見捨てられた……」


 そうだった。

 もう約束など何の意味もない。


「で、でも……これは良くない飲み物だ……」

 辛うじて拒否する。


 徐々に聖母のような優しい顔が暗く歪んでいく。


「うふふ。この神殿で私に逆らえると思っているの? 飲みなさい」


「い、いやだ……。私は帰る。

 そうだ。アッサカがきっと心配している」

 途切れそうな記憶の中でなんとか杯を返した。


「バカね。あなたを心配している人なんてどこにもいないわ」


「そ、そんなこと……」

 そうかもしれないと思うと絶望が心を占めていく。


「さあ、これを飲んで楽になりなさい。

 もう何も恐れる事などなくなるわ」


 体に纏わり付く暗い想いを必死で振り払う。


「い、いらない! 失礼する……」

 足を踏ん張り、立ち上がった。


「聞き分けの無い方ね。では仕方ないわね」


 美しい人は背後に向かって「ギリカ!」と叫んだ。


 すると奥の部屋から片目が潰れて顔半分を踏みつけられたような、背曲がりの大男が現れた。


「ギリカ、おじょうさんにソーマを飲ませて差し上げなさい」


「あい」

 前歯の抜けた大きな口が返事をしたと思うと、ゆっくりミトラに近付いてきた。


「い、いやだ……。いやだ……」

 ミトラは後ずさりをして逃げ道を探す。


 ギリカと呼ばれた大男はミトラの五歩を一歩で縮めて迫り来る。


「く、来るな!」

 部屋を見回し必死で逃れる。


 一箇所にようやく扉を見つけ、駆け出す。


 扉を開けて廊下に逃げ去る。

 迷路のような神殿の中は廊下が曲がりくねっていて、上に下に傾斜がついている。

 逃げ惑ううちに昇っているのか下っているのかも分からなくなる。


 すべての感覚が麻痺しているのだ。


「助けて! アッサカ! アッサカ!

 ……アショーカ!!」


 見捨てられたはずなのに、気付けばその名を叫んでいた。


 のしのしと巨体を揺らして、ギリカが背後に迫る。

 大男の手がミトラの背を、頬をかすめる。


「きゃっっ!!」


 すぐに追いつくはずなのにキヘッ、キヘッと気味の悪い笑い声をたてて追い立てる。


(慣れている……)


 そのなぶり方は初めてではない嫌な落ち着きがあった。

 わざと追い立てて怖がるのを楽しんでいる。


 分かっていても、ただ逃げる事しか出来ない。


「来ないでっ!! 来るなっ!」 


 息を切らしながら走り続け、石畳の廊下につまずき転びながらも逃げ続けた。

 そしてもうこれ以上走れないと倒れそうになった所で広い空間に躍り出た。



「ここは……?」



 円形に広がる部屋の真ん中に、大石を積んだ祭壇があった。


次話タイトルは「地獄の番人ギリカ①」です

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