23、森の精霊
―― お前はもう必要ではない ――
ミトラには、そうはっきりと聞こえたような気がした。
これが本当の現実。
ここはもう自分の居場所ではない。
突きつけられた事実。
自分を支えていたすべてが崩れ去るような気がした。
ここにいてはいけない。
ポロポロと堰を切ったように涙が溢れる。
ここにいたくない。
これ以上の否定の言葉に耐えられない。
次の拒絶の言葉から逃げるようにミトラは駆け出していた。
「ミトラ様っ!!」
アッサカは追いかけようとして、思い留まり、主君を睨みつける。
アショーカはあまりに予想外のミトラの反応に、驚いたまま固まっていた。
「スシーマ王子の宮殿には戻れないのです!」
責めるような言葉にアショーカが瞠目する。
「戻れない? どういう意味だ?」
あの兄がミトラを追い出すはずがない。
「スシーマ様の留守にラージマール様が現れ、追い出されたのです」
「なんだと?」
初めてアショーカの顔に焦りが浮かぶ。
アッサカが珍しく怒りを露にしていた。
女心が分からないにもほどがある。
いくらなんでも言い方があるだろう。
動揺を浮かべたまま、妻を寝所に運ぼうとする主君を追いかけ、更に責め立てる。
「アショーカ様は何故ミトラ様がウッジャインで危険に巻き込まれたかご存知ですか?
なんと言って騙されたのか?」
アショーカはカールヴァキーを寝所に下ろしながらアッサカを見た。
「アショーカ様が迎えに来ていると……。
アショーカ様が待っていると言われ、ミトラ様は危険も顧みず、自ら宮殿を脱出なさったのです」
「俺に会うため?」
驚きをかくせない。
「アショーカ様が迎えに来るのをどれほど指折り数えて待っておられたか……。
ゆうべも一睡もせずにアショーカ様の迎えを待っておられたのに……」
「まさか……ミトラが……?」
会いたさに胸を焦がすのは、いつも自分だけだと思っていた。
「すまぬカールヴァキー。
ミトラを探しに行ってくる……」
青ざめて頭を下げるアショーカにカールヴァキーは微笑んだ。
「はい。どうか急いで見つけて差し上げて下さい」
ミカエルの屋敷を出た所で、アショーカとアッサカはお互いの考えが甘かったと思い知った。
「ミトラの警護はお前一人なのか、アッサカ?」
「はい。ラージマール様が五麟に行くなと命じられましたので……」
「スシーマ兄上は、まだ追い出された事を知らぬのか?」
「おそらくまだ最高顧問会議に出ていて連絡がついてないものと思われます。
アショーカ様こそヒジム様や騎士団の方々は?」
「昨日父上に出会って気まずかったゆえ、今日は目立たぬよう騎士団とヒジムは王宮の外で待たせている。俺一人が隠密のように潜んで来たのだ」
お互いにミトラが屋敷を出ても、お互いの従者が引きとめているものと思っていた。
もし従者がいないと分かっていたら、何を置いてもミトラを追いかけていた。
すぐにミカエルの従者に王宮の外で待機するヒジム達を呼びに行かせた。
西宮殿から出た様子はないので中にいるはずなのに、どれほど探しても見つからない。
ヒジムと騎士団も合流して西宮殿の森を探しながら、ジワリと嫌な汗が滲む。
「まずいな……」
宮殿内の迷子にしては深刻なアショーカとヒジムにアッサカは眉間を寄せる。
「この森には毒蛇か危険な獣でも飼っているのですか?」
そんな話は聞いた事がない。
「毒蛇よりももっとタチの悪い精霊がいる」
アショーカが頭を抱える。
「精霊?」
アッサカは驚いた。
「これだけ探して見つからないってことは……まさかミトラはもう……」
ヒジムも考え込む。
「くそっ! 親父に会うよりも最悪の事態だ。
それを避けるためにミトラを西宮殿に近付けたくなかったんだ。
こうなったら予定より早いが乗り込むぞ」
「乗り込む? 精霊がどこにいるのか分かっているのですか?」
「あそこだよ」
ヒジムが指差す方角には塔のように突き建つ円柱の神殿があった。
森を挟んでミカエルの宮殿の対角に建つ神殿は、どこか禍々しく鬱蒼としている。
王宮の中でも目立って高い塔の上空だけ、なぜか黒雲が渦を巻き、カラスが無数に飛び交う。
闇の使者のように螺旋を描く黒い鳥影が、不吉を漂わせていた。
「ティシヤラクシタの神殿だ」
アショーカは覚悟を決めて神殿を見つめた。
次話タイトルは「側室ティシヤラクシタ」です




