17、商人 ソグド
スシーマがミトラを断ったという話は、数日後にはアショーカの耳に届いていた。
西宮殿の謁見の間には、床一面に広げられた見事な名品の数々と共に、商人とおぼしき流行のキトンを粋に巻きつけた壮年の男が、台座の上のアショーカ王子にひれ伏していた。
「商人ソグド、無事の帰着ご苦労であった。
してこたびの商取引はいかがなものであったか?」
砂板を手にしたアショーカの横では、側近のヒジムが目を輝かせて宝飾の数々を見つめている。
「はっ。こたびは優れた書物を手に入れてございます。
中には先王チャンドラグプタ様にお仕えしたメガステネス殿の記した、ヒンドゥの見聞録などもございます」
「ほう、メガステネスか。
俺も幼少の折会った事があるぞ。
面白そうだな」
王子は手の中の砂板に懐の砂袋からサラサラと砂を流してから、孔雀の羽先で数字を書き込む。
「それから、マケドニアの弓を百ほど仕入れて参りました。
従来の物より格段に扱い易くなっております。
後で試されてみられると良いでしょう」
「ふむ。興味深いな。
気に入れば購入額とは別に褒賞を与えよう。
ざっと見た所、仕入額はこのぐらい。
利益はこれだ。
利益の三割から書物と弓の購入額を差し引けば、上納額はこれになるが異論はあるか?」
アショーカは砂板に書き込んだ数字を次々指し示す。
この王子独自に生み出した数字で表す計算方法は、シューニャという何も無いという数字を含んだ画期的なものであったが、残念ながら今の時点で使いこなせているのはアショーカ本人と、このソグドしかいなかった。
シューニャを含む十個の記号を覚えるだけで、格段に速い計算が出来るのだが、指を立てて数える人々には複雑過ぎて理解が及ばないのだ。
ソグドはアショーカの指し示す数字を見ながら、深く頷く。
それはソグドが事前に試算した額と寸分の狂いもない数字だった。
毎度の事ながら舌を巻く。
この一瞬でどうやって計算したのか。
この王子の頭の中では、小さな玉が無数に動き回り、足すも引くも自在だと聞いた。
しかも万までの玉なら一瞬で読み取れるとの噂だったが、どうやら嘘や誇大ではないのだと感心する。
「まったく異論はございません」
ソグドは大仰に、もう一度ひれ伏した。
「盗賊の被害には会わなかったか?」
砂板を背後に控えていたサヒンダに渡し、決済の証文を作らせる。
「アショーカ様がつけて下さるシュードラの騎士団は素晴らしい使い手ばかりでして、一度シリアの砂漠にて盗賊に襲われましたが、難なく撃退してくれました。
近頃では街道近辺でも騎士団のあの派手な団服を見ると、盗賊の方が逃げていく始末でして、非常に商売がし易くなりましてございます」
このところ、アショーカ王子の庇護のもと商売をやりたがる者が増えている。
決済は明快で迅速。
資金は潤沢。
護衛は最強。
申し分のない身分と信用。
当然のように冨の流れはこの王子の下に集まってきていると、ソグドは商売人特有の勘で感じていた。
「うむ。
王の近衛部隊よりも厳しい訓練をしている。
当然だな」
アショーカの顔から笑みがこぼれる。
ソグドは、珍しく柔らかい王子の笑顔に意外な思いがした。
「ご機嫌がよろしいようでございますな、王子」
「ふん、そなたにはそう見えるのか?
俺は今、やっかい事が増えて、すこぶる機嫌が悪いのだがな」
言いながらも、台座の上から見下ろす顔は上機嫌だった。
「厄介事と申しますと?
また反乱民の討伐にでも行かれますか?」
商人は少し心配顔になって尋ねた。
ビンドゥサーラ王の不興をかっているというこの王子は、反乱のたびに討伐に狩り出され、そのたび商売が滞るのだ。
「そうではない。
面倒な事に敵国から連れて来られた姫を娶らねばならなくなったのだ。
スシーマ兄上が嫌だと言うのでな。
仕方がない。
俺の妃にせねばならぬ」
迷惑そうに言う割りに、やけに嬉しそうだ。
「これはこれは、めでたい事ではありませんか。
さぞお美しい姫なのでしょうな」
「いや、とんでもないブスだ。
チビでガリガリで女らしさのかけらもない。
口は悪いし高慢ちきで可愛げもないときた。
まったく迷惑なのだが、俺が引き取ってやらねばつまらぬ王子どもに下げ渡す事になるからな。
仕方がないのだ」
後ろに控えて聞いていたトムデクとサヒンダが笑いを堪えている。
「あまりに気の毒ゆえ指輪の一つでもやろうかと思うのだが、そなた良い品はあるか?」
アショーカはチラと宝飾品の数々を見やった。
「さすればこれなどいかがでしょうか?」
ソグドは西方で人気がある小ぶりなデザインの指輪を取り上げた。
途端にアショーカの顔から笑みが消える。
「そなた、俺の妃になる女を見くびるかっ!」
大きな地声が耳に突き刺さる。
「は? いえ、まさかそのような……」
突然の剣幕に商人は汗を拭いた。
「一番高い指輪を出せ!
ああ、面倒だ。全部もらおう。
その織物も最高級の物を全部もらう。
美味なる菓子や果物も、あれば全部出せ」
「こ、これは、なんと有難うございます。
よほどの美姫を娶られるようでございますな。
いや、羨ましい」
商人は大喜びで商品を選別し始めた。
「ブスだと申しただろう。
仕方なくもらってやるのだ」
その様子をため息まじりに見ながら部屋に入ってきたのは母のミカエルだった。
「やれやれ、女遊びは去年で飽きたのかと思ったら、また新しい女を見つけたのですか?
すでに三人の妻と三人の息子がいるのですよ。
いい加減になさい」
アショーカは母に詰られバツが悪そうに腕を組んだ。
「き、去年は羽目を外したが、もう女遊びはせぬ。
ミトラは正妃にするのだ。
大事に致す」
「どうでしょうか?
カールヴァキーの時もそのように申したが、妻にも息子にも、もう何ヶ月会いに行ってないのですか?」
会いに行くといっても同じ敷地内に三人の妻と息子は住んでいた。
「赤子は苦手なのだ。
ギャーギャー喚くばかりで、まだ剣も使えぬしな」
(父になるには早すぎた……)
ミカエルはため息をつく。
暴力と権力に憧れ、剣と女を貪り、やんちゃといたずらに明け暮れる。
まだまだ子供なのだ。
しかも、この息子の最大の不幸は、そのすべての才に恵まれているということ。
その気になればすべて手に入るだろう王子を、女も男も放っておいてはくれない。
隙あらば王子の寵愛を得ようとする女達と、闘争の渦中に巻き込みたがる男達。
幼き頃から数と武に愛されていた。
その天賦の才には神が宿っていると囁かれた。
しかし、それは同時に悪をも宿す。
強大な武は、弱き他者を虐げる。
数魔に魅入られた者は、いずれ、人も物も愛さえも数に置き換え、心を失う。
神と悪魔がこの才を取り合い、誘惑と懲罰の混沌に翻弄され続けてきた。
天と地と、善と悪とを行き来するこの王子の揺らぎは、多くの人を惹き付けて止まない。
近い未来、この息子が傾いた方向に、この国は振れてしまうだろう。
それが怖かった。
「今回お話の出ているミトラ殿とは、ミスラ神の巫女姫だというではありませんか。
そなたのような女好きが相手にしていいようなお方ではない。
お断りなさい」
神を纏う巫女姫が大きくどちらかに傾けるのではないか。
漠然とした不安がよぎる。
「な、何を言うのだ母上。
俺が娶らねばもっと下級の王子に娶られるのだぞ」
「どうしても娶るというのであれば、この西宮殿に神殿を建てて、清らかなまま置いておやりなさい」
思いがけないミカエルの言葉にアショーカは憤った。
「な、なぜに清らかなまま置かねばならぬ。
妃なのだぞ!」
「意に沿わぬ男のものになるなど巫女にとって死より辛い事だからです」
アショーカの脳裏に震えながら涙したミトラの姿が蘇る。
「で、では意に沿う男になればいいではないか。
俺様に夢中にさせてやる」
ミカエルはもう一度ため息をついた。
「ならば約束ですよ。
ミトラ殿が納得しなければ一切の手出しはしないと」
「お、おう。当たり前だ。
俺様は女好きだが、嫌がる女を無理矢理我が物にした事などない。
約束してやる!」
母子のやりとりを面白そうに見ていたのは三人の側近だけではなかった。
(ほう、ミスラ神の巫女姫を娶られる。
これはいい事を聞いた)
ソグドは商人らしい計算高さでほくそ笑んだ。
次話タイトルは「王妃ミカエル」です




