18、カールヴァキーとアショーカの出会い③
「まあ、なんてお美しい。
これほど美しい花嫁を見た事などございませんわ」
次々訪れる祝い客の感嘆の言葉も、見事に着飾った女の頭上を通り過ぎていく。
幾重もの紗幕に閉ざされた小部屋で、妹二人に両脇を支えられてカールヴァキーは椅子に腰掛けていた。
自殺せぬよう四六時中見張られて、ついにこの日が来てしまった。
「お姉様、元気を出して下さい」
「パンチャーラ様も会ってみれば、案外素敵な人かもしれませんわ」
「そうですわよ。大国の王様ですもの。玉の輿ではないですか」
妹達の慰めにカールヴァキーは今日初めて口を開く。
「私は……たとえシュードラであっても……アショーカ様が良かった……」
「お姉様ったら、まだそんな事を……。相手は王子様ですわ」
「それに噂では乱暴で残忍な方と言われてますわ。
これで良かったのですわよ」
「アショーカ様を悪く言わないで!」
カールヴァキーは両手で顔を覆った。
「私は、この身も心も、あの方以外に捧げる気はないの……」
(身を穢される前に……何とかしてこの命を終わらせよう……)
心の中で誓った。
「カールヴァキー……」
紗幕の中に父が挨拶に来た。
娘の晴れ姿に目を細める。
「美しいな。こんな綺麗な花嫁など見た事がない」
父はそっとカールヴァキーの手をとった。
カールヴァキーは視線を落とした。
「お父様。長い間お世話になりました。
私はお父様の娘に生まれ幸せでございました。
もう二度と会う事も叶いませんが、心より感謝申し上げます」
今生の別れのような挨拶にコルバ隊長は苦渋を浮かべる。
「愛する娘よ。清らかで一途なそなたが、どれほどの想いでいるか私は分かっておる」
そう言ってぐっと両手で握りこむ。
「!」
カールヴァキーは驚いて顔を上げる。
父は顔を寄せるようにして、そっとカールヴァキーに囁いた。
「苦しまずに死ねる毒薬だ。
耐えられぬほど辛い時には飲むがいい」
「お父様……」
カールヴァキーは涙を浮かべた。
父は分かっていたのだ。
遅かれ早かれ自死を決めている娘を。
それなら、せめて苦しまない方法を……。
それが最後の親心だったのだ。
「ありがとうございます。
この御恩、どれほど感謝しても……」
あとは言葉にならなかった。
「愛しているぞ。
私の命ある限り、そなたの事は忘れぬ」
「私も愛しております。お父様」
ヒンドゥ貴族の結婚式は長い。
朝から次々訪れる祝いも夜まで続いた。
間もなく夫となるパンチャーラが新郎側の祝福を終えて、迎えに来る。
そうして初夜を迎えてから明日の式典で正式に妻となるしきたりであった。
カールヴァキーは手の中の毒薬を握りこんで、運命の瞬間を待った。
せめて父の前で死体を晒す事のないよう、今夜、寝所に移された時。
その時毒を飲もう。
怖くないわけはない。
知らず体が震える。
(アショーカ様……。
せめて、もう一度、そのお姿を見たかった……)
その時、紗幕の向こうが突然騒がしくなった。
きゃあきゃあと女達が騒いでいる。
花嫁側は親族以外女しかいない。
「くせ者!」
「誰か! その者を止めて!」
「花嫁を守って!」
口々に叫ぶ声が聞こえる。
父と兄達の声が聞こえない。
席を外しているのか。
「お姉様!」
カールヴァキーと妹達は手を握り合って立ち上がった。
バタバタという足音と悲鳴がどんどん近付いてくる。
(花嫁攫い?)
ヴァイシャ階級では美しい花嫁が時折被害に合うと聞いていたが、クシャトリアの姫を攫うなど聞いた事がない。親族の武官の男達がいるはずだが応戦している様子はない。
(まさか誰もいないの?)
娘三人は手を取り合って震えながら寄り添った。
足音がすぐそばに迫り、ついに小部屋の紗幕がシャッと開かれた。
「あ!」
カールヴァキーは現れた男に呆然とする。
黒いマントに黒いターバンを横結びにしている。
勝ち気な眉に涼しげな灰緑の瞳。
二年前から時を重ね、より逞しく、背は見上げるほどに高くなっていた。
でも温かみを増した瞳はあの日と変わらない真っ直ぐな輝きを放っている。
「アショーカ……様……?」
カールヴァキーは両手で口元を覆った。
「そなたがカールヴァキーか」
アショーカは初めて素顔を見た姫に、にっと笑った。
あの時と同じ。
その笑顔があれば、何も恐れるものはないと思わせる安心感。
「なぜ……」
せめてもう一度と夢見た姿に視界がぼやける。
「花嫁を奪いに来た」
夢を見ているのだと思った。
ありえない。
そんな奇跡などありえない。
「来て良かった。
こんな美しい姫をパンチャーラのじじいにやるなんて勿体無い」
「まさか……」
こんな奇跡を誰が想像出来ただろうか。
涙が溢れる。
「逃げるぞ! 来い!」
アショーカはカールヴァキーの手を引いてふわりと抱き上げた。
そのまま一目散に逃げ出す。
女達がきゃあきゃあと騒ぐ中に、親族の武官達を押さえるコルバ隊長の姿があった。
「コルバ隊長。もらって行くぞ!」
アショーカは走り抜けながら叫んだ。
「ありがとうございます。
この御恩は私の生涯をかけて……うう……うう……」
涙でぐしゃぐしゃになったコルバ隊長が、右手を胸に当てて拝礼する。
「こんな美しい姫を攫って何の御恩だ! バカものが」
笑って走り去る。
その後ろ姿に、コルバ隊長と兄二人はいつまでも深々と頭を下げ拝礼した。
しばらく路地を走り抜けると、二人の側近が馬をひいて待っていた。
「ヒジム、トムデク、逃げるぞ!」
「こっちからパンチャーラのじいさんが来る。
あっちの路地から行こう!」
アショーカはカールヴァキーを抱いたまま馬に飛び乗り一気に駆け出した。
「アショーカ様……なぜ……。
こんな事をしては、あなた様のお立場が……」
アショーカは腕の中のカールヴァキーを見てにやりと微笑んだ。
「カールヴァキー、子供を作るぞ!」
唐突に断言する。
「ええっ!!」
思いがけない言葉にカールヴァキーは真っ赤になって口を押さえた。
「俺は母上の西宮殿に居候しているただの十五の王子だ。
まだ自分の宮殿もなければ、決まった役職がある訳でもない。
もちろん後宮も持たぬ。
女を囲っても一時的な遊び女にしか出来ぬのだ。
正式に妻として側に置くには、そなたは子を産まねばならぬ。
さすれば母上の下で妻として暮らす事が出来る。
だから今すぐ子を作るぞ!」
「アショーカ様……」
この自分のためにどれほどの心を砕いて幸福の道を探して下さったのか。
自分の立場が不利になるのも厭わず、愚かで一途な娘のためにこれほどの危険を冒して……。
「あのねアショーカ!
もうちょっとロマンチックな言い方は出来ないの?
花嫁略奪なんてキザな事やっといて、子供を作るぞってなんだよ!」
女の身なりの側近が呆れたように馬を並べて愚痴をこぼす。
「アショーカにロマンスを求めたって無駄だよ、ヒジム」
大柄な側近が、ははっと笑う。
「カールヴァキー、しばしの間、隠れ住まいとなるが我慢してくれ」
「我慢など……アショーカ様のお側にいられるなら、どんな場所であっても、私にとっては天国です」
カールヴァキーは初めて晴れやかに微笑んだ。
次話タイトルは「カールヴァキーとアショーカの出会い④」です




