16、カールヴァキーとアショーカの出会い①
吐き気がするような汗と異臭を放つ腕が、逃れても逃れても羽交い絞めにする。
(怖い。怖い。誰か、助けて!)
ショックとむせ返る獣臭で気を失う寸前……。
ブサリッ!!
……と生々しく肉を裂く音がした。
次の瞬間にはカールヴァキーを掴んでいた男がグラリと体を傾け、馬車から転がり落ちた。
引きずられるように馬車の床に膝をついたカールヴァキーの目前に青いマントが翻る。
爽やかな風を乗せて馬車に飛び込むと、舞うように剣を持つ右手が次々弧を描いた。
「ぎゃあああ!!」
と叫ぶ男達の姿は、ヒラリと舞い落ちるマントに隠れて見えない。
「おい、姫君達の目汚しだ。
死ぬなら外に出て死ね!」
マントの男は言うなり、血まみれの男達を馬車から蹴り出した。
「やれやれ、馬車の中が血で汚れてしまったな。
おい、大丈夫か?」
マントの男は呆然と見上げる妹二人のヴェールを覗きこむ。
「おお、こっちにもいたな」
背後のカールヴァキーにも気付いて振り返った。
青いマントを大粒の宝石で留め、同じ青のターバンを横結びにしている。
金細工の剣をスラリと腰にしまい、カールヴァキーのヴェールを覗き込んだ。
実直な父よりだいぶ砕けた服装だが、身なりはいい。
浅黒い肌に勝ち気な眉。
その瞳は灰緑に澄んで、傲慢と温かさを兼ね備えている。
「怪我はないか?
ヴェールごしだと表情が分からぬな」
「だ……だ……大丈夫でございます……」
消え入りそうな声が震える。
「大丈夫って声じゃなさそうだな」
ふっと男は微笑んだ。
その笑顔に救われる。
「そなた、どこの姫だ?
名を申せ。家まで送ってやる」
「こ、近衛部隊、象隊長コルバの娘でございます……」
「おお、コルバ隊長の娘御か。
隊長の屋敷は確かこの丘向こうだったな」
「は……はい……」
「俺はマガダの王子アショーカだ。
もう大丈夫だ。安心するがいい」
「お、王子様……!」
雲の上の人だ。
「おい、ヒジム。外の男達は片付いたか?」
王子は馬車の外に声をかけた。
「二・三人逃したけど、もう大丈夫さ」
女のように軽やかな高い声が返事する。
「トムデク、衛兵を呼んできて賊の始末をさせろ!」
「うん、分かった」
まだ声変わりしてない少年の声が聞こえる。
「サヒンダ、コルバ隊長の屋敷まで姫君達を送り届けるぞ」
サヒンダと呼ばれた青年が険しい顔で馬車の中を覗きこんだ。
「衛兵達に任せたらどうですか?」
面倒そうにため息をつく。
「冷たいヤツだな。
血しぶきを浴びてこんなに怯えているのだ。
早く家に連れ帰ってやらねば、可哀想じゃないか」
「誰が切った血しぶきですか!
面倒事に首を突っ込まぬようにとあれほど申しましたのに」
「仕方ないだろう。
俺が切らねば、この姫達はあの獣のような男達の餌食になってたんだ」
「……ったく! これだから王子と祭りに行くのは嫌なんです!」
「そう怒るな、サヒンダ」
なんだか従者にひどく怒られている王子にカールヴァキーは不安を浮かべる。
「あの……ご迷惑をおかけして……、申し訳……」
か細い声が消え入る。
王子はカールヴァキー達に向き直ると、にっと笑顔を作った。
「こいつは、いつもこういうヤツなんだ。気にしたら負けだぞ」
王子はマントを外すと、血で汚れた馬車の椅子に敷き詰めた。
「これで少しはマシになっただろう。
ほら、座れ。俺達が馬車を先導してやる」
そう言うが早いか、馬車を飛び出て行ってしまった。
馬車がゆっくり動き出すと、カールヴァキーは窓から見える馬上の王子の後ろ姿を見つめた。
父や兄以外に初めて見る男性。
雄々しく軽やかで……。
異臭を放つ獣のような山賊を見た後では、奇跡のような美しさ。
何よりその笑顔がもたらす安心感。
(世の中にはこんな方がいらっしゃるのだ)
カールヴァキーは一目で恋に堕ちた。
その日からカールヴァキーの心はアショーカ一色になった。
コルバ隊長は娘三人を救ったアショーカを大層気に入り、王宮で見かけるたびに娘三人にその様子を語って聞かせた。
反乱討伐にも何度も同行し、十五で総大将になった時の見事な采配を褒めちぎった。
カールヴァキーは日ごと想いを募らせ、いずれは王子の妻になる事しか考えられなくなった。
コルバ隊長も娘の夢に夢を重ね、いつかあの見事な王子の舅になる日を夢見て時は流れた。
しかし、その夢は、ある日唐突に打ち砕かれる。
父の私室に呼ばれたカールヴァキーは苦渋に歪む父から思いがけない言葉を告げられた。
「最高顧問官のパンチャーラ王がお前を側室の一人として迎えたいと、王を通じて申し出てこられた」
苦しげに言ったまま頭を抱えた。
「な! そんな! 私は十二の時よりアショーカ様ただ一人を想って……」
カールヴァキーはわなわなと震えた。
「分かっている。されど王を通じての申し出。
それも最高顧問官だ。断る事など出来ぬのだ。
すまぬがカールヴァキー、私にもどうにも出来ぬ」
「嫌です! アショーカ様以外に嫁ぐぐらいなら死んだ方がマシです!」
従順なカールヴァキーが初めて言葉を荒げ、父に反論した。
「ワシとてアショーカ王子が婿になって下さったらどれほど嬉しいか……。
されど、あの方はそなたの顔を見た訳でもなければ、妻にと望んでおられる訳でもない。
十二のあの事件など、アショーカ様はもう覚えてもおられぬのだ」
「そんな……」
カールヴァキーは目の前が真っ暗になった。
自分がこれほど想っていても、それは片想い。
自分の運命は、父より年上のパンチャーラ王に結びついていた。
その日からカールヴァキーは笑わなくなり、食べなくなった。
一人神に祈りを捧げ、運命を呪った。
「気持ちは分かるがカールヴァキー、それが女の努めなのだ。
諦めて嫁に行くのだ。
パンチャーラ殿は年はいっているが、一国の王だ。
なに不自由ない暮らしを与えてくれる」
「嫌です。嫌なのです……」
カールヴァキーはその日毒草を飲んで自殺を図った。
すぐに侍女が見つけ一命は取り留めたものの、目覚めたカールヴァキーは心を無くした亡霊のように虚ろに天井を見つめるだけだった。
次話タイトルは「カールヴァキーとアショーカの出会い②」です




