15、アショーカの側室達
ミトラはヴェールを被って中庭に対面する一室に案内された。
「まああ! この姫様はシェイハンの!!」
ベッドに座るカールヴァキーの世話をしていたデビが、すぐに気付いて大粒の笑顔で迎えてくれた。
この姫がいるだけで、場が一気に明るくなる。
カールヴァキーは少し痩せてはいたが、乱れ髪一本なく綺麗に髪を結い、以前と変わらぬ美しさで控えめに微笑んだ。病に苦しくとも、最低限の身だしなみを保つ人だった。
「お加減はいかがですか?」
ミトラはそっとその全身を見つめた。
僅かな神通力でその病の源を探す。
だが、分からなかった。
見た事のない病状。
患部を中心にうっすら広がるはずの黒闇は、何故だか体全体に一様に広がっている。
患部が見当たらない。
「皆様の手厚い看護を受け、ずいぶん良くなりました」
力なく微笑む。
「どこが……お悪いのですか? 痛い所は?」
「それが……どこがという訳でもなく、体全体が重いのです」
デビが後を継ぐ。
「西宮殿の森に棲む妖精が悪さをしたようなのですわ」
「妖精が?」
そんな事があるのだろうか?
「ええ。カールヴァキー様の髪を一房切り取っていったのです」
「髪を?」
それは妖精というよりは術者の行う呪の一種のようだ。
「妖精がなぜ?」
「さあ……ヒジム様が言うにはカールヴァキー様の美しさに嫉妬したのではと……」
「美しさに嫉妬?」
それは妖精ではなく悪魔の部類だ。
何故そんなものが西宮殿に?
「でもアショーカ様が退治して下さるそうですから、今しばらくの辛抱です」
「アショーカが退治?」
妖精をどうやって?
疑問ばかりが浮かぶ。
神や精霊に剣は通用しない。
ヒンドゥではバラモン司祭の領域ではないのか?
「それよりミトラ様にお会いしたなら、お願いしたき事がございましたの。
ねえ、カールヴァキー様」
デビに同意を求められカールヴァキーは頷いた。
「お願い? 私にですか?」
「はい。是非にもアショーカ様の正妃になって頂きたいのです」
「ええっ?!」
まだ、妖精退治が気になっていたミトラはすっかり意表を突かれた。
「そ、そういえばデビ殿のお父上のボパル殿も、そんな事を言っておられたが、何故?
世の側室は妻が増えるのを喜ばぬと聞いていましたが……」
「私達はアショーカ様に幸せになって欲しいのです」
「アショーカ様が自ら望んで妻にと想われるのは、あなた様が初めてなのです」
「そうであれば、是非ともその想いを叶えて差し上げたい」
信じられない事を言い出す妻二人にミトラは常識が分からなくなった。
「なにをおっしゃっているのですか。
あなた方も望んで妻に迎えられたと聞いています」
「それは……」
デビとカールヴァキーは顔を見合わせ頷きあった。
「では……、私とアショーカ様の馴れ初めをお話致しましょう」
カールヴァキーが告げた。
◆ ◆
今から五年前。
アショーカ十三歳、カールヴァキーは一つ年下の十二歳だった。
ビンドゥサーラ王の近衛部隊の象隊長コルバは、クシャトリアの名士であった。
少し田舎ではあるが王宮の西、十クローシャにある大きな屋敷に暮らしていた。
愛する妻と息子二人に娘三人。
実直な男は家族を大事にし、娘三人は男子禁制の奥室で蝶よ花よと育てられた。
美しく慎ましやかなカールヴァキーは、その長女として言いつけを守り、奥室を一歩も出る事なく、深窓の姫君として十二の年まで一切の穢れなく成長した。
その美しさは侍女と宦官の召使い、そして家族しか見た事がなかったが、それでもヒンドゥ中に洩れ聞こえるほどであった。
十二のある日のこと、厳格な父が珍しく娘達が街に出る事を許可した。
マガダ国の式典で象隊長として一世一代の大舞台に立つ自分を、是非とも見たいと懇願する娘達の熱意に負け、人ゴミの喧騒から離れた高台の馬車からならと譲歩した。
屋敷で一番広くて頑丈な馬車に乗り、護衛を十人もつけた。
クシャトリアの姫にしては堅固過ぎるほどの警護であった。
それでも馬車から出る事は許さず、ヴェールは二重につけた。
馬車の窓からの視界は充分ではなかったが、初めて外の世界に触れた娘達ははしゃいだ。
「まあ、なんてすごい人でしょう。
ヒンドゥにはこんなに大勢の人がいるのですね」
「見て! お姉様。あの象に乗っておられるのがお父様よ。
なんて御立派なのかしら」
金細工で着飾った象が百頭ほども行進している。
その先頭で指揮するのがコルバ隊長だった。
「本当に。素敵ですこと……」
一番内気なカールヴァキーは小さな声で感嘆を洩らした。
「お姉様、私達もお父様のような素敵な夫にめぐり合えるでしょうか?」
「ええ、きっと。清らかに過ごしていれば……。
お母様のように……」
「カールヴァキーお姉様はお美しいから、きっと素敵な殿方からお声がかかりますわね」
「私はお母様のようにたった一人、愛する殿方に生涯を捧げたい。
一点の曇りもなく、ただお一人だけを想って……」
「お姉様は誰より一途で真面目な方ですもの。
きっと叶いますわ」
「いいなあ、お姉様は美しくて。
ああ、私の夫になる方はどんな人かしら」
夢見がちな少女達は、未来の夫について賑やかに語り合った。
しかしその会話を切り裂くように馬車の外から悲鳴と怒声が聞こえた。
「うわああ!!」
「何をするっ!!」
「山賊だああ!!」
「ぎゃああ!!」
娘三人は驚いて馬車の窓から外を覗き見た。
「!!!」
その凄惨な光景にカールヴァキーは言葉を失った。
獣の皮を着た男達が十数人、護衛の兵を次々切り捨て、辺りは血の海だった。
高台には場違いに豪華な馬車が、かえって山から下りてきた山賊の恰好の餌食になったのだ。
式典に目を奪われていた衛兵達は、突然の背後からの攻撃に不意をつかれ、抗うすべも無く次々に切り捨てられている。
あっという間に人数を失い、立て直す暇もなく全滅していった。
まばらにいた村人達は一目散に逃げ去り、助けに来るものもいない。
「あ……あ……あ……」
娘三人は馬車の中で腰を抜かし、叫び声すらも出なかった。
そしてついに激しい破壊音と共に馬車のドアが蹴り開けられた。
「きゃああああ!!!」
現れた髭もじゃの大男達は返り血を浴びて凶暴な熊のようだった。
一人が中の様子を覗きこんでニヤリと下卑た笑いを浮かべる。
「おい、こいつはいいぜ! 高貴な姫君が三人もいる」
「うっひゃあ、大当たりだぜ。お頭も喜ぶぜ」
「ぎへへへ、おいら姫君ってやつを一度抱いてみたかったんだ」
「けへへへ。存分に遊んだ後は高く売れるぞ。
こいつはめっけもんだぜよ」
男達は口々に勝手な事を言って、ゾロゾロと馬車に入ってきた。
「な……な……なにを……!!」
「お姉様!」
娘三人は馬車の奥に追い込まれる。
「さあ来い! 女!!」
毛むくじゃらの腕がカールヴァキーを掴んだ。
「きゃあああ!!」
「放して!!」
「いやあああ!!!」
三人の娘はそれぞれ腕を掴まれ獣臭のする男に引き寄せられた。
「助けて、助けて! 誰かあああ!!!」
どんなに叫んでも誰も来ない。
馬車の外に垣間見える村人達は、遠巻きに不運な姫達を見守っているだけだ。
今までの静かで静謐な天国のような生活から垣間見える地獄。
自分はどうなるのだろう。
このけだもののような男達に何をされるのか。
カールヴァキーは自分の人生はこれで終わったと感じていた。
次話タイトルは「カールヴァキーとアショーカの出会い①」です




