14、西宮殿のミカエル王妃
東宮殿を出るとすぐにアッサカがすっと隠密姿で現れた。
一部始終を潜んで見ていたらしい。
手打ちにされそうになったら、きっと体を張って助けるつもりだったのだろう。
「大丈夫でございますか? ミトラ様」
アッサカは意気消沈するミトラを気遣った。
「人に憎しみを向けられるというのは辛いものだな」
恐ろしい人だったが、強く生きる女性として惹かれる所のある人だった。
しかもスシーマの母だ。
出来れば嫌われたくはなかった。
「この国で女が生きる為には、たった一人の男に捧げる愛というものが不可欠らしい。
唯一無二の愛がない女は、家の無い彷徨い人にしかなれぬのだな」
アショーカとスシーマがたとえ受け入れてくれたとしても周りが許さない。
「西宮殿にアショーカ様がおられるようです。
このまま向かいましょう。
アショーカ様が心待ちにされているはずでございます」
「そうだろうか……」
話題を変えてもなお、明るい兆しは見えてこない。
本当は夕べのうちに迎えに来てくれるかと、一睡もせずに待っていた。
あの即断即決の男ならすぐに行動するだろう。
ミトラの足でも辿り着くこんな傍にいるのだ。
せめてヒジムでも秘かに送って何らかのアクションを起こすと思っていた。
だが……
アショーカは来なかった……。
その失望が背に重く積もる。
「アショーカは……本当は私を迎えに来たくないのではないか?」
「何をおっしゃるのですか! そんなはずありません!」
全力で否定するアッサカも変だとは思っていた。
王宮にいるのなら昨日のスシーマの到着を知らぬはずがない。
すぐに隠密を使ってアッサカに接触してくると思っていたのに、夕べは何の音沙汰も無かったのだ。
(まさか西宮殿におられぬのか?)
久しぶりの西宮殿に近付いてみると、アッサカはすぐに異変を感じた。
騎士団がいない。
タキシラに本隊が移動したとはいえ、一部は残していたはずだ。
「ミトラ様、様子が変です。
私は隠密に戻りますので、ミトラ様は東宮殿の侍女としてアショーカ様への取次ぎを申し出てみて下さい」
アッサカはこっそり告げると、すっと姿を消す。
ミトラは衛兵の一人に声をかけた。
オレンジの衣装という事はクシャトリア(武士階級)の衛兵だ。
以前はシュードラ(奴隷階級)の衛兵がほとんどだったはずだ。
「東宮殿よりアショーカ王子様への遣いですが、お目通り願えますか?」
門兵はジロジロとミトラを見て、すげなく答える。
「王子はここにおられぬ」
「おられぬ? こんなに朝早く出掛けられたのですか?」
門兵は怪訝に睨みつける。
「何を言っている。
王子はここに泊まられてはおらぬ」
以前より態度が横柄だ。
「泊まっていない? ではどこに?」
ミトラは驚いて尋ねた。
「お前、王宮にいてそんな事も知らぬのか?
怪しいな。ヴェールを取れ!」
まずい。怪しまれた。
物陰のアッサカも肝を冷やす。
「おい! 早くヴェールを取らぬか!」
門兵がミトラのヴェールに手をかける。
万事休すとアッサカが剣を手に姿を現す寸前、門兵の背後から声がかかった。
「お待ちなさい!」
門兵は慌てて背後の人物に拝礼する。
「何の騒ぎですか?」
ヴェールをつけてはいるが、その凛とした声に聞き覚えがあった。
「この怪しい女がアショーカ様にお目通りを願っているのです、ミカエル様」
「アショーカに?」
ミカエルは進み出て侍女の姿を見つめた。
「東宮の方がアショーカに何用ですか?」
変わらず優雅な声音だ。
「は、はい。スシーマ王子様の遣いで……」
咄嗟の出まかせだったが、ミカエルははっと何かに気付いて、侍女の姿を眺め回した。
「わかりました。アショーカなら間もなく見舞いに来る時間です。
私の屋敷で待ちなさい。さあ、おいでなさい」
「しかし、ミカエル様……」
門兵が不安気に止める。
警備が物々しい。
「アショーカから聞いております。心配ありません」
仕方なく門兵は引き下がった。
「いらっしゃい」
ミトラはほっとしてミカエルの後に続いて西宮殿に入った。
中に入っても騎士団の姿はどこにもなく、顔なじみだったシュードラの衛兵もいなかった。
すべてオレンジの制服を着たクシャトリアの衛兵ばかりだ。
賑やかだったミカエルの屋敷も早朝のせいか閑散として、子供の声もしない。
室内はよく整っていて、金装飾の豪華な調度があちこちに置かれている。
ミカエル様らしくない贅沢な置物に見送られ、私室に入ると、そこだけは心地よく品のいい家具に囲まれていた。この部屋だけがしっくりと落ち着く。
中庭に面した小部屋は一人過ごすプライベートな空間らしかった。
人払いをしてからミトラに椅子を勧めると、ミカエルは困ったように微笑んだ。
「アサンディーミトラ殿ですね?」
やはり分かっていたのだとミトラはヴェールを外した。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
歓迎している風ではない様子にラージマールが重なった。
アショーカに唯一無二の愛を捧げられぬ自分は、この美しい人にとっても疎ましいのだ。
そうに違いないと肩を落とした。
「昨日スシーマ王子が到着した事は伝え聞いていましたが、何ゆえ侍女の姿でここに?」
「実は……」
ミトラは正直にすべて話した。
「そうでしたか。ラージマール様が……。あの方らしい……」
そう言って立ち上がると、中庭に向かって声をかけた。
「隠密がいますね? 出て来なさい。
姫の側に控える事を許可します」
アッサカはすっと現れ、ミカエルの側に片膝をついて拝礼した。
「ここは男子禁制。人目につくと面倒です。中に入りなさい」
アッサカは頷いてミトラのすぐ傍に控えた。
ミカエルは席に戻り切り出す。
「ミトラ殿、あなたの事情は分かりました。
ですが、残念ながらあなたをここに置く事は出来ません」
ミカエルの言葉にミトラはしょんぼりと俯いた。
「誤解しないでね。
あなたを不快に思って追い出すのではありません。
今、この西宮殿は、あなたにとって最も危険な場所なのです」
「え?」
ミトラは驚いて顔を上げた。
「アショーカがタキシラに行ってから、この宮殿には毎日のようにビンドゥサーラ王が訪れるようになり、アショーカが使っていた本殿は今、王が寝所に使っているのです」
「ビンドゥサーラ王が?」
ミトラもアッサカも驚いた。
それで警備が物々しかったのだ。
「アショーカも騎士団も追い出される形で、現在はサヒンダ殿の屋敷に滞在しています」
「それで……」
騎士団の姿を見かけなかったのだ。
「今日は幸い最高顧問会議の日です。
それにスシーマ王子が帰って来られたなら夕刻までは王宮殿におられるでしょうが、夜にはここに来られます」
「そうだったのですか……」
それですべてがビンドゥサーラ王の色に染まっているのだ。
「アショーカは毎日、王がいる時間を避けてカールヴァキーの見舞いに来ています。
今日も間もなく来る時間です。
その時一緒に王宮を抜け出すのが良いでしょう。
アショーカとヒジムならうまくやってくれます。
安心なさい」
「アショーカとヒジムが……」
何より心強い二人だ。
ミトラは安堵の息を漏らす。
「それまでここで寛いでいらっしゃい」
ミカエルの笑顔にほっとすると同時に思い出した。
「そういえばカールヴァキー殿の具合はいかがなのですか?」
「少しは良くなりましたが……、そうですね。
カールヴァキーとデビに会って行きますか?」
「はい!」
次話タイトルは「アショーカの側室達」です




