12、スシーマの母、王妃ラージマール
その夕刻、ミトラはユリの馬車に乗せてもらい、侍女に紛れて東宮殿に到着した。
東宮殿に入ると、中庭に大勢の出迎えの人々が待っていた。
麗しいスシーマ王子の帰りを乳母や侍女達は指折り数えて楽しみにしていた。
命じられた訳でもないのに、宮殿中の従者達がほぼ全員、スシーマの前に拝礼していた。
ミトラはユリと共に最後尾に近い列に加わったため、気に留める者は誰もいなかった。
ミトラがここにいる事がバレたら、妃に迎えるしかないとスシーマに言われ、ユリは全面的に協力する事を誓った。
「お役目ご苦労さまでしたね、スシーマ」
一番先頭でスシーマを出迎えたのは、静かな威厳をたたえるサリー姿の女性だった。
さりげなく金糸で縁取りした出しゃばらない濃紺のサリーが、節度ある人だと思わせる。
「長らく留守をしました、母上。
こちらは変わりありませんでしたか?」
「ええ。そなたの代わりに出来る執務は、私がやっておきました」
スシーマの母、ラージマール様だ。
噂通り、賢母の落ち着きがある。
「ありがとうございます母上」
スシーマは恭しく頭を下げた。
「王が明日の最高顧問会議には出席せよとのご命令です。
無事公務は済みましたか?」
「はい。すべて問題なく片付いております」
母親というよりは上司のようだ。
「パトナをウッジャインにやりましたが……、役に立ちましたか?」
後ろにいたパトナが緊張しながら、さっと前に出た。
スシーマはチラリとパトナを見る。
「ええ。いつの間にか頼もしくなりました」
パトナは恐縮して俯く。
自分は役に立つどころか、混乱に陥れてしまった。
パトナの様子にすべてを悟ったラージマールはため息をつく。
「コーサラのユリ殿も確か同行したのでしたね?」
ラージマールは最後尾を見やる。
「は、はいっ! お久しぶりでございます。おば様」
ユリが慌てて前に進み出る。
ユリとラージマールは縁戚だった。
だから幼い頃から東宮殿に出入りが許されていた。
「深窓の姫が僅かな供で実家を離れるなんて感心しませんよ、ユリ」
「も、申し訳ありません」
ユリもパトナも歯が立たない相手らしかった。
ラージマールは一通りの小言を言うと、ふと顔を上げ、ユリの侍女達を見やった。
「そなたの侍女はいつも四人だったはずだが……一人多いですね」
その場の全員がギクリと青ざめた。
恐ろしく目ざとい。
「と、遠出のため、一人多く連れて行きました」
ユリが必死で取り繕う。
「そう? コーサラ殿はそんな事おっしゃってたかしら?」
首を傾げる。
「母上、立ち話もなんですから、旅飾を解いて部屋で話しませんか?
ユリ殿にもしばし東宮殿にて一休みしてからコーサラ王の元に帰るように言っているのです」
スシーマがはぐらかす。
「そうですね。旅の疲れもあるでしょう。では後ほど」
スシーマはもう一度頭を下げて足早に立ち去ろうとする。
パトナとユリも付き従った。
ミトラも侍女に紛れて続く。
その背にラージマールが思い出したように言葉をかける。
「ああ、そうでした。
アショーカ王子がタキシラから戻っているそうですよ」
はっとミトラは振り返った。
(アショーカが……)
久しぶりの名に胸が高鳴る。
しかし、ラージマールと目が合ったような気がして、あわてて前に向き直る。
「聞いています。側室が危篤だとか。
容態はどうなのですか?」
スシーマは平静を保ったまま答える。
「詳しくは知りませんが、回復に向かっているとの事ですよ」
「そうですか。それは良かった」
ミトラもほっと胸を撫で下ろした。
(良かった。カールヴァキー殿は回復されたのだ……)
明らかに安堵しているような背にラージマールの鋭い視線が降り注ぐ。
スシーマは嫌な予感を感じて、逃げるように自室に向かった。
「まずいな。何か感づいたかもしれぬ。
母上は恐ろしく勘のいい方だ」
スシーマは部屋に入るなり、ナーガと側近を集め、対策を練る。
「まさか、いくらラージマール様でもここにシェイハンの姫がいるとは思いますまい」
側近の一人が冷や汗を拭く。
老獪の側近でも王妃たるラージマールには緊張する。
アショーカの母ミカエル様も威厳があるが、慈悲深さが全面に出ていて安らぐ雰囲気を醸す方だ。
一方のラージマール様は謹厳実直を絵に描いたような女性だった。
「いや、母上を侮るな。
ミトラはすぐに東宮殿の侍女の服に着替え、私の部屋の侍女部屋に隠れろ。
私の侍女はすでに言い含ませてあるゆえ、しばらく不便だろうが我慢してくれ。
明日になればアショーカが迎えに来る。
西宮殿のミカエル様なら事情を理解して匿ってくれるはずだ」
つまりはラージマール様は事情を理解して匿うような方ではないという事だ。
「母上は筋の通らぬ事を決して許さぬ。
ある意味父上より恐ろしい方だ」
律儀で生真面目なスシーマとパトナは、まさにあの母に育てられて今に至っているのだ。
「今日は目立った動きをせぬ方がいいな。
おそらくアショーカには、今頃私の到着が伝わっているはずだ。
明日の顧問会議の前に西宮殿に出向いてアショーカと話をつけておこう。
それまでミトラ、侍女部屋で大人しく待っていてくれ。
決して部屋から出るな」
「分かりました」
ようやくアショーカに会える。
何日ぶりだろうか。
スシーマの心配をよそにミトラの心は弾んでいた。
すぐそばの西宮殿にアショーカはいるのだ。
笑顔で迎えに来てくれるだろうか。
いや、あの男の事だ。
とんだ手間をかけさせられたと、怒鳴り上げる事だろう。
それでもいい。アショーカらしい。
話したい事がたくさんある。
ソーマを飲んでしまった事。
とても恐ろしい目にあった事。
同性の友達が初めて出来た事。
そして…。
アショーカに会いたかった事。
危険に合うたび、その名を呼んだ事。
二度と会えないかもしれないと思うたび、心が悲鳴を上げた事。
どんな風に言えば、この気持ちのすべてを伝えられるだろうか。
どんなに怒鳴られても、きっと最高の笑顔でその手をとる。
もう離さない。
次話タイトルは「ミトラとラージマール王妃」です




